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   第五章 〔若返りカプセル・二十年〕

 リビングの中央で真っ赤に泣き腫らした目の若い娘がいた。
 ――歳は二十歳(はたち)くらいだろうか? 色白で華奢な感じで可愛い娘だった。
 姉の沙織とよく似た容貌をしていたが、神経質で険のある沙織よりは、ふんわりして愛らしく、妖精みたいな女の子である。
 それが誰なのか? 愛美にも想像がついた。
「もしかして……お母さんなの?」
「めぐみちゃん……」
「また、あの薬を飲んじゃったの? なんてバカなことを……」
 言い終わらない内に、啓子は愛美にすがって号泣し始めた――。
「お父さんが……お父さんが……離婚するってぇー!」
「落ちついてよ! 何があったの?」
「こんなの……ヒドイわぁー」
 送られてきた〔離婚届〕の用紙を見せて、まるで赤ん坊みたいにワアワアと泣きじゃくっている。
 ――しかし愛美にすれば、そんな紙切れ一枚よりも、二十歳以下になった母親の方が重大な問題である。もしも、このまま元の年齢に戻らなかったらどうするつもりなんだろう?
 それにしても娘の年齢よりも若くなった親ってどうよ? なんだか、妹みたいで可愛いじゃないか。愛美は昔から妹が欲しいと密かに思っていたのだ。
 そういえば……啓子がよく子どもたちに、「お母さんはお父さんに、大学のサークルでひと目惚れされたのよ」とか、「一緒になれないなら、大学の屋上から飛び降りて自殺するって脅されたから、仕方なくプロポーズを受けたの。本当はもっと遊びたかったのに……」とか、そんな自慢話を何度か聞かされたが、今の、この母の容姿を見たら、それだけ夢中になった父の気持ちも分からなくもない。
 たしかに二十歳の啓子は魅力的だ! 
 それにしても歳月とは残酷で怖ろしい、三十五年後にはあんなメタボなおばさんになってしまうとは……。

 母が落ち着くのを待って、今後のことについて母娘で話し合った。
 ――取り合えず。〔離婚届〕には、絶対に判子を押さないと泣き喚く啓子の意思を尊重して、父が家に戻って話し合うまでは、そのままにして置くことに……そして、アメリカに住む長女の沙織とその家族には今回のことは、出来るだけ内緒にして置こうと決まった。
「――で、お母さん。そんな風に若返っちゃって、これからどうするつもりなの?」
「うーん……どうしよう?」
「いつ薬の効果が切れるか分からないけど……」
「愛美、お母さん外で働きたいわ!」
「えっ?」
「だってぇー、お母さん大学卒業して、すぐにお父さんと結婚したでしょう。一度も外で働いたことがないから、お仕事がしてみたいの」
「お母さんが働くの。大丈夫かなぁー?」
「密かに働くのに憧れていたんだ。ねぇ、いいでしょう?」
 そう言って啓子は嬉しそうに微笑んだ。
「そうねー」
 目の前にいるのは、自分よりも年下の二十歳の母なのだ。
 どうしたものかと心配ではあるが、家にばかり閉じ籠ってるのも辛いと思うから《外に出て働くのも、お母さんの気晴らしになっていいかなぁー》と愛美も思っていた――。

 若返って劇的にスリムになった啓子には着る服がない。
 取り合えず愛美の服を着せて貰って、ふたりでショッピングに出掛けた。ランジェリーショップでブラとパンティーを買ったが、バストもヒップも小さくなって、ほんの小さな布切れで隠せるサイズになのだ。指で掴めたお腹の太いぜい肉がなくなっている。
 洋服は愛美の行きつけのブティックで揃えることに――高級ブランドではなく、若者向きのカジュアルでリーズナブルな値段のお店である。
 ブティックの女性オーナーとは顔馴染みの愛美が「田舎から出てきた。あたしの従妹なんだけど、ダサイからイケテル服選んであげてね!」と好き放題に言っている。
 女性オーナーは啓子を上から下まで観察して、
「従妹さん、可愛いじゃない。スリムだしフェミニンな感じの服が似合いそうね」
 そう言って、マネキンが着ていたワンピースやハンガーに吊るあったジャケットを持ってきて、啓子に手渡した。
 それらの服を試着室で着替えて出てきたら、
「おぉー!」
 愛美が感嘆の声を上げた。
「まぁー可愛い! とってもお似合いですよ」
 まんざら、お世辞でもなく女性オーナーが褒めた。
「うん。気にいったから、これ全部貰う!」
 啓子も若返って可愛くなった自分にホクホクしていた。
「ねぇー啓子ちゃん、他にも普段着とか二、三着買って置いたら……」
 愛美に言われて、ジーンズやTシャツ、ブラウスなどコーティネイトして貰った服を十着ほど買った。
 ここ数年、啓子は肥ってきていたので買う服といえば、体型隠しのダボダボした、腰まで隠れる服が多かった。――それが、こんなピチッと身体のサイズに合わせた服を着られるなんて……まるで夢のようだった。服に合わせて靴とバッグもこのお店で選んだ。
 お会計の時、見れば愛美もドサクサにまぎれて自分の服を買っていた。「これも一緒にお会計してね。うちのお母さんからお金を預かってきてるから……。ねっ! 啓子ちゃん」なーんて、調子のいいことを言っている。愛美はそれらしい嘘が上手い娘だ。

 マンションに帰ってから、さっそく買ってきた服に啓子は着替えた。
「愛美、お母さんに今どきのメイク教えてくれない?」
ドレッサーの前で、ひとりファッションショーをしながら言う。
 たしかに、啓子のメイクはおばさん化粧だ。いまだに紅いリップスティックを塗っている。
「そうねー、そのメイクはダサ過ぎるわ!」
「ダサいって?」
 長年、このメイクで慣れている啓子は自分の化粧法に疑問を持ったことがない。歳を取ってきても、若い頃、流行ったメイクに固執するのは、その時代の自分がきっと一番きれいだったという想いが強く――捨て切れないせいかもしれない。
 二十歳の啓子は色白で透明感のある肌なので、ほとんどノーメイクだって可愛い。薄くパウダーファンデーションをはたいて、チークをふんわり、ナチュラルなアイカラーにマスカラはたっぷり塗って、ピンクベージュのリップグロスで艶をだせば出来上がり。
「お母さん、なかなかイケテルよ!」
「へぇー、今どきのメイクってこうやってするんだ。お母さんの若い頃とぜんぜん違うわ」
「そうそう、そのおばさんソバージュも止めて、ストレートパーマかけて、明るい色にヘヤーカラーしたら、もっと可愛くなるよぉー」
 五十歳を過ぎた頃から啓子は、髪にツヤとコシ、そして髪の毛が細ってきてボリュームがなくなってきたので、数年前から定番のおばさんソバージュでボリュームを出してヘアースタイルを誤魔化していた。
 もう白髪染めなんてしなくてもいいんだわ!
「うんうん。それやってみるね」
 すっかり若返って喜んでいる啓子は子どもみたいに、ドレッサーの前でクルクル回って鏡に映る自分を見ている。
 その無邪気な姿を見てると《あぁー、救いようのない天然おばさんで、世話のやけるお母さんだわ!》愛美は心の中でため息をつきながらも……父が居ない今、啓子のことは自分が何とかしてやるしかないのだと……娘として、そういう責任を感じていた。

 翌日、啓子を自分のアルバイト先のイタリアン料理店『ベネチアーノ』に連れて行った。    
 丁度アルバイトが人手不足だったので、愛美の従妹という触れ込みで、啓子を店長に面接をさせたら、一発でオーケーだった。
 何しろ仕事経験ゼロの母に、果たしてアルバイトが務まるのか心配だったが、さすが主婦歴三十年のキャリアが役に立ってか、意外とテキパキと働いている。――見た目は二十歳、中身は五十五歳のおばさんなのだから――。
 そして店のスタッフにも受けが良い。二十歳の啓子ちゃんはマジ可愛いので、注文間違えてもお客も店長も文句を言わない。「あぁー、いいよ、いいよぉー」と笑顔で許してくれている。
 それが不服で何だか許せない愛美なのだ――。
「あんたって要領いいよねぇー。上手いことやってるじゃん」
 娘にタメ口を利かれて、
「だってぇー、啓子ちゃん可愛いんだもーん」
 その返答に、ムッとした愛美にひざ蹴りされた。
「調子の乗るなっ! 本当の歳バラすぞぉー」
 若返った啓子は娘から、すっかりタメ扱いされている。夫との離婚問題で深く悩んでいた啓子だが、外で働くのも意外と楽しいものだと思っていた。





   第六章 取り戻した青春

 イタリアン料理店『ベネチアーノ』で働き出して、あっという間に一週間が過ぎた。
 今日は『啓子ちゃんの歓迎会』と言われ、職場の仲間たちと食事をした後、カラオケに誘われた。――愛美はシフトが違うので今日はお休みになっている。啓子は自分ひとりで若者たちとカラオケに行くのは不安だったが、自分の歓迎会と言われては断るわけにもいかなかった。
 カラオケボックスの中は若者たちの歌声で賑わっていた。カラオケなんて、PTAのお母さんたちと行って以来だし……もう七、八年前かしら……。
 そんなことを思いながら、啓子は『ベネチアーノ』の仲間たち八人とで部屋に入った。さっそくカラオケ好きの仲間がリモコンを持って、選曲番号を入力している。
「啓子ちゃんは何歌うの?」
 ホールの最年長、奈緒美(なおみ)に聞かれたが、「あ……まだ、決まってないんで……そのう、後で……」取り合えず、そう言って誤魔化そうとしたが……困った! 五十五歳の啓子には、最近の若者の歌が全然分からない。
 愛美がスマホで聴いている曲を聴かせて貰ったことがあるが、ラップなんかとても歌えないし、耳がついていかない。
 仲間たちはマイクを握って楽しそうに歌っているが、啓子はひとりだけマイクをスルーして、かなり居心地が悪い。
「ねぇー、なんで歌わないのよ」
 奈緒美が啓子を肘で突いてそう言った。カラオケボックスに入ってから、ずっと飲んでいる彼女は、かなり酔っ払っているようだ。
「歌いなさいよぉー、なにか得意な歌ないの?」
 思わず、《演歌》と答えそうになった。
「あのぅー、あたし、すごく音痴で恥ずかしくて……人前では絶対に歌えないです」
「えぇー! 啓子ちゃんって音痴なの?」
 奈緒美が素っ頓狂な声を出して笑った。
「へえぇー、どんな音痴か聴いてみたい。ねぇーねぇー歌ってよぉー」
 啓子にマイクを突き付けて、しつこく絡んできた。《こいつ、うっとうしい!》これ以上、ここに居たらボロがでそうなので……。
「ごめんなさい! わたし叔母にお買い物を頼まれているので、もう帰ります」
 ペコリとお辞儀して「お先でーす。失礼します!」そう言って、逃げるようにカラオケボックスから飛び出した啓子である。――しばらく歩くと。

「啓子ちゃーん」
 誰かの呼び止める声に振り返ると、後ろから男が追いかけて来ている。
「大丈夫? 送って行くよ」
 その男は確か――石浜さんと呼ばれている『ベネチアーノ』のシェフだった。本場イタリアで三年間修業を積んだという調理人で、まだ若いが厨房を任されて、ひとりで取り仕切っている。あの『ベネチアーノ』の店長でさえ、とても文句が言えない凄腕のシェフなのだ。たぶん歳は三十前後だと思う。
 夜道をひとりで帰すのは、心配だから啓子を家まで送るという石浜と、並んで歩いていた。
「奈緒美はいい奴なんだけど、アルコールが入ると人に絡むんだ。啓子ちゃんに嫌な思いさせてゴメンよ。傷ついたかなぁー?」
「いえ、大丈夫です。気にしてませんから……」
《五十五歳のおばさんが、あれくらいのことで傷つくはずがない》心の中で啓子はそう呟いた。
「カラオケ苦手だったんだ?」
「――人前だとあがって、歌えない性質(たち)なんです」
 そう答えると、石浜は「あははっ」と笑って、
「啓子ちゃんって、今どき珍しい奥ゆかしい女の子だね」
「そうですか?」
「うん。俺さ、実は君が面接できた時からタイプだなぁーって思ったんだ」
「えっ?」
「誰か付き合っている人とかいる?」
 いったい何を言っているんだ、この人は。《実は夫が……》と言いそうになったが、まだ二十歳の啓子ちゃんに、そんな者がいる訳ないし――。そこは適当に笑って誤魔化す。

 マンションのエントランスまで送ってくれた石浜が別れ際に、
「俺さ、将来、啓子ちゃんみたいな人とイタリアンレストラン経営するのが夢なんだ。あぁ……啓子ちゃんは、まだ若いからゆっくりと考えてくれていいよ。俺のことは……」
 そう言って、手を振って、ニコニコしながら帰って行ったが……。
 あれってどういう意味、もしかして告白なのかしら?
《あたしが若いって? あんたこそ、うちの長女の沙織よりも年下だよ》なんだか、若返った途端にいろいろあるなぁーと啓子は思っていた。

 マンションの部屋に帰ると、愛美が、
「遅いなぁー」
 開口一番、文句を言われた。
「だって、お店のみんなと食事してカラオケに行ってたんだもの」
「食事してくるなら、メールくらいしなさいよ!」
 いつも帰りの遅い娘たちに、啓子が言ってたセリフをそのまま返された。――見れば、キッチンのテーブルにオムライスが二人分置かれてある。
「あらー、愛美ちゃんが作ってくれたの? 美味しそうじゃない」
「せっかく、お母さんの分まで作ってやったのに……」
愛美はわざと怒った振りして、頬っぺたを膨らませた。
「ごめん、ごめん……」
 どっちが親だか子どもだか分からない。せっかくなので、愛美の作ったオムライスを食べることに、スリムになった啓子は体重のことを気にせずに食べられる。――そう思っていたが、若い頃の啓子は小食だったらしく、胃袋が小さくて、いっぱい食べられなくなっていた。
 それでも、自分に気を使ってくれている愛美の優しい気持ちが嬉しくて、スプーンでオムライスの山を崩していく――。
「石浜さんって、どんな人?」
「あぁー、あの人は凄いシェフなんだよ。うちのお店は彼の料理の腕で守(も)ってるようなもんだし、それにイケメンだから、女のお客さんにも結構人気あるよ」
「ふーん……」
「石浜さんがどうしたの? なんか言われたの?」
「――告られた」
 ブーッ! 愛美は口に含んだグラスの水を噴き出して、しばらく咳き込んで苦しそうだった。
「ゴホッゴホッ……マジ?」
「うん。誰か付き合っている人いるかって訊かれた」
「――で、お母さん、なんて答えたの?」
「別に……」
「……だけど、それってマズイなぁー、奈緒美さんが、ずいぶん前から石浜さんのことが好きで告ってるって噂だよ」
「そうなの?」
「石浜さんはその気ないみたいだけどね。奈緒美さんって、気が強いからイジメられても知らないよぉー」
「うーん……面倒なことになっちゃったねぇー」
 困ったような顔をしながらも……啓子は《なんだか青春ドラマっぽい》と、能天気なことを考えていた。




   第七章 恋のライバル

 翌日、お店のロッカールームで啓子が、『ベネチアーノ』の制服に着替えていると、奈緒美がやって来て、いきなり「昨日はゴメンね!」と、顔も見ないで吐き捨てるように謝っていった。
 たぶん、あの後で石浜に注意されて、啓子に謝るようにと……言われてきたのだろうか? 明らかに不本意で挑戦的な謝り方だった。
 きっと石浜が啓子を送っていったことが気に入らないのだと思うが、その態度が逆に啓子に火を付けた!《なにさっ! 小娘のくせに生意気な態度だわ》自分の見た目年齢を忘れて憤慨してしまった。
 その後も奈緒美が啓子を睨みつけるような視線を感じていた。たぶん石浜のことが、よほど癪に障って、悔しいのであろう。

 そんな時、お客のオーダーをお盆に乗せて運んでいた啓子が奈緒美とニアミス。すれ違い様に奈緒美に足を引っ掛けられて見事に転倒した。
 料理やグラスの飲みものがホールの床中に散乱して、飛び散ったガラスの破片で啓子は手を切って血を流した。慌てて周りのスタッフたちが片付けてくれたが、あたりは騒然とした。
 啓子は半ベソをかきながら、みんなに、「ごめんなさい、ごめんなさい……」と謝って、出血する傷口を押さえていた。
 厨房から石浜が血相変えて飛び出して来て、店長に向かって「まだ慣れてない子に、こんなたくさん運ばせたら危ないだろう!」と怒って注意していた。
 大した傷ではないが、石浜さんが化膿したら大変だからと……強引に、自分の車で病院まで連れて行ってくれた。

 ――なんと! 石浜の車は赤いフェラーリだった。
 国産車しか乗ったことのない啓子には驚きのイタリア車である。「料理も車もイタリアが好きなんだ。でも……女の子は日本人が一番さっ!」なんて、キザなこと言って照れくさそうに笑った石浜の顔が妙に可愛いかった。  
 ――こっちもイタリア仕込みかな?
 サラリーマンの妻しかやったことのない啓子だが、シェフって案外と儲かるんだなぁーと、主婦らしく所帯じみたことを考えていた。

 外科病院で診察して貰ったが、啓子の傷はさほど大したことはなく。傷口を洗浄殺菌して化膿止めの薬を貰って病院を後にした。
 日頃、主婦業で小さな切り傷なんか、日常茶飯事の啓子にとって、大げさ過ぎて気恥かしいくらいだった。
 だけど、石浜が心配して病院まで付き添ってくれたから仕方ない。
「大したケガでなくて良かった」
「すいません。わたし、ドジだから……」
 奈緒美に足を引っ掛けられたことは、石浜には黙っておこうと啓子は思っていた。
「なんか、啓子ちゃんの頼りないところが可愛いんだなぁー」
「頼りないって……いつも家族に言われています」
 愛美の顔がチラッと頭に浮かんだ。
「そういう女の子に男は弱いんだよ」
 嬉しそうに石浜が白い歯を見せて笑った。

 野生動物の世界には『ベビーシグナル』と言うモノがあるらしい。たとえば、猪の赤ちゃんウリ坊はシマシマ柄で「自分は弱いから守ってね」と大人の猪たちにアピールしている。
 果たして、猪に「可愛い」という感情があるかどうかは疑問だが、取り合えずウリ坊のシマシマ柄を見ると、大人の猪たちは「守ってあげたい」気持ちになるらしい。
 ――啓子の場合、生まれつき『ベビーシグナル』を搭載した女なのある。
 その頼りなさ気が……男の「守ってあげたい!」という父性本能を呼び起こし、そんな気持ちにさせてしまう、不思議な魔力があるのだ。――夫の宏明も大学生時代に、ひと目でその魔法にかかった。
 しかし……その魔法は三十年の保証期間ではなかったらしい。――他に女が出来て、今はそっちの方を「守ってあげたい!」と宏明は思っているのだから。

「お腹すかない?」
 フェラーリのハンドルを握っている石浜が、啓子に訊ねた。
「えっ……すこし……」
「この近くに僕の友人がやっているお店があるんだ。そこへ行こうか」
「あの……石浜さん、お店に戻らなくて、いいんですか?」
 啓子が訊ねると、
「他のシェフに任せて早退しちゃったよ。啓子ちゃんとデート出来る、こんなチャンスは滅多にないからね」
 そう言って、石浜は愉快そうに笑った。

『Una famiglia』イタリア語の〔家族〕という名のお店だった。
 石浜のイタリア修行時代の朋友がやっている。イタリア家庭料理のお店で、十坪もないような狭い店内にはテーブルが五客しかなく、ヴェネツィアングラスのランプシェードなど、イタリア風の調度品で飾られた。シックで落ち着いた雰囲気のレストランである。
 完全予約制で一日に十組しか、お客を取らないという、こだわりのお店なのだ。
 突然の訪店だったが、イタリア修業時代の朋友とあって、ふたりを喜んで迎え入れてくれた。このお店はシェフの高野夫妻がふたりだけでやっているのだ。





   第八章 恋とはどんなものかしら?

 他にお客もいなくて、ふたりは窓際のテーブルに案内された。赤いガーベラを差したヴェネツィアングラスの一輪差しとキャンドルがロマンティックな雰囲気を醸しだしていた。テーブルの上に置かれた、手描きのメニューをパラパラと石浜は捲ってみてから――。
「この店の料理はホントこだわりのレシピなんだ」
「そうなんですか?」
「俺のイタリア修業時代の先輩シェフなんだけど、素材の野菜から吟味して無農薬や遺伝子組み換えしていない食材を集めてるんだ」
「やっぱし! 美味しい料理は素材にこだわるんですね」
 主婦の啓子は野菜の話には興味が湧いた。
「高野さん!『シェフのおまかせコース』お願いしまーす!」
 厨房の方に声を掛けると「おう!」とシェフが軽く手をあげた。ヴェネツィアングラスに注いだお水を運んで来た。高野の妻が啓子の方を見て、
「石浜くんが女の子連れて来るなんて珍しいわね。初めてじゃない?」
「うん。ここは俺の取って置きの店だから、大事な人しか連れて来ないのさ」
「あら、そうなの! 可愛らしいお嬢さんね。わたし高野の家内の理沙子(りさこ)です」
 にっこりと微笑んで挨拶をした。
「啓子です。よろしくお願いします……」
 ――てか、なんで石浜の身内みたいな人と挨拶してるんだろう? なんか可笑しな展開だと思った啓子だったが……。
『Una famiglia』の高野シェフは、石浜より五つほど年上でイタリア修業時代には同じアパートメントで一緒に暮らした仲である。まるで兄貴のような存在でプライベートのことで、いつも相談相手になって貰っている。奥さんの理沙子は控えめだが、よく気が利く聡明な女性である。
 独身の石浜にとって高野夫妻のような夫婦が理想で、いつか自分も『Una famiglia』ようなお店を、愛する人と経営したいという夢を抱いていた。

「啓子ちゃん、ワインは飲める?」
「……はい」
「じゃあ、僕は運転があるから……啓子ちゃんだけグラスワイン」
「石浜さん、女の子にあんまりアルコールを勧めてはダメよ」
 理沙子さんがウフフと笑いながら、啓子の前に赤ワインのグラスを置いていった。
 毎日、1.8リットル紙パックのワインを三日で空ける啓子にとって……これっぽちのお酒では物足りないが……もっと飲みたいとも言えないので、ここは我慢だった。トホホ……。
 石浜が連れてきた彼女が気になるのか、高野シェフが前菜のお皿と一緒に厨房から出てきた。
「シェフの高野です。啓子さんよろしく。今夜はわたしの料理を楽しんでいってください」
「ありがとうございます」
 お澄ました顔で啓子も応える。

 前菜は八鹿豚ロース肉のリクル焼き茄子とトマトソース有機ルーコラ添え、そして雪化粧カボチャの冷製スープだった。パンも手作りで素朴な味わいだ。
 美味しい前菜に《これでもっとワインがあれば……》そう思わずにはいられない啓子だったが……。
 高野シェフは啓子に料理の説明を済ますと、石浜に冗談を言ってからかっている。
「しっかしー、ずいぶん若い彼女連れて来たじゃないか?」
「えっへっへ」
 嬉しそうに照れる石浜を見て《実は中身は五十五歳のおばさんだよぉー》心の中でペロリと舌を出す啓子だった。
「あのねぇー、こいつは車とか派手なの乗ってるけど、意外と真面目な奴なんですよ」
「高野さん、その意外と……て、のは余計なんだよっ!」
 石浜が反発して言い返したが、「あははっ」と高野は笑っている。

 その後、パスタはタリアテッレのホタテ貝柱小エビ、オクラのクリームソース。ホタテや小エビの新鮮な魚介類がクリームソースに馴染んでとても美味しかった。《あぁー、ワインが足りないよぉー》空のワイングラスを睨む啓子である。
 メインの肉料理を食べた後、エスプレッソコーヒーとデザートのティラミスを食べたらコース終了――。
「啓子ちゃん、高野シェフの料理は美味しかっただろう?」
「ええっ、とっても!」
 にっこり微笑んで啓子は答えた。その笑顔にメロメロの石浜は満足そうに頷いた。
 しかし……啓子の頭の中では、《ああ、ワインのお代わりが欲しいよぉ〜》という欲望以外なにもなかった。《ちくしょうー、もっとワインを飲ませろっ!》まるで酔っ払いのオヤジみたいに――。

 帰りのフェラーリの車内では、カーステレオから、今どき風の軽いJポップが流れていた。さすがに音楽はイタリアオペラって言う訳でもないらしい。――てか、『カルメン』とか『椿姫』なんかBGMで流されたら……食後には、ちょっと胃に重過ぎる。
 ご機嫌な石浜は啓子には分からない、イタリア料理の雑学話なんかを取り留めもなくひとりでしゃべっていた。それに対して啓子は「うん、うん……」とテキトーに相づちを打つが、実はちゃんと聴いていない。これぞ! ながねんの主婦のスキルである空返事だった。
 よく見ると、愛美が言うように石浜さんって、結構イケメンかも……。漢流ドラマファンの啓子が、お気に入りの韓国スターともちょっと似ているかも……ハンドルを握る、石浜の横顔を眺めていた。
 お店の厨房で働く石浜の姿はいかにも料理人という感じで、厳しい表情で料理を作っている。まさか、こんなに気さくで陽気な男だとは思わなかった。
 ――もしかしたら、これが啓子だけに見せる石浜の普段の顔だったのかもしれない。

 自宅マンションのエントランスの前に着いて、啓子はフェラーリのドアに手をかけ、
「今日はいろいろお世話になりました。美味しいお料理ご馳走さまでした」
 そして石浜の方を向いて。
「さようなら……」
 と、挨拶をした瞬間。いきなり啓子の手をギュッと石浜が握りしめた。
「啓子ちゃんのこと、本気なんだ!」
「…………」
「君は僕の理想の女性だ。一緒に将来のことを考えてくれないか?」
「えっ? えぇー!」
驚いて、キョトンとしてる啓子の頬に石浜が優しくキスをした。これもイタリア式か?
 その後、しどろもどろ……に挨拶をして逃げるようにフェラーリから啓子は降りた。

 啓子は心臓がドキドキした。
 いくら若返ったからとはいえ、まるで小娘のようだった。
 大学を卒業して、すぐに結婚した啓子は異性とあまり付き合ったことがない。高校は女子高だったし、大学に入ってからは宏明と結婚を前提に交際していたので、当然、他の男性と遊びに行ったりしたことはない。セックスも夫以外とは経験がない。
 それが、今日……夫以外の男性に頬っぺとはいえ、キスをされた!
 啓子にとって天地が引っくり返るほどの衝撃だった。何しろ、世間知らずの箱入り奥さまだから――。
《ど、ど、どうしよう?》動揺して顔が真っ赤になってしまった。


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