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 RESET 

もし、あなたが・・・
若返ることが出来たら何をしたいですか?
若かった頃の叶わなかった夢や、「青春の日々」を
もう一度、取り戻したいと思いませんか?

RESET 〔若返りカプセル〕
一年、五年、十年、二十年・・・どんどん若返りますよ。
そして最後の、「リセット」は、よく考えてから服用ください。

この物語は夫婦の愛や家族の絆、そして人間の優しさを
描いた人間ドラマです。

原稿用紙150枚ほど、やや長めの作品になりました。


(表紙の写真はパブリックドメインです)


   初稿 趣味人倶楽部・創作広場 2010年頃 文字数 55,578字
   カクヨム投稿 2017年6月8日 文字数 56,988字








   第一章 若返り美容法

「あぁー、またシミが増えてる」
 最近、啓子はドレッサーを覗きこんで、ため息をつくことばかり――。
 今年五十五歳、もう女盛りは過ぎようとしていた。結婚当初から専業主婦だった啓子はほとんど世間を知らずに家庭生活だけを送ってきた。そのせいか……微妙に世間とのズレを感じることもある。
 ふたりの娘は成人して、上の娘の方は結婚して初孫も生まれた。心の中では《まだ、お祖母ちゃんなんて思いたくない》そんな気持ちもあった。

 会社員の夫、宏明と今はふたり暮らしである。子どもたちが独立したので定年近い夫と自宅を処分して、こじんまりしたマンションを買った。この不景気のせいで定年後、嘱託で会社に残れるかどうか微妙な状態なので夫も必死だった。いつも帰宅は深夜近くで一緒に食事をする機会もほとんどなくなった。
 夫の宏明は啓子の顔なんて……ここ数年、まともに見たこともないし、夫婦の夜の生活なんて……十本の指で数えても足りるくらい、過去の出来事になってしまっている。
《あたし、ここまま女と認められなくて……年取っていくのかなぁー?》
 そう考えると……堪らなく自分が惨めに感じる啓子だった。
 もっと世間に出ていけば、こんな孤独感もないのだろうが、専業主婦三十年の啓子にはそんな勇気がない。ずーっと、夫、宏明の庇護の元で暮らしてきたからである。

 若い頃、啓子はきれいな娘だった。色が白くて肌のキメも細かくて。よく女友達に「色白は七難隠すってホントねぇー」とイヤミな冗談を言われたくらいだった。飛び抜けた美人というほどではないが、自分でも《まぁー底々の容貌だわ》と思っていた。
 宏明とは大学時代にひと目惚れされて……卒業と同時に、すでに一流企業に就職していた彼と結婚したのである。そういう意味で啓子は自分自身を『勝ち組』だと自負していた。
 ――浮気をしたことはないが、夫の同僚や近所のスーパーや商店街の店主なんかに「きれいな奥さん」と呼ばれて、チヤホヤされていた。ちょっと、鼻が高かったりする。

 それが最近は年齢のせいか、ストレスや紫外線のせいだろうか? 急にシミとシワが目立ち始めてきた。そのせいで毎日鏡を見るのも憂鬱になって、テレビの宣伝で観た、いろんなサプリメントを試している。
 コラーゲン、コエンザイムQ10、ヒアルロン酸、ローヤルゼリー、黒酢などなど……。効果がありそうと思えるサプリメントなら軒並み飲んでみたが……今いち、効いてるのかどうなのか分からない。効果があまり実感できない状態である。
「あぁー、もう一度ピチピチしたお肌に戻りたいわぁー」
 そんな独りごとを、ついドレッサーの前で呟いてしまう。

 ――そんなある日、ネットのオークションを覗いていると……不思議なものが売られていた。
『若返り薬。どんどん若返ります。もう一度、青春を取り戻してください!』
 なによ、これ? ププッ! あんまりベタで嘘っぽい宣伝に思わず噴いてしまった。商品説明の写真にはカプセル薬とおぼしきものが写っていた。こんな詐欺っぽい商品に騙されないわ。
 オークションの設定金額は一円だった。まず、こんな物を競り落とす人間はいないだろう。
 一円かぁ……一円なら……たった一円だし、なんだか面白半分でオークションの画面をエンターしてしまった。
 そのまま啓子は〔若返りカプセル〕のことなんか忘れてしまっていたが……。一週間後に(落札しました)の連絡がパソコンに入っていた。
「あらっ、嫌だぁー落札しちゃったわ!」
 落札した商品を受け取らないとオークションの評価が悪くなるので、無視する訳にもいかず、送料を払って受け取ることにしたが、余計なことをしちゃったと、ひどく後悔しながらだった。

 そして二、三日経ったらポストに封書で何か届けられていた。
 裏を見ると宛名はなく〔若返りカプセル〕とだけ書いてある。――いよいよ怪しい。中を開けてみるとカプセル薬が五錠、それぞれに一年、五年、十年、二十年、そしてリセットと書いてあった。説明書には(数字の少ない順番にお飲みください。リセットはよく考えてから服用することをお勧めします)と、意味不明なことが書いてあった。
「こんな怪しい薬を誰が飲むものですか」
 フンと鼻で笑った啓子は、ダイニングキッチンのテーブルの端っこに封書をほったらかしたまま〔若返りカプセル〕のことは、すっかり忘れてしまった。

 最近、夫の帰宅が遅い。
 ――仕事の接待で深夜までなるとは言っているが、定年間近の社員をここまで働かせる会社はないと思う、どうも怪しい。ここ半年ほど前から宏明の様子が変だと思っている。《もしかしたら女が居るかも知れない》そんな予感がしていたが……直接聞くことも出来ず、シラを切り通したら証拠もないのだから、どうしようもない。
 それが原因で夫婦仲が悪くなっても困る。なんだかんだ言っても啓子は今の生活を捨てる気もないし、出ていく勇気もないのだから――。
 仮に、夫に女がいたとしても啓子は気づかない振りを通すつもりである。どうせ火遊びだろうし……そんなに長くは続かないと思っている。
 今までにも、宏明は女を囲ったり浮気をした過去があったのだ。

 しかし付き合ってから半年くらいになるみたいだし……もしかしたら、相手の女は妻の座を狙っているかもしれない。そんなことを考え出すと、どんどん不安になってきて、啓子はキッチンのテーブルで、紙パック入りの赤ワインを飲んでしまう。
 ここ数ヶ月、寝酒用に買った赤ワインを気が付けば、グビグビ飲んでしまっている。1.8リットルの紙パックが、たった三日しか持たない。飲み過ぎだと分かっていても止める者もいないので、ついつい飲み過ぎてしまう。

 ――今夜も夫が帰らないので、鬱々とした気分で啓子は飲み続けていた。
 もう深夜の二時過ぎ。そろそろ寝ないと……医者に処方して貰った、いつもの催眠剤の錠剤を飲もうとして……泥酔している啓子は間違えて〔若返りカプセル・一年〕を飲んでしまった。
 さすがに間違いに気づいて焦ったが、そこは酔っ払いのこと――。
「毒じゃなければ大丈夫よね?」
 勝手に納得して眠ってしまった。





   第二章 〔若返りカプセル・一年〕

 翌朝、目を覚ますと何ともなかった。
 むしろ、体調は良くなったくらいで、一年ほど前から、啓子は膝の関節痛で苦しんでいたが、今朝は難なくベッドから起き上がり歩けた。――こんなことは一年振りだわ。
 洗面所で顔を洗ってタオルで拭いてる時に、鏡を覗いてビックリ!
「嘘? シミが消えている!」
 昨日、見つけた顔のシミがきれいに消えていた。
 間違えて飲んだ〔若返りのカプセル〕のお陰なのかしら? まさか有り得ないよね――。
 なんとなく気分が良くなった啓子は、いつものように洗濯機を回し、リビングに掃除機をかけて主婦業に精を出した。
 ……昨夜、夫は帰宅しなかったようだ。

 久しぶりに膝が痛くないので、啓子は歩いて、遠くのスーパーまで買い物に出かけた。そこは大型ショッピングモールで、近所のスーパーでは置いていない、高級な食材が売られているのだ。
 夫婦ふたり暮らしだと食事も手抜きになってしまう。最近では夫の帰宅も遅くて、ひとりで食事するのでスーパーの惣菜やインスタント食品で済ますことも多くなった。――これではダメだと啓子も反省し始めている。
 久しぶりに宏明の好きなビーフシチューを煮込んで、パスタやサラダを付け合わせにしようと考えていた。
 宏明の気持ちが自分から離れていっているのは分かっている。――もう銀婚式も過ぎた夫婦だもの……いつまでもラブラブって訳にはいかないわ。
 いくら頭では分かっていても、この寂しさはどうだ! もう夫から女として扱われていない、ただの家政婦でも世間体があるから別れられない……今はそんな状態なのだ。
 啓子はこんな自分が悔しかった! だからといって、どうすることも出来ない、そんな無気力な自分が、さらに情けない。

 スーパーの精肉売り場で国産和牛のブロック肉を買い、サラダのラディッシュやミニコーンの水煮を買った。たまには高級ワインでも飲みたいと酒類売り場のワリナーコーナーで赤ワインをいろいろ品定めしていると、偶然、近所の主婦と会った。
 同じ町内会の役員をしていた時に知り合った主婦だが、おしゃべりで噂話が大好き……あまり好きなタイプではない。
「あらー、奥さんお久しぶり」
 啓子の姿を見つけて手を振っている。ショッピングカートを押して向うからやって来た。
「こんにちは」
 にこやかな笑顔で応える。
「――こんな所で会うなんて珍しいわね」
「ええ、最近、膝の関節痛であんまり遠出しなかったもので……」
「あらっ、そう? 先日、ここでお宅のご主人を見かけたわよ」
「えっ? そう……なの?」
「ええ、あの人は妹さんかしら? 女の人と一緒に買い物に来ていた」
「…………」
「仲良く、ふたりでお買い物していたわよ」
 ニヤリと底意地の悪い顔で、啓子を覗きこんだ。
 ……なんとなく事情を察しての忠告のようだ。
「ええ、主人の従妹なんです! わたし関節痛で行けないので、ふたりにお買い物頼んだの」
 作り笑いで話を取り繕う。そこで動揺して顔色に出したら負けだ! 町内中に「あそこのご主人は浮気しているんですって!」なんて噂を流されかねない。
――もちろん嘘だ。夫が女と買い物していたなんて、啓子は知らない。

 やっぱり宏明は浮気していたんだ。
 しかも、こんな近くで堂々と女と買い物していたなんてぇー、絶対に許せない!
 近所の主婦と別れた後、ワインも買わず……スーパーから啓子は、逃げるように飛び出た。ある程度、予想はしていたが面と向かって、そんな事実を他人から聞かされたらショックが大きい。
 心臓がバクバクした! 気が動転して頭の中が真っ白だ!

 行くあてもないので、結局、自宅マンションに帰って来た。
 啓子はムシャクシャして怒りが納まらない。みんなが知っていて、自分だけが知らないなんて……夫の浮気相手のことを、こともあろうか、近所の噂好きの主婦から聞かされるなんて、屈辱だわ。余計に傷ついた!
 宏明が帰ってきたら、問い詰めてやろうかと思ったが――もしも火に油を注ぐようなことになっても怖い。何だかんだ言っても啓子は夫がいなくては、生活が出来ない女なのだ――。
 もう一度、夫の心を取り戻す方法はないのかしら?

「老けたなぁー」
 ダイニングキッチンの壁に掛けられた鏡に映った自分を見て、思わず啓子はため息を漏らした。
 夫の愛人は若いんだろうか? 美人なのかしら? 宏明の好みのタイプ?
 今の私は宏明の愛の対象でも、セックスの相手でもなくて……ただの同居人に過ぎない。女として悔しい!  その女への燃えるような嫉妬心で身体が熱くなってきた。

 キッチンのテーブルでやけ酒を飲んでいた啓子だが、ふと〔若返りのカプセル〕に目が止まった。
 昨夜、このカプセル飲んだけど何ともなかったわ。――むしろ体調が良くなったくらいだし……もしかしたら、何らかの効果があるのかもしれない。
 まだまだ疑心暗鬼だけれど、ちょっと気になってきた不思議な〔若返りのカプセル〕である。
 五年と書かれたカプセルを指に摘まんで……迷っていたが《どうせ自分なんか、どうなっても構わないんだ!》心の中で叫んだ。自棄っぱちに〔若返りのカプセル・五年〕一気にワインで飲み下した。
 その後、急な睡魔に襲われた啓子は、テーブルにうつ伏して眠ってしまった。




   第三章 〔若返りカプセル・五年〕

 ……どのくらい眠っていたんだろう? 
 ベランダから差す陽が少し傾いてすでに夕方になっていた。通常は昼間からお酒なんか飲まない啓子だが、つい腹が立ってやけ酒を煽ってしまった。
 夕飯の支度をしなければと……テーブルから立ちあがった。自分の姿が映った鏡を見て、驚いた! えっ! これがわたし?
 ダイニングキッチンの鏡に近づいてマジマジと自分の顔を見て、さらに驚いた! 
 顔のシワとシミが減っているし、触ってみても肌の張りや弾力が違う。あきらかに五歳以上は若返って見える。
 ――昨日の自分とは全然違うのだ。
「まさか? 本物の若返り薬だったの!」
 しかも下をむくと二重顎だったのが、顎の周りがスッキリと締まって見える――。
「ま、まさか?」
 慌てて洗面所に置いてあるヘルスメーターに乗ってみたら、
「やっぱし……」

 なんと体重が六キロも減っているではないか。五年前の自分の体重と同じだ――。ここ三、四年の間に急に肥ってきて、どんなにダイエットしても落ちなかった体重が、たった一粒のカプセルを飲んで、それだけで痩せたのだから信じられない。
「お腹のぜい肉も取れて、ウエストもスッキリしたわ!」
 嬉しくて、嬉しくて、狂喜乱舞しそうな啓子だった。何度もヘルスメーターに乗って体重を確かめてみる――まさか? 信じられないが、この若返りカプセルは凄い! 
 一番、啓子自身がその効果を実感していた。

 思いがけずダイエットに成功した啓子は、五年前に買ったお気に入りのワンピースを着て、念入りにメイクをすると、宏明の大好きなビーフシチューを作って帰りを待っていた。
 結婚記念日でもないのに、テーブルの上にはお花を飾り、音楽をかけて。そう、宏明の好きな古いジャズ、ブルーノートの『ラヴァーマン』『マイ・ファニーヴァレンタイン』などムーディ曲をかけて、雰囲気を演出しながら、上機嫌で今か今かと……夫の帰りを待っていたのだ。《きっと、夫はわたしを見て、きれいになったって気づいてくれるはずよ》そんな期待を胸に啓子は待っていた。
 ……それなのに、宏明は十時過ぎにならないと帰って来なかった。

 玄関の鍵を開けて、こっそりと帰って来た。
 昨夜外泊したのでバツが悪く、啓子と顔を合わせたくなさそうだったが……ダイニングキッチンで妻がきれいに着飾って、料理を並べて待っていたのには、かなり面喰らったようだ。
 キョトンとした顔で突っ立っている宏明だが、
「どうしたんだ?」
 今日は何かの記念日だったかぁーと必死で考えている様子だった。
「あなた、お帰りなさい」
 いつになく上機嫌な啓子にも内心ビビっていた。
「ねぇー、あなたの好きなビーフシチュー作ったのよ。一緒に食べましょう」
「う……うん、食事は済ましてきたんだ」
「えっ! そうなの……?」
 先に食べずに、夫の帰りをずーっと待っていた啓子はその言葉にひどく落胆した。
「そう……でも、ビーフシチューだけでも召しあがったら?」
「いや、昨夜は遅くまで会議で……その後は接待なんかで疲れているから、もう寝るよ」
 夫はそれだけ言うと、さっさっと自分の部屋へ引っ込もうとした。
 その態度に、啓子の中でプツンと何かが切れた!

「待ちなさいよっ!」
 啓子の呼び止める声に、ムッとして振り返った宏明。
「なんだぁー?」
「あなた、昨日はどこで泊ったの?」
「昨日か? 朝まで仕事で飲んで、サウナに行って、仮眠してから会社に行ったんだ」
 啓子の顔も見ないで、面倒臭そうに説明した。
「嘘ばっかり、そんなの嘘よっ!」
「なんだと?」
「あなた、女が居るんでしょう? 浮気してるのね」
「…………」
「近所の奥さんがスーパーで女と買い物してたって言ってたわよ!」
「それで……」
 別に動揺した風もなく、平然とした態度が余計に啓子を苛立たせた。
「なによっ! 浮気して悪いとも思ってないの?」
 ヒステリックに叫ぶ妻を宏明は冷静な顔でじっと見つめていた。
「あたしに謝ったらどうなのよっ!」
 興奮した啓子は宏明に向かって、大声で怒鳴った。
「分かった! 俺は悪いと思ってないから、もう家には帰ってこないさ」
「えっ! 何よ、それどう意味なの?」
「別居しよう。必要な荷物だけ持って俺が出て行くから……」
「……あなた、ちょっと待ってよ!」
 宏明の意外なほど、頑と態度に面喰ったのはむしろ啓子の方だった。まさか夫が出て行くなんて言い出すとは……予想もしていなかったからだ。
 そう言うと宏明は自分の部屋から着替えや書類などを旅行鞄に詰めて、さっさっと家から出て行ってしまった。――たぶん、以前から心づもりしていたのだろうか……。

 ……わたしは捨てられたの?
 余りのことに茫然自失の啓子は、宏明を引き留めることさえ出来なかった。
 そのまま床に崩れるように啓子は泣いた。三十年以上も連れ添った夫から、いとも容易(たやすく)自分は捨てられてしまったのだ。
 信じられない! まるで夢を見ているようで現実のことだと思えない。
 宏明の携帯にかけて、なにか喋ろうかと思ったが頭が混乱して、言葉が出てこないし、今だと何を言い出すか分からない自分が怖かった。啓子は自分を捨てた宏明よりも、自分を捨てさせた宏明の相手の女が憎かった!
 今日のわたしは若返ってきれいになっていたはずなのに……夫は気づいてもくれないし、全く興味すらわたしにはない。きっと相手の女はずいぶん若いんだわ。
 近所の主婦に幾つくらいの女か聞けなかったのが残念だ。何しろ従妹と言った手前、その女の年齢容姿など聞けなかったのが悔しい。
 六十歳近い夫が、夢中になるのだから……四十代くらいかも知れないわ。
 憎らしい、憎らしい、その女が憎らしい!

 啓子は〔若返りカプセル・十年〕を指で摘まんで、水も飲まずに唾で飲み下した。途中、食道に詰まるような感じがして苦しかったが……慌てて、グラスのワインで流し込んだ。
 いつものことだが、カプセルを飲んだ直後に急激な睡魔に襲われて、啓子はそのまま床に倒れ込むようにして眠ってしまった。





   第四章 〔若返りカプセル・十年〕

 わたし、どのくらい眠っていたのかしら? 
 あのまま床で眠ってしまったけど、ベランダから差す陽の加減から、どうやらお昼過ぎみたいだ。
 啓子はスクッと身軽に立ち上がった。なんだか身体が軽くなったような感じがする。
 そして鏡を見た瞬間、啓子は驚愕して言葉を失った!
 こうなることは覚悟していたが……まさか、こんなにも見事に若返った自分と対面するとは思わなかった。たぶん、一年+五年+十年=十六年は若返っている。
 今、五十五歳だから十六歳引くと三十九歳ってこと? 信じられない。まだ三十代の自分に戻れるなんて……シミもシワもほとんどない。白髪だってまだ生えてなかった。――あの頃のわたしだわ。

 丁度、子育てもひと段落して、少しゆとりが出てきた頃だった。当時のママ友の何人かは育児も終えたからと再就職する人も多かったが、啓子はずっと家庭に居て、カルチャーセンターで趣味の絵画教室に通ったり、パソコンを習ったりしていた。
 子どもの学校を通じて親しくなった、PTAのお母さんたちとレストランでお昼のランチを食べながら、夫や姑の愚痴を言い合っていたんだ。
 あぁー、懐かしいなぁー。
 まさか、この歳で夫に浮気されて捨てられるなんて……思ってもみなかった。そう、あの頃は夫とも週に一、二度はセックスだって合ったし、わたしを愛してくれていたのに……。
 もう一度、ここから人生をやり直したいと啓子は心から願った。

 その時、玄関のドアがガチャと開く音がした。
 まさか、宏明が帰ってきたの? どうしよう急に胸がドキドキする!
「ただいまー」
 それは、二女の愛美(めぐみ〉の声だった。去年、大学を卒業したが良い就職口が見つからないとフリーターをしながら、実家の近くにワンルームマンションを借りて自活を始めていた。
 イラストを描くのが好きで絵の勉強をしているようだ。仕送り代わりに親に家賃を払って貰っているので、アルバイトしながら気ままに暮らしている。
 時たま、気が向いた時にクリーニングに出して貰う服など持って自宅へ帰って来るのだ。
 長女の沙織(さおり)は真面目で几帳面な性格で結婚して、今は海外で暮らしている。長女と比べて、愛美はマイペースで《我、関せず》な性格である。数年前から、水面下で両親の不仲は知っているようだが、別に気にする風もない。

 ドアを開けて、ダイニングキッチンに入ってきた愛美は、見知らぬ女を見た瞬間、驚いて一歩後ずさりをした。――しばらく、ふたりは見つめ合って。
「誰……?」
「めぐみ……」
 啓子は訴えるような目で、我が子を見た。
「……おかあさん?」
「そうよ。愛美ちゃん! お母さんなのよ」
「どう……したん?」
 世にも不思議そうな顔で、愛美は母親を凝視していた。
 そこに立っている人は小学生の頃に見ていた『お母さん』の姿だった。母の啓子は色白で上品な容貌だったので、小学生の愛美にとって、ちょっと自慢の母親であった。参観日におしゃれした啓子が後ろの方で、小さく手を振ると嬉しくて張り切ってしまう。
 姉の沙織は母親似で色白で華奢だが、愛美はどちらかというと父、宏明に似て大柄でガッチリした体形でお世辞にも美人とは言えない――。
 愛美は、母啓子が長女の沙織を産んだ後に、二度流産をして生まれた子だったので、姉の沙織とは八つも歳が離れているので……二女とはいえ、ひとりっ子みたいに育った。
 大人しいけれど、芯があって自立心の強い愛美を、啓子はいつも精神的に頼りにしているのである。

 ――啓子は愛美に自分が若返った経緯(いきさつ)を話した。
 今さら愛美に隠し立てしても仕方ないので、宏明に女が居て、それでケンカになり、お父さんが家を出て行ってしまった。お母さんは、お父さんに捨てられたと泣きながら娘に訴えた。
 世間知らずの啓子は娘たちにもよく叱られる。いわゆる天然で世間と微妙にズレているらしい。
 人生の選択肢をいつも宏明に委ねてきた。今回の『別居』だって、一方的に宣言されて、反論することもなく、従うしかない啓子だった――。
 三十年間、平穏な『主婦の座』に設えてくれた宏明には感謝すべきであろうか?
 生活のために外に働きに出た主婦たちはそれぞれ大変そうだった。世の中の、波風に打ちつけられることなく、宏明の庇護の元で生きて来られた啓子は幸せな妻だったと言えよう。

 愛美は啓子の話を途中で遮ることなく、相打ちしながら聞いていた。話の途中で口を挟むと……啓子の話があっちこっちに散らばって収集がつかなくなるのを知っているからだ。《いつまで経っても、子どもみたいな頼りない親》これが日頃、愛美が啓子に抱いてる感想である。
 ひとりでは何も出来ない母親だけど……なんとかしてあげなくっちゃー。
「その薬はどこにあるの?」
 愛美に問われて、まるで点数の悪いテストを見せる子どものように、娘に〔若返りカプセル〕を見せた。
「これ、普通のカプセルに見えるけどなぁー。それにしても信じられない効果だわ!」
 マジマジと啓子の顔を観察して愛美が感心して言った。
「そうでしょう、ねっ、お母さんスッカリ若くなったでしょう?」
 能天気に喜んでいる啓子を見て、愛美はどうしようもないバカ親だと苦笑した。
「お母さん、なに暢気なこと言ってるのよ! もし、その薬に怖ろしい副作用があったらどうすんの? たとえば、リバウンドで二倍歳を取るとか……」
「えぇー! そんなことになったら、どうしよう?」
 急に不安になって啓子はオロオロした。
「とにかく……しばらく様子を見ましょう」
「……うん」
「お父さんも居ないんだったら、お母さんも心細いだろうから、しばらく、あたしがここに泊ってあげるわ」
 娘にそう言って貰えて、少し安心した啓子だった。

 あれから一週間経ったが、啓子は若返ったままで、特に副作用とか出なかった。宏明はあれから一度も家に帰って来ない――。
 急に若返った啓子は近所の人に不審がられるといけないので、外出も出来ずに家の中でひっそりと暮らしていた。これではせっかく若返ったのに意味がないと愚痴をこぼすと、思いっきり愛美に怒られた。
「何言ってんの! 急に若返ったこと、近所の人にバレたら不審がられるでしょう? 変な目で見られてもいいの?」
 確かに愛美の言う通りで、いつ元に戻るか分からないが、これは秘密にして置いた方が良さそうだ。
 一度、ゴミ出しにマンションの部屋から出たら、隣の主婦と啓子はエレベーターで鉢合わせになった。ジロジロとこちらを見ていたので「姉はアメリカの長女の所に行っているので、わたし留守番にきてる妹なんです」と説明した。
 たしかに本人だから顔は瓜二つなのに、歳だけがかなり若い。そんな嘘を付くしかない。  もし知り合いに会ったら、そう説明するようにと愛美に言い付けられていた。

 やっと――夫から手紙がきた。
 丁度、家を出て行ってから十日目だった。それまで啓子は宏明に連絡を取らなかった……。
 若返って、こんな状態を見られるのは問題だったし、いずれ頭が冷えて帰ってくるものとタカを括っていたのだが……。
 しかし、夫の決意は強かった。手紙を開けると〔離婚届〕の用紙が入っていた。しかも宏明の署名捺印入りであった!
 あまりのことに驚いた啓子だったが、同封の便箋にはマンションの権利書、銀行の貯蓄、株券などの全て財産を啓子に与えると書いてあった。『自分は何もいらないので、黙って離婚届の用紙に判子を押して、役所に提出してくれ。それだけが俺の望みだから……』と宏明の自筆で書かれていた。――夫はこんな歳(六十歳前)で自分と別れて、丸裸になってまで一緒になりたい女がいるのだろうか?
 信じられない! 嘘よ、こんなの!?
 ただの浮気なら黙って目を瞑るつもりだった啓子にとって、夫から送られた〔離婚届〕の用紙は、まさに晴天の霹靂ともいうべき、予想外の行動だった!

 夫の署名捺印入り〔離婚届〕を目の前に突きつけられて、啓子はパニック状態になった。――もう何が何だか分からない! 宏明と離婚するなんて考えられない! 自分はこれからどうやって生きていけばいいのか分からない!
 人生の選択肢の全てを宏明に委ねてきた啓子には、こんな事態にどう対処すれば良いのか、自分では考えられなかった。 
「あぁー、神様! お願い助けてー!」
 泣きながら、神様に祈りながら……啓子はグビグビとお酒を飲み始めた。
 娘の愛美は今日はアルバイトで、その後、友人たちと食事に行ってカラオケをするから、朝帰りになると言って出掛けたのだ。
 もう誰もお酒を止める者がいない、傷心の啓子は正体を無くすまでお酒を煽った。
 そして酔っぱらった勢いで、あれを飲んでしまった! ついに〔若返りカプセル・二十年〕という魔の薬を……。


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