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   第三章 【 taboo word 】


 身を切るような冬の冷気。指先とつま先が凍えて感覚がなくなる。剥きだしの耳は冷たい風に晒されて千切れそうに痛い。自転車のペダルを漕いで、優衣は今日も朝刊の配達を終える。
 高校卒業後、就職活動に失敗した優衣は、近所の新聞店で朝刊の配達のアルバイトをやっている。人見知りで人間関係が苦手な優衣は誰とも話さないでひとりでやれる、この仕事を気にいっているが、朝が早いのと冬の寒さはさすがに辛い。
 まだ夜も明けきらない早朝に優衣はこっそりと家に帰る。
 父の部屋からイビキが聴こえる。まだ父は眠っているようだから起こさないように……そっと忍び足で二階の自分の部屋に戻る。もしも寝ているところを起こそうものなら、寝起きの悪い父に怒鳴られるから――。

 優衣は古い二階建ての分譲住宅に、父の辻本義男(つじもと よしお)とふたりで暮らしている。母は去年の暮れに、父とけんかをして家を出ていってしまった。
 義男は軽貨物で運送の仕事をしているが、この不景気で仕事の注文も思うようにない。働いていた母の収入もなくなり――辻本家の生活は貧窮していた。
 義男は酒も飲まない小心な男だが、仕事の憂さを家族にあたることで晴らそうとするタイプの人間だった。家族に対して文句や愚痴が多く、気にいらないことがあると大声で怒鳴ったり、手を上げることもしばしあった。
 母が出ていった今、優衣は家事と父の世話を任されている。

 優衣は不機嫌で短気な父が怖かった――。
 早朝の仕事で昼間は寝ていて、夕方から早朝にかけて起きているが、出来るだけ父とは顔を合わせたくなかった。
 日常の生活態度について、義男は口喧しく小言をいう。少しでも優位が口応えしようものなら、義男の平手打ちが容赦なく飛んでくる。優衣のような繊細な少女には毎日が恐怖の連続だった。
 そのせいで情緒不安定になって、自分さえいなければと……自己嫌悪に落ち込んで、その苦しみから逃れるために、自分の身体を傷つける自傷行為リストカットをやってしまう。
  まるで出口のない暗闇のトンネルを彷徨うような、ぎりぎりの精神状態だった。

 そんな優衣の唯一の趣味は詩を書くことである。
 苦しい時、悲しい時、寂しい時……詩を書くことで自分自身を慰めてきた。心の中を吐露することで、少しでも浮き上がろうとしていたのかも知れない。
 ルーズリーフに書き込まれた、優衣の詩。


     【 水底 】

   悲しみは 涙となって溢れだし
   しょっぱい味のプールになった
   わたしの苦しみは終わらない
   涙のプールに落ち込んで
   どんどん深みに沈んでいく
   どんなに足掻いても
   浮かび上がることができない
   この水圧から逃れられない
   水底から見える空は
   あんなに明るくて
   手を伸ばせば掴めそうなのに
   わたしの悲しみは終わらない
   このままプールの水底で
   息を止めて沈んでいたい
   まるで水死体のように


 義男も昔はあんな気難しい人間ではなかったが、可愛がっていた長男の健人(けんと)を交通事故で亡くして、その後、自分も仕事で腰痛になったり、仕事が減って家計が苦しくなったり、妻が家出したりと立て続けの不幸の連続に、すっかり心が荒んでしまったのだ。

 優衣はいつも亡くなった兄の健人のことを想っていた。
 幼い頃から気が弱くて引っ込み思案の優衣は、五歳年上の兄の背中に隠れるようにして生きてきた。健人は学校の成績も良く、スポーツ万能で、明るく元気でみんなの人気者だった。
 優衣のこともよく可愛がってくれた。健人は兄だけど、憧れの異性でもあった。《大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい》それが幼い頃の優衣の口癖だった。世界一大好きな男性はお兄ちゃん健人なのだ。
 家族にとって太陽のような存在だった健人が、バイク事故で急死したのは三年前の冬のことだ――。道路をバイクで走行中、後ろから追い越してきたトラックに追突され、反対車線に弾き飛ばされて、対向車に轢かれて即死だった。

 健人の葬儀の日、父も母も悲しみで打ちひしがれていた。
 出棺の時、優衣は兄がくれた白いクマのぬいぐるみを《優衣だと思って一緒に連れて行って……》泣きながら、兄の棺の中に入れた。
 その時だった、父義男の呟く声が聴こえた。「なんで健人なんだ? 優衣だったら良かったのに……」はっきりと耳に聴こえた。義男は健人の代わりに優衣が死んでくれたら良かったのに――と、そう思っていたのだ。
 日頃から、父は長男である健人に大きな期待を持っていた。それに比べて、優衣には冷ややかだった。大事な健人が死んで、要らない子の優衣が生きてることが、義男には納得できなかったのだろうか。――そして、父の言葉は鋭いナイフのように優衣の心に突き刺さった。
 その時のショックで優衣は引き籠りになり学校も不登校になった。
 それから家族の歯車が狂い始めた、《お兄ちゃんが死んでから、うちの家族はバラバラになってしまった》優衣の嘆きも天国の兄には届かない。両親の仲も悪くなって、ついに母が家を出ていってしまった。
 あれから一年になろうとするが、母から優衣の元になんの連絡もない《お母さんは優衣のことを捨てたんだ!》悲しくて、寂しくて、耐えられない日々だった。

  あの時、父が呟いた「なんで健人なんだ? 優衣だったら良かったのに……」その言葉は――。
 親として決して言ってはいけない言葉だった。

 優衣のルーズリーフに悲しみの詩がひとつ。


     【 taboo Word 】

   君が天使なら
   私が悪魔になって
   その綺麗な翼に傷をつけよう

   もしも君が悪魔なら
   私が天使となって
   君の罪に裁きを下そう

   これは 君を傷つけるためだけ
   ただ そういうゲームなのさ

   理不尽は【 taboo word 】
   もう 逃げ場なんかないんだ

   世の中には善も悪もないのさ
   在るのは悪意に充ちた
   自己満足だったりして……

   18782+18782=37564
   イヤナヤツ+イヤナヤツ=ミナゴロシ
   ほら 素晴らしい数式だろう?

   全ての罪を懺悔するがいい
   絶望の淵までゲームは終わらない

   理不尽は【 taboo word 】
   発狂しそうな太陽を投げつけた


 二階の優衣の部屋は六畳の和室でベッドと机と本箱がある。女の子の部屋にしては、かなり殺風景だ。部屋に余計なものを置かない主義の優衣にはこの方が落ち着く。
 赤い綿入りの袢纏を羽織り、小さな電気ストーブにかじりつくようにして暖を取る。冬の冷気で身体の芯まで冷え切っているから、なかなか暖まってこない。
 自動販売機で買ったホットココアをひと口飲むと、温かな甘さが口の中に広がって、ほっとするひと時だ。――それは、一日の内で優衣が安らげるわずかな時間だった。

 ふと、昨日ゲームセンターで会った、廣瀬圭祐のことを考えていた。《あの人、なんで泣いたんだろう?》あんなスーツを着たサラリーマン風の立派な大人が、まさか涙を零すと思わなかった。
 ――きっと、ひどく傷ついているのだろう。
 その婚約者の人が、今でも大好きなのかもしれない。だったら《あの人は可哀相だなぁー》と優衣は思った。あまり異性には興味のない奥手な優衣だが、圭祐のことはちょっと気になった。
 それというのも、圭祐は優衣の亡くなった兄健人に雰囲気がよく似ていたからだ、ゲームセンターで白いクマのぬいぐるみを渡された時、お兄ちゃんと似ている! と一瞬、茫然となったほどに――。
 昔、健人が優衣のために白いクマをUFOキャッチャーで取ってくれた時も、昨日と同じようにベンチに座って待っていたら、健人が「これ、取れたよ」と言って優衣に渡してくれたのだ。そのシチュエーションさえ同じで、まるでデジャヴのようだった。――兄健人の姿がダブって見えた。
 今朝、昨日のお礼にメゾン・ソレイユの七〇七号室のドアポストに、優衣の小さな詩を書いたメモと一緒に朝刊を入れてきた。《えへへ、ちょっと恥ずかしいけど、あの詩を気にいって貰えたらいいなぁー》そんなことを考えて、ひとり照れ笑いをしていた。

「優衣、優衣―!」
 突然、階下から優衣を呼ぶ怒鳴り声がした。
 父が起きたようだ。今から朝食を作りにいかなければならない。ゆっくりと優衣は降りていく、暗く冷え切った階段の底には絶望的な日常しかなかった――。






   第四章 歩き疲れた道


 太田サヨの一周忌なのでお墓参りにいかないかと、里見涼子のパソコンにメールが届いた。メールの送り主は一年前、サヨの亡くなった事情を詳しく聞かせてくれた、あの時のおばあさん、田村カツエ八十一歳からである。
 その後、涼子はカツエの居るグループホームへ何度か面会にいって、ふたりはすっかり仲良しになった。
 カツエは元気なおばあさんで、短歌、社交ダンス、カラオケ、日舞と趣味が豊富で好奇心が強い。七十歳過ぎからパソコン教室へ通いパソコン操作も覚えて、今はウェブサイトのブログに自作の短歌などを載せている。さらにTwitterやFacebookなども始めたようで、ネットでの交友関係もかなり広い。
 カツエのノートパソコンに涼子のメールアドレスを登録しておいたので、時々こうやってパソコンにメールを送ってくる。スマホは画面が小さいので文字が打ちにくいからと、やはりお年寄りにはスマホよりパソコンの方が使いやすいようだ。

 カツエの信条は『人生楽しまなくっちゃ損よ!』である。
 その精神でいろんなことにチャレンジするタイプの人間なのだ。七十五歳の時にスカイダイビングをやってみたいといい出して、家族に慌てて止められたというパワフルおばあさんなのだ。
 涼子が面会にいくと、カツエはとても喜んでくれる。
「あたしは若い人とおしゃべりするのが大好だよ! 話題が楽しいからさ。それに比べて年寄りの話ってツマラナイわよ。年金、病気、最後には……お墓の話しだもの」 そういって、あははっと屈託なく笑う。
 カツエはサヨと違って、物事をポジティブに捉える明るい性格なのである。身体も達者で杖など頼らなくとも、しゃきしゃき元気に歩く。

 三十代の後半でカツエは未亡人になった。夫の残した小さな会社を引き継ぎ働きながら、子どもを三人育て上げた。陽気で面倒見の良い性格なので、家族には大事にされていた。
 グループホームに入居することを家族に相談したら大反対されたが、残りの人生は子どもたちに迷惑かけず自由にやっていきたいという、カツエの強い希望での入居であった。
 だから毎週、カツエの元には家族や友人たちがひっきりなしに訪れている。最近は中学生になった曾孫の女の子がよくやってきて、カツエと遊んでいるようだ。
「あのさ、パソコンで2チャンネルとかいう若者のサイトを曾孫が見せてくれたんだけど……あんた『初音ミク』って知ってるかい? ロボットなんだよ。可愛い女の子の絵姿でね、人間みたいに歌ってさ、レコードまで出しているんだって、驚いたよ!」
 さも不思議そうに、カツエはいう。
 こんな風に素直に反応するカツエのことを、曾孫は可愛いおばあちゃんだと思っていることだろう。新しいモノと古いモノが頭の中には混在しているようで、CDをレコードというところがいかにもカツエらしい。

 サヨの墓参の日、グループホームまでカツエを軽自動車で迎えにいった。
 墓地の場所は聞いていたので、涼子はカーナビに行き先を登録しておいた。隣の市だが車で小一時間くらいの距離だと思う。軽いドライブといった感じで、ふたりでランチを食べて帰る予定である。
 到着時間を知らせておいたので、カツエはホームの介護士さんと玄関で待っていてくれた。介護士さんに「今日はカツエさんをお預かりします」と挨拶をして、書類に記入しての外出である。ホームの入居者を勝手に連れ出すことは絶対に出来ないことだ。
 自動車のドアを開けてカツエを乗せた。カツエの今日の出で立ちは和服であった。渋い藍色の大島紬袷小紋で上から藤色の道行コートを羽織っていた。
「カツエさん、今日のお召し物とっても素敵ですね!」
 涼子がいうと、カツエはにっこりと微笑んだ。女は幾つになっても服装を褒められると嬉しいものなのだ。
「朝から着付けの先生を呼んで着せて貰ったんだよ」
「すごく似合ってますよ」
「あたしたちの若い頃は戦争があってさ、おしゃれどころじゃなかったよ。モンペに防空頭巾だったからさぁー」
「大変な時代でしたね」
「そうだね。終戦になって焼け野原で……その後は働いて、働いて、やっと余裕が出来た頃にはおばさんになってて、おしゃれしても誰も振り向いてくれないんだよ。ったくさぁ〜」
 眉根を寄せて肩をすくめ残念のポーズをした。その格好に思わず涼子は噴いてしまった。カツエはお茶目なおばあさんだ。
 カツエくらいの年齢の人たちが、日本の変遷を一番よく知っている世代だろう。終戦のどん底、高度経済成長期、そして衰退していく現在と……全てを見てきた戦前生まれの人たちなのだ。
 ――それは日本国の足跡であり、彼らの歩いてきた道だった。

 太田サヨの眠る霊園は小高い丘にあった。まだ新しい霊園らしくきれいに整地されて碁盤の目のように道が通っている。宗派は関係ないみたいでキリスト教の十字架の付いた墓石もあった。霊園の周辺には桜の木がたくさん植えられていて、春にもなれば、美しい眺めだろうが、生憎、この季節は冬枯れて木々が寒々しい。霊園の事務所で太田家のお墓の場所を聞いて、涼子はカツエと探した。
 教えて貰ったように、碁盤の目に添っての縦と横の番号が合わさった位置に『太田家』と刻まれた墓石があった。かなり広い聖地で太田家の先祖代々のお墓のようだ、カツエは持ってきた仏花をそこに活けた。涼子はサヨの好きな栗饅頭とお茶を供えた。
 線香を立てて、サヨのお墓の前でふたりは手を合わせた。生前のサヨの優しい笑顔を思い出して、涼子は切なくて目頭が熱くなってきた。カツエはしゃがんで長いこと手を合わせて拝んでいた。
「サヨさんを叱っておいたよ」
 ようやく顔を上げて、カツエがそんなことをいう。
「えっ?」
「どうせお迎えがくるのに、なんで自分から逝っちゃうんだよ。――そんなことをしたら……残された者が悲しい想いをするだろうって叱ってやった!」
「そ、そうですか」
 まさか、墓参りにきて死者に説教するとは思わなかった。
 カツエはサヨの死は自殺だと決め込んでいるようで、身近にいて、その兆候を感じていたのだろう。――警察は事故と自殺の両方の線で捜査していたが、ハッキリとした結論は出なかった。
「だけど……サヨさんは寂しかったんだと思います」
「年寄りが寂しいのは当たり前だよ。親も兄弟も連れあいも友だちもみんな死んで逝っちゃうんだから……長生きすれば、するほど人間は孤独なるんだ」
 怒ったような顔でカツエがいう。さらに、
「あたしなんか去年から今年にかけて、五人も知人が鬼籍に入ったんだよ。だけどね。寂しいからって……そんな理由で死んだら意気地なしだ。寂しいなら、みんなにもっと甘えれば良かったんだ」
「サヨさんは真面目な人だから……」
「あの人はお嬢さん育ちで、人生の荒波に揉まれたことがないから脆いんだね」
 ずばずばと思ったことをいうカツエだが、さっぱりした気性である。
「さぁーて、サヨさんや。涼子さんがまたお墓に連れてきてくれるって言ってくれたから、また会いにくるからね。寂しがるんじゃないよ」
 サヨの墓石にそう言い残して、カツエは立ち上がった。
 仏花以外のお供え物は、カラスが漁るので待ち帰るようにという霊園規則なのできちんと片付けて、ふたりはサヨの墓前を後にした。

 車窓から流れいく郊外の風景を眺めながら、ゆっくりと車を走らせる。たまの遠出は楽しいらしく、にこにこしながらカツエは助手席に乗っている。
「疲れませんか?」
 涼子はハンドルを握りながら、ちらっとカツエの方を見た。
「大丈夫だよ。それより涼子さん、お腹が空いたよ」
「丁度、お昼ですものね。なにを食べましょうか?」
「……うーん、そうだねぇー」 カツエは真剣に悩んでいるようだ。
「じゃあ、この近くで和食のお店でも……」
「イタリアンが食べたい!」
 いきなりカツエが大声で叫んだ。
「イ、イタリアンですかぁー?」
「そう、あたしはパスタやピザが食べたいんだよ」
 とても八十一歳のおばあさんの嗜好とは思えない。
「ホームのご飯は和食ばかりでうんざりだよ。年寄りには白身魚と豆腐でも食べさせておけば文句はいわないだろうくらいに思ってるのかね。たまには、年寄りだってハイカラな料理も食べてみたいよ」
 そういって、あははっと元気よく笑った。
「じゃあ、この近くのイタリアンのお店をスマホ探してみますね」
 いったん路肩に自動車を停止してから、涼子はスマホで近くのイタリアンレストランのお店を検索し始めた。

 涼子が検索して見つけたレストランは、そこから車で二十分ほどの距離にあった。道路沿いファミリーレストランやアウトレットのお店が立ち並ぶ一角。その奥まった場所で、派手な看板も何もない、こじんまりした佇まいのレストランである。
 初めてのお店なので、味はどうか分からないが、『イタリア家庭料理』の店と書いてあったので、ちょっと興味を惹かれてふたりはここに入ることにした。
 ドアを開けると、カランとカウベルが鳴った。店内は狭くカウンターの他にテーブルが三客あった。他に客もいなかったので、涼子とカツエは奥の四人掛けのテーブルに座った。お店のインテリアはイタリアの田舎風で古臭いマリオネットやベネチアン・グラスなどがセンス良く飾られて、落ち着いた雰囲気が漂っていた。

 カツエも気にいったらしく「あら、素敵なお店ねぇー」ときょろきょろ見回して満足そうだった。
 四十代と思える女性がメニューを持って注文を訊きにきた。なんとなくこのお店の女主人のような感じがして、店の規模からいっても夫婦で経営しているようだ。
 メニューを開いて「本日のランチです」と指し示した。カツエは渡されたメニューをひと通り見てから、
「あたしはカルボナーラがいい!」
 まるで女子高生みたいな注文の仕方だった。
 涼子はペペロンチーノとふたりで摘まむためにピザを一つ頼んだ。それにしても、カツエのカルボナーラはお年寄りの胃に重くないか、ちょっと心配になる。
「若い時から洋食が好きなんだよ」
「カツエさんって、ハイカラですね」
 カツエは胃袋も元気で、ハンバーガーやフライドチキンなど、若者の食べ物も大好きなのだ。やはり年を取っても、食べることに好奇心のある人は老けこまない。

 運ばれて来た料理をふたりは堪能した。パスタの茹で加減といい、ソースの味といい、申し分ないもので、ピザは本場イタリア風のクリスピーな生地、パリッと歯触りが良くて美味しかった。食後のエスプレッソを飲みながら、ふたりはおしゃべりをした。
「美味しかったよ」
 満足顔でカツエがいった。
「ええ、とっても!」
「生きてないと、こんな美味しいものは食べられないのにさ……」
「……ですね」
 サヨのことをいっているのだろう。
「幸も不幸も考え方ひとつなんだ。自分で『幸せ』と思えば幸せだし、『不幸』と考えれば不幸になっちゃうから、あたしは、いつも自分は『幸せ』だと思うことにしてるのさ」
 あははっと楽しそうに笑う。その屈託ない笑顔に、彼女の強かな人生を見たような気がする。

  食事が終わり、そろそろ帰りましょうかと立ち上がりかけたら、突然、カツエが思い出したように、
「そうだ! 涼子さんに渡すものがあったんだ」
 帯のような金糸銀糸で織られた和風バッグから、カツエは小冊子を取り出し涼子に渡した。
「なんですか?」
「サヨさんの短歌だよ」
「えっ?」
「あたしたち、ホームで『短歌の友』を作っていてね。毎週集まって歌会していたんだよ。その時の短歌を全部パソコンで記録していたから、その中のサヨさんの短歌をコピーしたんだ」
「そうなんですか」
「若い涼子さんに、サヨさんの遺した短歌を持っていて貰えれば、あの人の供養になるかと思って……」
「ありがとう、カツエさん」
 涼子は渡された短歌の小冊子を捲って見る。
 そこにはサヨの老いる悲しみ、生きる孤独、死への願望みたいなものが詠まれていた。


   つくづくと吾が手の甲の おぞましや 骨に張りつく皺の醜さ

   歩くこと叶わぬ脚は車椅子 冥土へ向かいゆるりと歩む

   眠れない孤独な夜の闇に問う 死ぬと生きると どちらが楽か


 それは老人の心情を詠んだ、悲しい短歌ばかりだった。
 サヨが『既死念慮』の状態であったことが、小冊子の短歌からひしひしと伝わってきた。
 生きることに絶望して自ら命を絶ったサヨと、生きることを貪欲に楽しもうとするカツエ。共に長く生きてきた筈なのに、考え方が全然違うふたりの老女。――この違いは、いったいどこからきているのかと不思議に思う。たぶん、持って生まれた性格と心の持ちようが違うせいのなんだろうかと涼子は考えた。





   第五章 ポストの中の詩


 圭祐は今まで、どんな人間が毎朝朝刊をポストに入れていってくれるのか、なんて考えたこともなかった。
 朝起きてポストを覗いて新聞が入っているのは当たり前と思っていた。誰がいつ、どんな風にポストに入れていくのか、なんて……まったく興味がなかった。
 ある朝、ポストを覗くと新聞と一緒にメモのような紙が挟んであった。開いてみると、そこには一編の詩が書かれていた。


     【 どんぐりのキモチ 】

   おいっ
   おいらたちを拾うんじゃない
   可愛いからってもって帰るなっ

   おいらたちは種なんだ
   ちゃんと土の中にうめてくれよ
   いつか 立派などんぐりの木になるから

   池に放りこむなっ
   どじょうなんか 友だちじゃない
   おいらを使って
   やじろべぇなんか作るなっ
   どんぐりの背くらべ?
   ヘンテコリンなことわざにすんなっ

   へへん ざまぁーみろ
   栗みたいに
   おいらは食べられないぜぇ

   だ・か・ら
   拾ってもって帰らないでくれよ
   おいらたちの一粒一粒が
   だいじな “ 命 ” なんだ!

          優衣


 それは可愛らしい詩だった。
 朝からほのぼのとした気分に圭祐はなれた。たぶん、その詩は昨日会った少女『優衣』が新聞と一緒にポストに入れていったようである。《ゲームセンターで取ってあげた、白いクマのお礼のつもりかな?》と思った。
  キッチンカウンターでコーヒーを飲みながら、圭祐はなんとなく優衣のことを考えていた。《詩を書くような繊細な神経の少女だが、いろいろ辛い境遇みたいで……ぽきっと折れてしまわないだろうか》少し心配になる。
 圭祐は少女のことを考えながらコーヒーを飲み終え、出社の支度を始めた。

 優衣は二冊のルーズリーフを持っている。
 一冊は自分自身の感情や心の傷を書いた暗い詩と、もう一冊は子どもの気持ちで書いたほのぼのとした明るい詩である。
 明るい方の詩は、今は亡き兄健人が気にいってくれて「優衣の詩はうまいなぁー、うまいなぁー」と、よく褒めてくれていた。
 子どもの頃から、引っ込み思案で気の弱い優衣は友達ができなくて、自分の世界に引き籠もっていた。だから、詩を書くことで自分の気持ちを他人に伝えようとしていたのかもしれない。そんな方法でしかコミュニケーションが取れない不器用な優衣を理解し、その才能を一番認めてくれていたのが兄だった。
 優衣の心の拠り所は常に兄健人の存在であった。だから事故で亡くなった……その喪失感は時間が経ったら解決するというレベルの問題ではなかった。――優衣は自分自身の存在さえ見失ってしまいそうになった。
 だから、時々優衣は思う《お兄ちゃんではなく、あたしが死んでいた方が両親も喜ぶし、みんなに取って、その方がほんとうは良かったのに……どうして、神様はお兄ちゃんを連れていったの?》そう思うと自分が生きていることが罪のように思えて、剃刀で手首に傷をつけてしまう。流れだした赤い血で我に返って、傷口に包帯を巻く、自分自身の『死ねない弱さ』に、さらに自己嫌悪をつのらせていく――。
 優衣はいつも心の中で叫んでいる「誰かあたしを救ってください! ダメなら、どうか殺してください!」と……。

 圭祐のポストには、今日も朝刊と共に可愛らしい詩が届く。


     【 水たまり 】

   雨上がりの道
   水たまりに
   あたしがうつってる

   お友だちと
   けんかした

   水たまり
   赤い長ぐつで
   ちゃぷちゃぷしたら

   お水ゆれて
   泣きべそ顔になった

   小さな水たまり
   大きなお空うつして
   きらきら光る

   あした
   お友だちに
   ごめんねって言うよ

          優衣


 優衣がポストに届けてくれる小さな詩。なんだか朝から気持ちがほっこりする。こんな感じは、たぶん一年振りかも知れない。子どもの書いたような詩だが、自分の心の傷に薄いオブラートみたいな膜を貼ってくれているような気がしてならない。


     【 でんでん虫 】

   でんでん虫
   おまえって、ふしぎなやつ
   いったいなんなの

   貝かな
   虫かな
   ナメクジなのか
   貝だったら、好き
   虫だったら、ふつう
   ナメクジだったら、大きらい

   でんでん虫
   いつも雨ふりにいるけど
   ふだんはどこにいるの

   葉っぱのうらかな
   木の中かな
   それとも、土ん中

   分からないことばかり
   でんでん虫について
   今日、考えてみた

          優衣


 自分と同じ、心に傷を持つあの少女がどんな想いで、こんな詩を書いているのだろうかと、圭祐は不思議に思う。想像の世界で美しいもの、優しいもの、楽しいものと語り合っているのだろうか?
 この詩は、少女の現実逃避の産物かも知れない。
 自ら『生きている価値のない人間』だと卑下していたが、きっと、そうやって心象風景の中で自分を解放しているのだろうか。童心に還ったような明るい詩だが、どこか悲しみを押し殺しているようだ。
 そう考えると、優衣が不憫に思えて仕方がない――。

 ――優衣はもう止めようと思った。
 子どもの書いたような詩を大人に読ませるのは、たぶん迷惑かも知れない。きっと……一瞥して、丸めてごみ箱に捨てられていることだろう。相手の都合も考えず、毎日ポストに詩を入れていった、そんな自己満足な自分が恥ずかしかった。
 それというのも、あの人が死んだお兄ちゃんと雰囲気が似ていたので、勝手に分かって貰えると思い込んでいただけなんだ。
 恥ずかしい、恥ずかしい……こんな幼稚な心しかない自分自身に優衣は恥入っていた。
 圭祐に亡き兄の幻影を見ていただけに過ぎなかった。

 十四階建のマンションの『メゾン・ソレイユ』の入居者は、各フロアに二十室ほどあるので世帯数は二百軒を下らない。その内の約半分に新聞購読者がいる。
 夕刊はマンションの一階にある集合ポストへまとめて配れるが、朝刊は下まで取りに行くのが面倒だし、パジャマ姿では外へ出られないからと、各部屋のドアポストに配って欲しいという要望が圧倒的だった。なので、朝刊だけは各部屋のドアポストに配ることになっている。
 しかし、マンションはどこもセキュリティが厳しくオートロックなっている。通常、エントランスにあるチャイムを押して、中の住人に玄関の扉を開けて貰って入るシステムなっている。だが、朝の早い新聞配達人はそうもいかないので、マンションと契約して、玄関の扉を開けるパスワード番号を教えて貰っている。その番号は時々変更されるのだが――。

 優衣は『メゾン・ソレイユ』のパスワードを押して扉が開くと中へ入って、正面にあるエレベーターで最上階まで上がっていく。手に持ったずっしりと重い新聞の束。今からこれを十四階から順々に配っていくのである。
 マンションは雨降りの日は濡れなくて済むので助かるが、真っ暗な早朝にひとりでエレベーターに乗るのは怖い。たまにマンションの住人と乗り合わせることがあるが……じろじろ見られて恥かしい。見知らぬ人に「ご苦労さま」とか声を掛けられるのも苦手だし、一度、朝帰りの酔っ払った男性にエレベーターの中で絡まれて怖い目にあったこともある。
 いつも《どうか誰もエレベーターに乗ってきませんように!》と、優衣は祈りながら最上階へとエレベーターで上っていく――。

 十四階のフロアのドアポストに朝刊を挿して、そこから十三階、十二階と階段で駆け降りながら朝刊を配達していく、かなりの重労働である。それでも人と会わずに働けるこの仕事が精神的に楽でいい。わずかなアルバイト代から家に生活費を入れている。父はもっと稼げる仕事を探せと口煩くいうが、引っ込み思案で人見知りの優衣には、この仕事が精一杯なのである。
 七階のフロアに降りて、新聞を配っていたら、こんな早朝に誰かが通路の所に立っているのが見えた。もし酔っ払いで絡まれたら嫌だなと優衣は身構えながら……少しづつ新聞を持って通路を進んでいった。
「あっ!」
 思わず、声が出た。
「おはよう」
 通路に立っていたのは圭祐だった。手を振って優衣に微笑みかけている。
「そろそろ君が来る時間だと思ってね」
「……待っていてくれたんですか?」
「うん。二、三日前からポストに詩を入れてくれないから心配していたんだ」
「あのう迷惑かと思って……」
「君の可愛い詩を毎朝楽しみにしていたんだよ」
「ほんとに……」
 優衣の瞳が輝いた。
「ほらっ、これ」
 温かい缶コーヒーを優衣に手渡してくれた。
「寒いだろう? それ飲んで温まりなよ」
「……ありがとう」
「冷めないように僕のポケットの中で温めて置いたから」
 そういうと圭祐は照れ臭そうに笑った。
 プルトップを引き上げて優衣はひと口飲んだ。缶コーヒーは程好い温度だった。
 普通なら人見知りが強い優衣は、こんな風に人から貰ったものを、その場で飲んだり絶対に出来ないタイプである。それが不思議なことに圭祐にだけは素直に反応できる。
 なぜだか自分でも分からないけれど、圭祐は最初から特別な存在のように思えて仕方がない。

 「ご馳走さまでした」
 缶コーヒーを飲み終えて、まだ配達があるのでお礼をいって仕事に戻ろうとした。
「あ、缶はこっちで捨てておくから……」
「すみません」
「寒いけど頑張れよ」
 優しい笑顔で圭祐が励ましてくれる。
 その笑顔に亡き兄健人がダブって見える《まるでお兄ちゃんみたい……》なんだか嬉しくて優衣は涙が零れそうになった。
「君、携帯のメール教えてくれないかな?」
「……あのう、携帯持っていないんです。お父さんがダメだって言うから」
 今どき、携帯を持っていない子は珍しいと圭祐は驚いた。
「それに誰からもメールとかこないから……」
 そういって優衣は薄く笑った。
 俯くと長い黒髪で顔の半分が隠れてしまう、その髪はまるで自分自身を隠すための蓑のようだった。
「じゃあ……」
 ペコリと頭を下げて、再び優衣は新聞を配達し始めた。
 圭祐はしばらく優衣の後ろ姿を見送っていたが、姿が見えなくなったと同時に自分の部屋に引っ込んだ。






   第六章 心だけでは支えられないこと


 涼子の働いているデイサービスの施設は大きな病院が経営している。
 認知症や身体の不自由な高齢者を昼間の時間だけ預かって、介護する家族の精神的、肉体的な負担を軽減するための施設である。利用者は週に何日か曜日を決めて利用している。
 ここでは食事、入浴、アクティビティ、送迎バスなどのサービスなどが、介護保険適用であれば要介護度別の一割負担で利用が可能なのである。
 高齢化社会でのニーズが大きく、涼子の勤務するデイサービスの『ゆーとぴあ』では百名以上の利用者が登録されている。

「涼子さーん!」
 後ろから大声で呼ばれ、振り向くと介護福祉士の崎山貴志(さきやま たかし)がニコニコしながら手を振っていた。
 崎山は涼子より三歳年下の二十五歳の青年である。介護の仕事が好きで大学卒業後、二年間、福祉の専門学校に通って介護福祉士の国家資格を習得しているが、大型免許を持っているためか『ゆーとぴあ』では、主に利用者たちの送迎バスの運転手をさせられている。学生時代にはラグビーをやっていたという崎山は、体育会系のがっしりした体躯で、いつも元気いっぱい声も大きい。
「なぁに?」
 涼子が素っ気ない返事をしても、崎山は嬉しそうに、
「今日ね。涼子さんとデートなんだ! バスの送迎シフトが一緒で、俺うれしかったぁー」
「なにいってんの? これは仕事でしょう」
 少し苦笑しながら、崎山にいい返した。
 崎山は気にする風もなく、ニコニコしている。この男は頭の中も体育会系なのか陽気で単細胞。しかしながら『ゆーとぴあ』の老人たちには、とても人気があって、見るからに『頼れるお兄さん』といった感じなのだ。
 涼子と崎山は一年前、ほぼ同時期に『ゆーとぴあ』に就職した。なんだかんだ言っても、ふたりは同期なので親しい間柄である。
「でもさ。利用者が乗ってくるまではふたりきりでしょう? だからデート!」
「もう、真面目にやってください!」
 ムッとした顔で涼子が崎山を叱る。

 そこへ施設の調理室で働くパートのおばさんがやってきて、崎山に伝言をつたえた。
「崎山さん、調理室の綾子さんが『特製オムライス』出来たから、食べにおいでっていってますよぉー」
「わーい! オムライス食べる、食べる!」
 崎山は送迎バスを運転する前に、腹ごしらえするつもりのようだ。
 この男、身体も大きいのでとにかくよく食べる。調理室のおばさんたちとも仲良し、よく内緒で食事を作って食べさせて貰っているみたいだ。
「涼子さん、待っててね。俺、オムライス食べてくるからー」
 そう言い置いて、崎山は慌てて調理室のほうへ小走りでいく。
「もうー、遅れないでよ!」
 食べ物には目のない、子どもみたいな崎山の後ろ姿に、涼子は思わず笑みが零れた。

『特製オムライス』を食べてきた崎山は、送迎車出発時間ぎりぎりセーフで走ってきた。「お口にケチャップが付いてるわよ」涼子に注意されて「えへへ」手の甲で拭う崎山に、《こんな勤務態度で大丈夫かしら?》ちょっと怒りモードの涼子であった。 今日の利用者の送迎はバスではなく、大型のワゴン車だった。車椅子で乗れるリフトも付いている。鼻歌まじりにご機嫌で車のハンドルを握る崎山の隣、助手席に涼子は座った。
 崎山はハンサムとは言えないが、目鼻のキリリとした男らしい顔立ちである。いかにもスポーツマンという感じで髪も短く刈っていて、おしゃれではないが清潔感がある。服装はスポーティタイプのものが多く。ラグビーをやっていただけに身長は180cm以上、体重も80キロは下らない。実に立派な体躯をしている。
 涼子には不思議だった。こんな若くて元気な青年が、なぜ選りに選って『介護』という地味で重労働なのに、その割には報われない低賃金の職場を選んだのだろうかと……。
「ねえ、崎山くんって、どうして介護の仕事を選んだの?」
「はあ、俺ですか? 小さい時からおばあちゃんっ子で年寄りが大好きなんですよ」
「おばあちゃんっ子なの?」
 その返答にププッと思わず涼子は噴いた。
 こんなおっきい男が、自称おばあちゃんっ子なんて……なんだか滑稽だった。
「俺、父親が早くに亡くなっちゃって、母親の実家で育てられたんですよ。母親は会社で働いていたんで、いっつもお祖母さんに甘えてたから。年寄りの話とか聴くのが好きだったし、年寄りって可愛いですよねぇー」
「へえ、そうだったの」
「それが……お祖父さんもお祖母さんも高齢になって介護が必要になったんですよ。うちの母親がひとりで両親の介護をやってたんですが……ものすごく大変で、俺も手伝っていたけど、やっぱし大変だった……」
 当時を思い出してか、崎山の表情が曇ってきた。
「……それでも、なんとか両親を見送った母親は介護疲れか、半年後にふたりを追うようにして亡くなって……俺、ひとりが残された。――大学四年生で就職も決まっていたけど……その時、思ったんですよ。『介護』には、もっと男の力が必要ではないかと、女性にだけ任せるには、あまりに負担が大き過ぎるのではないかと……それで、就職先を断ってアルバイトしながら介護の専門学校に通ったんです」
「立派だね! 崎山くん見なおしたよ」
 涼子は崎山の話を聞いて、彼が生半可な気持ちで『介護』の仕事を選んだのではないことを知って、すごく感動した。
「えへへ」
 と、照れ臭そうに崎山が笑った。どこか少年みたいで可愛いと涼子は思った。

 そうこうしている内に、今日のデイサービス利用者、吉田家の前に着いた。
 家は古い平屋の木造住宅である。利用者は七十五歳のおばあさんだが、認知症がかなり進んでいて、物忘れや徘徊、そして時々暴れたりするので、介護をしている夫のおじいさんは大変である。
 最近になって、デイサービスを利用し始めたが、子どものいない夫婦だったので、それまではおじいさんがひとりで介護をしていたようだ。
 迎えに行っても、おばあさんの機嫌の悪い時は暴れたりして、車に乗せられないことも度々あった。
 介護疲れで憔悴し切っている、おじいさんの方がむしろ心配なくらいだった。

「おはようございます。吉田さーん」
 チャイムを鳴らしたが返事がない。玄関ドアが少し開いていたので、「吉田さん、デイサービスです」涼子は中へ声をかけた。しばらく様子を窺っていたが……人の気配はするが返答がない。高齢者ということもあって、心配になり涼子は家の中に上がってみることにした。
「吉田さん、どうかしましたか? 入りますよ」
 玄関で靴を脱いで上がり、居間のガラス戸を開けて涼子が見たものは――。

 居間の畳の上、血まみれのおばあさんがうつ伏せで倒れていた。頭から大量の血を流して……。壁にもたれたおじいさんは、血の付いた杖を握りしめて、茫然自失の状態だった。
 見た瞬間、涼子はヒィーと呻いて後ずさりしながら……悲鳴を上げた。慌てて外に飛び出し崎山に助けを求めた。血相変えて、裸足で飛び出て来た涼子の様子に、崎山はただならぬ事態を感じ取って、すぐさま車から降りてきた。

 ――部屋に入った崎山は、まず状況を把握して、倒れているおばあさんの脈を取って、すぐに救急車の出動要請をした。その後、壁にもたれていた、おじいさんの手から血の付いた杖と外すと、ひと言、ふた言、声をかけて落ち着かせようとしていた。そして、玄関で顔面蒼白で震えている涼子をワゴン車に乗せ座らせると……。
 崎山は救急車と警察の到着を部屋の中で待っていた。

 あの時、室内に入って、血まみれのおばあさんを見た瞬間、涼子はショックのあまり頭の中がショートしたみたいだった。介護者として何かしなければならないはず……なのに身体が動かない。頭の中はパニック状態で《怖い、怖い!》と、ただ震えていた。
 崎山が部屋に入って、てきぱきとやってくれているのをただ茫然と眺めているだけ。――気がついたらワゴン車の座席で涼子は泣いていた。
 こんな意気地なしで、無能者だと思ってもみなかった。結婚まで断わって、人の心を踏みにじってまで、やりたいと思った介護の仕事なのに、ほんとうに必要とされる時に、自分は何も出来ないで……ただ震えて見ていただけだった――そんな不甲斐ない自分を知って、自己嫌悪で涼子は潰れそうになった。

 その後、救急車で病院に運ばれたおばあさんは、命に別条はないということだった。警察に逮捕されたおじいさんは、取り調べ室で事件の原因について「デイサービスにいくのを嫌がって、おばあさんが暴れ出したから、なだめてる内に、ついカッとなっておばあさんを殴ってしまった。その後は興奮して自分が何をやったのかよく覚えていない」と刑事に答えた。「おばあさんに酷いことをした。本当に申し訳ない……」とおじいさんは泣きながら謝っていたという。
 そして、近所へ事情聴取にきた刑事は、日頃から、おじいさんの献身的な介護振りを知っている近所の人たちから「どうか、おじいさんを許してやってください」と、口々に懇願されたという。
 昔気質のおじいさんは、『自分の女房の世話ぐらい、わしが看る!』と頑なにひとりでおばあさんの介護を頑張ってきたが、認知症が段々とひどくなって、真夜中の徘徊などで目が離せなくなった。その上、時々興奮して暴れ出すと手が付けられない。物を投げる、ひっかく、さらに噛みついたりして、おじいさんの生傷は絶えなかった。
 しかも、介護するおじいさんの方も、七十八歳という高齢者で持病をいくつか抱えていて健康体ではなかった。見るに見兼ねた近所の人たちが、デイサービスのことを教えてあげて、やっと利用するようになったのである。
 高齢者が高齢者を『介護』をすることは、精神的にも肉体的にも負担が大きく、ヘタをすると共倒れになり兼ねない状況なのである。

 ――高齢者の『介護』は、心だけでは支えられないことなのだ。








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