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 ダイヤモンドダスト 

ダイヤモンドダストはチョイ社会派? 老人問題や虐待、リスカの少女など……
少し暗い内容ですが、最後はハッピーエンドで終わりたいと願って書きました。

介護の仕事をしている人に取材したり、パソコンで検索しまくりで、
原稿用紙200枚以上の泡沫恋歌としては大作でした。

コンセプトは『捨てられる者』『命の尊さ』など――。
ストーリーはもちろん純愛小説。

主人公の少女、辻本優衣(つじもと ゆうい)の名前は夭折の天才詩人、杉尾優衣さま
から頂きました。


画像素材は、
表紙は雪の結晶の写真をお借りしています。

「冬」の壁紙に使える画像【冬の雪景色】
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↓こちらのサイトからご覧ください。


カクヨム『ダイヤモンドダスト』


カクヨムの恋愛コンテスト投稿用に改稿、推敲しています。



     初稿 趣味人倶楽部・創作広場 2010年頃 文字数 71,844字
     カクヨム投稿 2016年10月9日 文字数 81,433字









    序章 切ない夜のはじまり


   ねぇ、君に訊きたいんだ。
   人を捨てるってことは存在を否定すること
   それは居なかったと思うことなんだろうか?
   必要ではないと切り捨てることなんだろうか?
   どちらにしても、僕は……
   笑えない人間になってしまった。

 ――真っ暗な空から、白い花弁がひらひらと舞い落ちてきた。ふと見上げた僕の頬に、ひと片触れて、それは哀しみの涙に変わっていく。

 マンションの七階のベランダから僕は雪を見ていた。ひとりで……そう、ひとりっきりで。君が出ていったので、この部屋には僕しかいない。
 ――突然のさよならだった。
 部屋に帰ったら、君と君の荷物がなくなっていて……僕宛の手紙が一通だけ残されていた。

   ごめんなさい。
   わたし、結婚よりも今やりたいことがあります。
   それは今しか出来ない、大事なことだと思っているから
   この部屋を出ていきます。

 それだけだった――。
 たった、それっぽっちの言葉で僕の心を捨てていった君。
 僕に対する不満ならまだ分かる。他にやりたいことがあるから、出ていくというのが……。まさか信じられない! 君のことを恨むより先に、僕は自分自身を憐れんだ。まるで物みたいに、簡単に捨てられてしまうほどの値打ちしかない、僕はその程度の人間だったのかと……。
 来月、僕らは結婚式を挙げる予定だった。
 未来にいろんな夢を託していたのに……ふたりで家庭を築き、子どもを育てていこう、年をとっても仲睦ましく暮らしていきたい。小さな夢だけど、僕はその夢を君と叶えたかったんだ。そんなことは、お構いなしに、君は自分の夢のために僕の夢を踏みにじった。
 残された手紙は小さく小さく千切って、ここから雪と一緒に降らせてしまおう。僕の掌から細切れになった紙切れがひらひらと飛んでいった。――ここから地上を目指して、この僕も落ちてゆきたい。……そんな衝動を抑えながら、今、ここに踏ん張っている。
 決して君のことを恨んだりしないさ。捨てられた者の最後のプライドとして、僕は君の存在を忘れる。
 そう、僕の中に君なんか、最初から存在していなかったんだ!

 雪が地上を目指して落ちていく。ひらひらと……行き着く先に何があるのか、分からないままに、雪はただ下へ下へと落ちていく。――切ない夜のはじまりだった。






   第一章 夢の代償

 霜月(しもつき)に入ると日が暮れたら気温が下がって、ぐっと冷え込んでくる。
 里見涼子(さとみ りょうこ)はダウン入りのジャケットの襟を立てた。なんだか雪になりそうだと空を見上げて、足早に家路を急ぐ。
 帰ったらバスタブにお湯を張って、炭酸の入浴剤を入れ、ゆっくり浸かって、身体の凝りをほぐし、身体を芯から温めたいと、そんなことを考えながら歩いていた。
 最寄りの駅から歩いて十五分、仕事帰りにスーパーで買い物をしてから、ひとり暮らしのワンルームマンションの部屋へと帰る。仕事柄、帰宅時間はやや不規則だが、今の仕事が好きなので苦にはならない。
 涼子は介護の資格を取って、今は老人介護施設で働いている。

 去年の今頃だった――。
 挙式まで一ヶ月を控えて、新築マンションを購入して、すでに同棲していた婚約者の元から涼子が飛び出していったのは、彼を深く傷つけたことは分かっている、きっと恨んでいることだろう。
 あれから涼子にも実家の方にも、彼はいっさい何も言ってこない、かえって不気味なくらい沈黙している。しかも、ひとりで結婚式場へいって、挙式のキャンセルを手続きをして、結婚式の招待状を送った友人たちに、断わりの連絡までやってくれた彼には、ほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 突然、婚約者に逃げられて、結婚をぶち壊しにされた、その時の彼の心情を思うと……つくづく自分は残酷な人間だと涼子は思う。
 優しいけれど頑固な一面もある、決して弱音を吐かない、そんな彼のプライドをズタズタに引き裂いてしまった。どう繕ってみても、どんなに謝ってみても、簡単に赦される問題ではない……。
 だから、彼に書いた手紙も素っ気ないものだった。何枚か手紙を書いてはみたけれど、どれも自分勝手な言い訳にしかなっていないので、結局、短い言葉で締め括った。
 彼に不満があったわけではないし、嫌いになったわけでもない。ただ、今は結婚する時期ではないと……根拠はないが、確信を持って、あの時そう思ったのだ。

 ふたりは共通の友人の結婚式で知り合った。
 新婦と同じ職場で働く涼子と、新郎の高校時代から友人だった彼。ハネムーンに出発する新婚さんをみんなで見送った後、結婚式参列者の友人たちだけ、七、八人集まって、二次会にいくことになった。
 居酒屋のテーブル席で涼子は彼と隣同士になった、ふたりは初対面だったが、今日の結婚式の模様などを話しながら楽しく飲んでいた。二十七歳の涼子は三十歳までには、どうしても結婚したいという漠然とした希望があった。二つ年上の彼も、やはり三十歳くらいには身を固めたいという希望があったようだ――。
 居酒屋で気が合って、お互いに好感を持ったふたりは早速メール交換をした。その後、何度かデートを重ね、ふたりきりで旅行して深い関係になったが、結婚の意思は固まっていたので、お互いの両親にも紹介して、申し分ないパートナー選びだと認められた。
 この時点まで、涼子も結婚に夢を描いていたのに、何故か……?

 ふたりの結婚の準備は順調に進んでいった。新居として新築マンションを購入することにした、3LDKの間取りで、子どもが生まれても広く使えるよう、ゆったり設計の部屋だった。
 新居が決まったのでふたりは早々に同棲を始めた。それを機に涼子は会社を寿退社して、挙式まで花嫁修業をするつもりだった。
 毎朝、彼を会社に送り出した後、暇を持て余した涼子は、何か資格を今の内に取っておこうと考えた。『介護』その二文字が新聞の紙面から呼びかけてきた。
 お互いの両親も、いずれ高齢になれば『介護』が必要になってくる、嫁として『介護』の資格を持っていたら、何かの役に立つかも知れない。そう考えて、彼にも相談したら喜んで賛成してくれたので、涼子は『介護』のセミナーを受講することになった。
 週に三日、三ヶ月間の受講でホームヘルパー2級の資格が取れるという内容である。ただ、家族の役に立ちたいという、ほんの軽い気持ちから思い立った事だったのに――。

 市の生涯学習センターの三階の会議室のような所で介護セミナーがおこなわれていた。
 受講生は子育てを終えた主婦から、若いスイーツな女の子、三十代の独身男性、そして金髪で耳にいっぱいピアスを付けたズリパンツの、どう見ても『介護』とは不釣合な青年まで、様々な人たちが三十人ほど集まっていた。
 午前中の十時から午後三時までお昼の休憩を挟んでびっちりと講義があった。聞いたことをノートに取って、宿題のレポートを提出するのを繰り返すだけだったが、久しぶりに学生に戻れたような気分で楽しかったし、仲間の受講生たちとも涼子は親しくなっていった。

 セミナーも終盤に近づくと、介護施設での実習が始まった。
 涼子は自宅から自転車で二十分くらいでいける。介護付きグループホームに実習にいくことになった。高齢者たちが五十人くらいで暮らす施設で認知症の進んだ入居者も多く、介護は大変だったが、比較的裕福な家庭の老人たちだったので設備と環境は良好だった。
 一週間の実習期間で涼子は、太田サヨという八十三歳のお婆さんの身の回りの世話をすることになった。
 サヨは頭はしっかりしているが、足腰が弱っていて車椅子の生活だった。涼子はサヨの車椅子を押して、散歩や近くのスーパーに買い物に連れていった。自分の孫みたいな若い娘さんに、お世話して貰えるなんて嬉しいねぇーと喜んでくれていた。
 読書が趣味で、短歌を詠むというサヨは、いろんな知識のある聡明な老女だった。

 ある時、車椅子で散歩中に、
「私はもう歩けないし、自分の世話が自分で出来なくなった。人様の手を煩わせないと生きていけない。……こんな私が生きていても社会の迷惑なるだけだろうか?」
 いきなり、サヨが涼子にそんなことを訊く。
「そんな迷惑なんて……そんなことありません」
「そうかしら? 生きてたって何の役にも立たないし、これからもっともっと世話がかかるんだよ」
「今まで家族や社会のためにいろいろ尽くしてきたんだから、これからはのんびりと……」
「だけど、私は家族からも社会からも必要のない人間だから……」
「――そんな、そんなこと絶対にありません!」
「……だったら、どうして誰も会いにきてくれないんだい?」
 突然、サヨは肩を震わせて泣き出した。
 ここに入居して三年になるサヨだが、その間に家族が面会にきてくれたのは、最初の頃の数回だけで、お正月も家に帰ることなく、このホームで過ごしている。ここ一年以上は誰も面会にもきてくれていない。
 彼女は寂しかったのだ――。家族からも社会からも自分は、『捨てられた人間』という思いが拭い切れなかった。

 サヨの言葉に涼子は衝撃を受けた。老人たちは長生きしていることを喜ぶどころか、申し訳ないことように思っている、それは何かがオカシイ……どうして老人たちがそんな思いに駆られるだろう?
 それは社会の仕組みとか家族の愛情にも問題があるかも知れないが、やはり介護の現場でのケアが十分でないせいではないかと思う。――何んとかしてあげたい……自分が力になれるのなら、サヨのような孤独な老人の話し相手になってあげたいと涼子は思っていた。

 残りの実習期間も出来るだけサヨの話し相手になって、寂しい思いをさせないようにと涼子は気を配っていた。
 あの時、あんな風に言って泣いたサヨだが、その後はケロリとして冗談をいってはよく笑っていた。《サヨさん、元気になってくれたみたいで良かったわ》そう思って少し安心していた涼子である。

 今まで、涼子がやってきた仕事といえば事務職だった。
 パソコンにデーターを入力したり、クライアントの個人情報を管理したり、会議に必要な資料を集めたり、そういう細々した仕事を機械相手にやっていた。だから仕事の達成感はあっても感動などなかった。
 こんな風に人の心に触れるような仕事は初めてだった。
 老人たちに『介護』という日常的な世話を通じて、彼らの笑顔や喜び、時には怒りに触れながらも、涼子は人と人の心の交流に遣り甲斐を感じ始めていた。
 こうして『介護』という仕事が、涼子の内(なか)に眠っていた使命感のようなモノを呼び覚ましたのだ。

 いよいよ、涼子のグループホームでの実習も最終日となった。
 一週間、入居者の世話を手伝ってくれた涼子に、スタッフから労いの言葉を、老人たちからは感謝の言葉が贈られた。
 この時、涼子の心の中では単に資格を取るためだけではなくて……結婚してからも、この仕事をずっと続けていきたいという意思が固まりかけていた《はたして、婚約者は許してくれるかしら?》心配だけど、話し合って理解して貰おうと考えていた。
 花束をプレゼントされ、さよならの挨拶をして、みんなにホームの玄関まで見送られて帰ろうとして手を振っていたら……車椅子のサヨがハンカチを目にあてて泣いていた。
 慌てて戻って「また、すぐに会いにくるからね」と言って、肩を叩いて励ました。サヨはハンカチに顔をうずめながら「うん、うん……」と子どもみたいに、何度々も頷きながら涙を拭っていた。
 帰り道、自転車のペダルを漕ぎながら……泣いているサヨの姿を思い出して、涼子も切なくて涙が零れた。《あの孤独な老人に、自分はどうやって向き合えばいいのだろうか?》そのことばかりを考えていた。

 それから一週間ほどは、実習のレポートのまとめやら、溜まっていた家事を片付けるのに、忙しい日々を送っていた涼子である。
 その間、結婚式場に行ってウェディングドレスの試着やら、披露宴の料理や引き出物のなどを彼と決めたりして、結婚式の準備も刻々と進んでいったが……何故か、涼子の心の中は冷めていて、挙式前のうきうき気分にはなれなかった。

 やっと暇を見つけて、グループホームの太田サヨに会いにいくことが出来た日――。
 サヨの好きな栗饅頭をお土産に買って、いそいそと面会にいった涼子だったが……グループホームのスタッフから聞かされた言葉は信じられないものだった。
「太田サヨさんは三日前にお亡くなりました」
 その言葉に涼子は愕然とした。

 まさか、一週間前はあんなに元気だったのに……自分が会いにいけなかった間に、サヨに何があったのだろうか? 詳しい事情を訊こうとしたが「個人情報なので……」その言葉に阻まれて、何も教えては貰えなかった。
 しょんぼりして帰りかけたら、実習の時に世話をしたことがある入居者のおばあさんとロビーでばったり会った。涼子の顔を見つけると、向うから近づいてきて「談話室にいきましょう」と誘われた。
 ホームの談話室は十畳くらいのスペースにテラスに置くような白くて丸いテーブルが五、六脚並べられていた。明るく大きな出窓には蘭や観葉植物が飾られて、雑誌や新聞、テレビ、部屋の角には飲料水の自販機も置かれている。
 ここは入居者同士が談話したり、面会者と会ったりするのに使われるスペースなのだ。
 おばあさんは自販機で缶のお茶を二つ買ってきて、一つは涼子の前に置いた。そして、プルトップを外してひと口飲むと、こちらが訊ねもしない内から、サヨの話を聞かせてくれた。

 三日前の早朝、サヨは宿直の職員が夜食作りに部屋を空けていた隙に、鍵を盗んで玄関と門扉を開けて、車椅子に乗ってホームを抜け出した。その後、駅前の歩道橋の長いスロープを車椅子で上まで登り切って、そこからスロープで降りずに、なぜかサヨは階段の最上段から車椅子ごと転落して全身を強く打って亡くなった。
 高齢者ということもあって警察は事故と自殺の両方で捜査しているが、陽も昇らない早朝のことで、目撃者もいないので真実のほどは分からない。
 結局のところ事故死ということで片付けられそうである。ホームとしては管理面で遺族から訴えられないかとビクビクしているらしい。

 一気に捲し立てるように喋るおばあさんに、
「えっ! それってどういうこと?」
 涼子には、おばあさんのいっている意味がよく理解できない……。
「だから、昇りはスロープで上がったのに、降りる時に車椅子ごと歩道橋の階段から落ちたんだよ」
「事故じゃなくて……」
「サヨさんはボケていなかったさ」
「確かに……」
「亡くなる二、三日前から、サヨさん食欲がなくて、ご飯も食べなかったみたいなのよ」
「サヨさん、元気がなったんですか?」
「――そう言えば、あたしたち『短歌の友』の仲間なんだけど、サヨさんが最後に詠んだ歌が……確か……そう……」
 おばあさんはサヨの短歌を詠んだ。

   老い果てし誰(た)が為ならず生き恥じて
   無様な吾が身 消す術(すべ)もなく

「あれがサヨさんの辞世の句だったのかねぇ……」
 そう呟いて、深いため息で話を締め括った。
 詳しく事情を教えてくれたおばあさんに、サヨのために買ってきた栗饅頭を渡して、お礼の挨拶をしてホームを後にした。

 サヨの死んだ事情を聞いて、涼子はショックだった。
 もしかしたら……自分が会いにいかなかったので、サヨは寂しくて死んだのかもしれない。そんなような気がしてならない。きっと、老いていく孤独、生きている孤独に、もう耐えられなかったのだ――そんな風に涼子には思えた。
 もっと早く会いにきてあげれば良かったと、《ごめんなさい、サヨさん……》悲しくて涙が止まらない。
 サヨが詠んだ最後の短歌が、涼子の頭の中でエンドレスリピートで再生されていた。

   老い果てし誰が為ならず生き恥じて
   無様な吾が身 消す術もなく

 どうして、そんな悲しい歌を詠んだの?
  サヨを救ってあげられなかった、自分自身を涼子は激しく責めていた。

 それから二、三日経って、少し気持ちが落ち着いて決心が固まったので、涼子は婚約者に思い切って相談した。
「介護の仕事を続けたいので、もうしばらく結婚を待って欲しい」
 真剣な涼子の言葉に、彼は深く考える風もなく、
「仕事なら、結婚してからでも少しは続けられるし、将来、子育てが終わったら、本格的に介護の仕事を始めたらいいじゃないか」
 その返答に涼子は心底失望した。

 たぶん、そんな風にしか考えてないのなら……涼子が仕事に打ち込みだしたら、彼はきっと不満を口にするだろう。それが原因で夫婦げんかになることは十分予想が出来る。
 将来、離婚するくらいなら、今、結婚しない方が賢明かもしれない。
 涼子には、サヨに対する罪悪感のようなものがあって……今、この介護の仕事を続けていかなければ、とても良心の呵責に耐えられなかったのだ。

 ――結婚と仕事の両立は、自分には無理だと涼子は判断した。

 そして、結婚式一ヶ月前のあの日……会社に出勤する彼を見送って、その後、慌てて荷物をまとめると、メモ書きのような手紙を残して、あの部屋から涼子はひとり出ていった――。

 真冬の夕暮れ時、人足も絶えた住宅街の道を涼子は帰宅を急ぐ。
 この寒さで身体は冷え切っているのに、頭は妙に冴々としている《あれから、一年か……早いなぁー》そんな感慨に耽りながら……その間、涼子にもいろいろあったが、ホームヘルパー1級の資格を取得して、今は老人介護施設で働いている。
 忙しいけれど、今の仕事に遣り甲斐を感じているから、三年の実務経験を積んだら、国家試験である介護福祉士の資格も取りたいし、将来的にケアマネージャーを目指して勉強していたいと涼子は考えている。
「ふぅー」
 吐いた息が真っ白だ。手袋の中の指先は凍えている。
 この寒い季節を、彼はどんな気持ちで迎えているのだろうか、それを思うと涼子は心が痛かった――。



 

   第二章 幻想の冬


 身を切るような冷たい風に混じって、雪にもなり切れない、みぞれが頬を打ちつけていた。
 真冬の夕暮れの街、誰もが寒さを凌げる場所を探してコートの襟を立てて足早に歩いていく。そんな人ごみの中を廣瀬圭祐(ひろせ けいすけ)は別に急ぐ風もなく、自分のペースで歩いていた。
 急いで帰ったところで、圭祐の3LDKのマンションには「お帰りなさい」と待ってくれている人はいない。ふと、懐かしい面影が頭をよぎったが、圭祐は慌てて打ち消した。
 未練がましく、あの部屋にひとりで暮らしているが、広すぎるし、寒々しくて帰る気がしない。――春になったら、あのマンションは売って……もっと手頃な広さの賃貸を借りてもいいなぁーと圭祐は考えていた。

 ――三十歳、結婚考える年齢になって、むしろ結婚から遠ざかってしまった。

 あの日から一年、いろんな想いを……仕事に没頭することで忘れようとしてきた。出来るだけ余計なことは考えずに、会社と家を往復するだけの日々を送っていたのだ。
 マンションの部屋も使っているといえば、ダイニングキッチンと寝室だけで、他の部屋はドアすら開けたことがない。特に彼女が使っていた、あの部屋は封印したままで存在すら忘れようとしていた。
 あの日のことを思い出すと……圭祐の胸はきりきりと痛み出し、噴き出しそうな感情を抑え切れなくなってしまいそうで怖かった。今までの人生で経験したことのない『婚約者に逃げられる』という屈辱感――。いっそ彼女を憎めたら、こんな理不尽な感情からも解放されるのかも知れない。たとえ、彼女を捜し出して本音を聞けたとしても、傷ついた心は元には戻らない。
 ――もうやり直すことは不可能だろう。
 だから圭祐は、こう思うことにした、《君はいなかった! 最初から存在しない女性なんだ!》全ての記憶を拒絶した。そうやって、心の傷口に絆創膏のようにその呪文を貼り付ける。
 あれから一年……彼に取っては、ただ、生きているだけの虚しい日々だった。圭祐の悲しみは圭祐にしか分からない。だから、誰からの慰めの言葉にも耳を貸さないで、ただひとり沈黙し続けた――。

 今日はいつもより早く仕事が片付いたので、どこかで夕食でも食べるか、ちょっと飲んで帰ってもいいな、そんなことを考えながら駅前の商店街をぶらぶらと歩いていた。
 圭祐は自宅では酒を飲まないことにしている。ひとりで酒を飲み出すと……一年前のことを思い出して鬱々とした気分になって遣る瀬ないからだ。やけ酒を煽るような惨めな男にだけはなりたくなかった。
 商店街は賑やかでいろんな店から音が聴こえてくる。パチンコ店、コンビニ、ゲームセンターなどの。――どうして、あの時、そんな気分になったのか分からないけれど……あれが、いわゆる『運命』って奴だったのかも知れないと、後ほどになって圭祐には分かった。

 ゲームセンターの前を通りかかった時、なんだか、急にストリートファイターみたいな格闘ゲームがやりたくなった。ゲームセンターなんか大学卒業以来、ほとんど入ったこともなかったのに、なぜか、たぶん寒いせいもあったのか? エキサイト出来るようなゲームがやりたくなって、ふらりと店内に入った。
 久しぶりのゲームセンターに勝手が分からず、きょろきょろと薄暗い店内を見回す。圭祐がやりたいゲーム機はどうも奥の方にあるみたい、そこから人工的な爆発音が聴こえてくる。入り口付近にはUFOキャッチャーなどのクレーンゲーム機がたくさん設置されていた。カラフルなぬいぐるみが入っていて見ているだけでも楽しい。

 ひとりの少女が真剣な眼差しで、UFOキャッチャーをやっていた。
 彼女は白いクマのぬいぐるみを狙っているらしく、何度、失敗してもチャレンジしていた。白いクマのぬいぐるみは頭の部分が大きいので、クレーンの握りではなかなか掴めず、重さですぐに落ちてしまう。それでも少しづつ移動させて取り出し口近くまできていたが……もう後一歩だぞと、圭祐は後ろから見ていたら……惜しいところで少女はプレイを止めてしまった。どうやら資金がなくなったようで……後、一、二回のプレイで取れそうだったのに……。
 少女はケースの中をじっと覗き込んで、悔しそうに軽く叩いて、がっくりと肩を落とし、その場から立ち去った。
 圭祐はなんとなく、その少女の後ろ姿を見送っていた。
 すると、隣のUFOキャッチャーをしていたカップルが、こちらを指さして「ねぇ、ねぇ、あれ取れそうよ」女の声が聴こえてきた。その声に慌てて圭祐は硬貨を投入口へ放り込んだ。

「これ、あげるよ」
 白いクマのぬいぐるみを少女に差し出した。
 きょとんとした顔で圭祐の方を見ている。――たぶん、年は十代後半くらいで、化粧っ気のない地味な感じ、色白だがまだニキビの痕が残っている。おどおどした黒い瞳と長い髪が印象的な少女だった。
「これは君のものだよ」
「……ありがとう」
 やっと、少女は手を伸ばして受け取った。
 あの後、隣のカップルに白いクマを取られそうになったので、圭祐は硬貨を入れてUFOキャッチャーの続きをした。二回ほどのプレイで白いクマは取り出し口に落ちた。
 そして、店内を探して回ってやっと見つけた。少女はゲームセンターの奥にある喫煙コーナーのベンチにしょんぼりと座っていた。

「そのクマ欲しかったんだろう?」
「うん」
「いくら使ったんだい?」
「三千円くらい……」
「買った方が安いんじゃないか」
「でも、このクマはゲーセン限定品で……どうしても、これが欲しかったから……」
 俯いて小さな声で喋る少女。
 その手には白いクマがしっかりと握られていた。何気なく圭祐も少女の隣に腰をかけた。――日頃、あまり人と気安く喋らない圭祐だったが、なんだかこの少女の寂しげなオーラに魅せられて、少し話をしてみたくなった。
 圭祐はこの少女に、どこか自分と似た匂いを感じていたのかもしれない。

「君は学生?」
「ううん、働いてる」
 黒っぽいフード付きのコートに、ジーンズとスニーカー姿の彼女は、どう見ても社会人っぽくは見えない。服装のセンスも野暮ったい。少女は俯いてぽつりぽつりと自分のことを話す。
「今、アルバイト……去年、高校卒業したけど就職出来なくて……」
「そっか……」
「就職の面接で何度も落ちた」
 そう言うと彼女は申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「今は不況で新卒の就職も難しいから」
 圭祐の会社でも今年は新卒採用が少なかった。
「コンビニとか求人多いけど……」
「サービス業なら求人チラシ貼ってるのよく見かける」
「あたし……不細工で愛想も良くないから接客業もダメみたい」
 なんだか、ずいぶん自分自身を卑下している子だなと圭祐は思った。
 喫煙コーナーのベンチに座って話しをしていたら、男が三人ほどこっちにきて灰皿を囲んで煙草を吸い始めた。煙草を吸わない圭祐は煙がこっちに流れてきて煙いので、どこかへ場所を移動したいと思った。
「お腹空いてない?」
「えっ?」
「何か軽いものでもどう?」
「あ……」
 少女は戸惑っているようだ。いきなり食事に誘うのは、確かに不躾だと圭祐も分かっている。
「心配しなくても、そんなんじゃないから……僕は家に帰ってもひとりだから、食事のツレが欲しいだけなんだ」
 圭祐が笑いながら言うと、少女も納得したみたいで「うん」と頷いてベンチから立ち上がり、後ろからそろそろと付いてくる。
『そんなんじゃない』とは、下心という意味だが……初対面でどう見ても自分よりもひと回りは年下の女の子に、そんな気持ちは全く持っていない。

 ゲームセンターの並びにあるハンバーガーショップで軽い食事を取ることにした。
 レストランに入るよりも、こういう慣れた所の方が警戒しなくていいかと思ったからだ。カウンターの前に並んで「好きなものを注文しなよ」と圭祐が言うと、少女は迷うことなくチーズバーガーとジュースとポテトを頼んでいた。
 ふたりの注文品を乗せたトレイを持って空いているテーブルを探す。平日のどんな時間帯でも、こういうお店はだいたい満席状態だ。特に駅前だと待ち合わせや軽い食事に利用する人が多いからだろう。
 奥の方に二人掛けの席が空いていたのでそこに行って、少女と向かい合って座った。着ている服やヘヤースタイルは野暮ったいが、よく見ると幼さの残る愛らしい顔をしているが、ただ雰囲気が暗いのでモテそうもないタイプだと思った。
 先に食べ終わった圭祐はゆっくりとホットコーヒーを飲みながら、少女が食べるのを見ていた。彼女はマイペースというか、あまり動作が早くない。まるで小鳥が啄むようにハンバーガーをちまちまと食べている。小動物っぽい感じがして、なんだか可愛いなぁーと圭祐は思って見ていた。
 食べ終わるとお腹が膨れて少し警戒心もなくなって来たのか、少女の固い表情も柔らかくなってきた。
「さっき、ぬいぐるみ渡してくれた時、お兄ちゃんかと思った」
「君のお兄さんのこと?」
「うん。三年前にお兄ちゃん交通事故で死んだ」
「あ、そうなんだ」
「このクマは前に同じもの持っていたよ。今日みたいにゲームセンターでお兄ちゃんが取ってくれたんだ。さっきみたいにあたしに渡してくれた。まるでデジャヴみたい……」
 少女は手に持った白いクマのぬいぐるみを愛おしそうに撫でている。
「じゃあ、そのクマは……」
「お兄ちゃん大好きだったから、天国でも一緒に居られるようにクマのぬいぐるみを、あたしの代わりに、お兄ちゃんの棺の中に入れて焼いてしまったから、今は持ってないの」
 その時のことを思い出したのか、少女の瞳は悲しみの色になった。
 そうか、この子も大きな悲しみを抱えて生きているんだ。表情の暗さはそのせいなんだと分かった。

 さっきは気付かなかったが、ハンバーガーショップに入ってコートを脱いだら……少女のセーターの袖口から包帯を巻いた手首がちらっと見えた。しかも左の手首だ。もしかしたらリストカット?
  少し躊躇したが、思い切って圭祐は少女に訊いてみる。
「手首どうしたの?」
 この問いに一瞬、ハッとしたような顔になったが……しばらくの沈黙の後、
「……切った……自分で……」
「死にたかったの?」
 少女は黙って、手首の包帯を隠すようにセーターの袖を引っ張っていた。
「痛くて……深く切れなかった」
「死んだりしたら両親が悲しむだろう」
「お母さんが家出して、今はお父さんとふたりで暮らしてる」
「辛い時、相談する友達とかいないのか?」
「あたし……高三の二学期からほとんど学校いってなくて……友達いない」
「イジメられていたとか……」
「そうじゃないけど、クラスの雰囲気に溶け込めなくて……いつも保健室登校だった」
「……そっか」
 少女は心にいろんな傷を抱えていて、それらが原因で自傷行為に走るのかもしれない。まだ十代で楽しいことがこれからいっぱいあるだろうに、どうして自分の身体を傷つけたりするのだろうか? 大人の圭祐にはリストカットする少女の気持ちが理解できなかった。
「あたし……不細工だし、不器用で何も出来ない。親にも愛されていないし、生きている価値のない人間だから、消えてしまいたい……」
 そう言って、白いクマを抱きしめて少女は泣き出した――。

  辛い話をさせて泣かせてしまった、圭祐は悪いことをしたと思っていた。目の前で泣いている、この少女に対して大人として何か励ましてやるべきなんだろう。だが、咄嗟に言葉が出なかった。
 圭祐は考えていた《生きている価値ってなんだ?》それは人が決めるのか、自分で決めるのか? 必要とされない人間、役に立たない人間、不自由な人間は生きていてはいけないのか?
  そんなはずはない! どうして、そんな風に自分を追い込んでしまうんだ。『生きている価値』ではなくて、生きることに価値があるんだ! そうじゃないのか?圭祐は心の中で自問自答していた。

「――君がそんな風に自分を『生きている価値』のない人間だと言うのなら、僕も『生きている価値』のない人間なんだ。一年前、僕は婚約者だった女性に捨てられた。しかも簡単に……それは僕って人間に価値がなかったってことなんだ!」
 今まで抑えていた感情が突き上げてくる。
 少女のカミングアウトで、心の傷に貼り付けていた絆創膏が剥がれてしまった――。それは怒りではなく、悲しみでもない。――悔しさだった! 婚約者の心を掴み切れなかった、自分自身への痛烈な悔しさだった。
 不覚にも、圭祐は見知らぬ少女の前で涙を流していた。

 ハンバーガーショップを出て、少女が駅前の駐輪場に自転車を止めているというので、そこまで取りに行って、自転車を押している少女とふたりで歩いた。圭祐の住むマンションは駅から十分くらいの所にある。少女に家はどっちと聞いたら、圭祐と同じ方向で隣町だった。
 さっき、不覚にも涙を見られたので大人の圭祐としてはかなり気恥ずかしい。あの後……ふたりは言葉が見つからなくて、心が落ち着くまで黙っていた。感情を晒けたイタイ大人の圭祐に呆れることなく……椅子に座って待っていてくれた。ずっと年下の女の子なのにその存在に安心感を覚えた。
 ただ、お互いに相手が自分と同じように、悲しみを胸に圧し込んで生きている人間だということは理解できた。あんな風に感情を吐露できたのは、たぶん同調できる何かを、相手に感じていたせいだと圭祐は思っている。
「あそこ、僕の住んでいるマンションだから」
 白い高層マンションが近づいたので指で示した。
「メゾン・ソレイユ?」
「うん? そうだけど……」
「去年建った十四階建のマンションでしょう? 何階の何号室?」
 知り合いでも住んでいるのか、少女は詳しく訊きたがる。
「七〇七号室」
「……廣瀬圭祐さんね!」
「えっ! どうして知っているんだ?」
 圭祐は驚いて少女を凝視した。
 今日、偶然会ったのに、どうして自分のフルネームで知っているのだろう? 不思議で仕方がない。
「いつも、新聞を配っているから……あたし」
「……へえ、そうなんだ。僕のフルネーム、知っていたから驚いたよ」
「毎朝、マンションのドアポストに部屋番号と名前を確認しながら、新聞入れているから覚えた」
 少女は照れ臭そうに笑った。
「朝刊は早いだろう?」
「うん。三時にはお店に入ってる。でも、その前に閉店後のパチンコ屋さんの清掃バイトもしてるよ」
 ただの脆弱な少女かと思ったら、以外と一生懸命働いていることに驚いた。
「冬は寒いし、朝早くは眠いだろうに……」
「新聞は誰とも話さないで、ひとりで仕事ができるから気が楽でいいんだ。もう一年くらいやってる」
 繊細そうな少女には、間関係で神経を擦り減らすよりも、孤独な仕事の方が性に合っているのかも知れないと圭祐は思った。
『メゾン・ソレイユ』のエントランスの前にきたので、圭祐が「じゃあ」と軽く挨拶してマンションの中に入ろうとすると、後ろで突然少女の声がした。
「ねぇ! 雪が降ってきたよー」
 振り向いたら、先ほどまでみぞれだったのに……いつの間にか雪に変わっている。暗い夜の街を真っ白な雪が舞い落ちる。
 まるで綿帽子のような、ふわふわの雪だった――。
 ――ふと、一年前のあの日を思い出した。
 マンションの七階のベランダから見た、あの雪は幻想的でとても美しかった。会社から帰ったらメモを残して婚約者がいなくなっていて、ひとり部屋に残されて、やり場のない悲しみに身悶える。あれは……切ない雪の夜だった。

「寒くなるから、暖かくして配達しろよ」
「うん。今日はありがとう」
「あ、君の名前は?」
 名前を聞くのを忘れていた。
「優衣、辻本優衣(つじもと ゆうい)です」
「可愛い名前だね。気をつけて帰りなよ」
 少女は恥ずかしそうに笑っていた。
 この子の笑顔は無邪気で可愛いなぁーと圭祐は思った。もっと笑顔の輝く子になったら、素敵な娘になれるのに……。
 ――この時『優衣』その少女の名前を聞いた瞬間、ふたりの運命はリンクしたのかも知れない。


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あきゅろす。
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