02



(でもどうして、水原は答えをくれなかったんだろう)


 ただ単におれのことがいけ好かないのか、それとも理由があるのか。理由があるとしたら、それは十中八九おれではなく理人のためだ。


 ――おまえが悪い。


 なにが悪いというのだろう。おれと理人との仲は、水原が思っているよりもずっと良好で、喧嘩ひとつない。家族と恋人、ふたつのつながりが理人とできて、幸せな日々で、いったいなにが問題なんだろう。


(わからない……)


 そうしておれは今、水原の宣告どおり悶々とした想いが消えないまま、理人を待ち続けている。こういうときに限って、定時に上がれていないのか仕事終わりの連絡もない。いつもならもうそろそろ帰ってくるというのに。


(お風呂も入っちゃったし、ご飯も先に作って食べちゃった)


 理人のテーブルにラップをかけた夕食は、曇っていたものが大粒の水滴に変わりつつある。それだけで、キッチンへ入ってからずいぶんと時間が経っていることがわかった。

 いっそのこと、寝ちゃおうか。そうしたら、一瞬。

 だけど、水原のせりふが邪魔をして、なんとなく心のどこかで、眠らない方がいいと警笛が鳴っている。だってたぶん、理人は眠ってしまったおれを起こさない。


 う……。


 さっきから、ずるずると寝室とキッチンとをせわしなく往復しては、テーブルに突っ伏してうなだれる。

 理人、まだかな。いっそのこと、もう帰ってきてほしい。もんもんした気持ちを、取り除いてほしい。そうしてたっぷり数時間の夜を過ごしたとき――玄関の鍵を回す音が聞こえてきた。

 待ち構えていたというのに、まるで突然みたいに感じて、落ち着かなかった心臓がますます鼓動を早めていく。


「ただいまー、……ゆき? 帰ったよ」


 いつもと同じ、やや疲れたような声の調子。ゆったりとしているのに足の長さがおれとは違うせいで、玄関からあっという間にリビングに姿をあらわす体躯。


「お、おかえり!」


 噛んだ。しかも裏返った。

 朝が早く夜が遅かったということは、日帰りの出張にでも行っていたのだろう。いつもよろいキツめにセットされていた髪がややくたびれている。ひどく疲れの色が濃いけれど、表情やおれを見ている瞳は、いつもどおり。


「どうしたの?」


 そう、いつもどおり。

 なんだか拍子抜けしてしまって、緊張のせいでひとりでに固くなっていたからだから、風船がしぼむみたいに力がなくなっていく。いつもと同じ、ぽやぽやした理人の雰囲気だ。


「や、なんでもない」

「いつもならウトウトしている頃なのに、今日はしゃっきり目が冴えているみたいだけど」


 理人のせいだけどね!

 と、いいたかったけど、ぐっとこらえて、そんなことないと笑った。


(よかった。理人、いつもどおり)


 ――今日帰ったら、ちょっと長いキスをするから、覚悟しといて。

 ねえ、水原。あの宣戦布告みたいな理人のことばには、どんな意味があったのかな。

 今までとなにも変わることはないとほっとした反面、不思議とどこかさみしい気持ちが押し寄せてくる。

 ほんとうは、胸がどきどきしていた。いつもおでこにしてくれるおはようのキスじゃなくて、理人がしてくれようとしていたのはどんなキスなんだろうと、ちょっと想像して赤くなったりもした。

 ちょっぴり、期待もしていたかもしれない。


 ――ついでにこれから始まるであろう夜のネタまでぶっこんできたわけだ。


 水原にあんなこといわれて、焦る反面浮足立っていたのかもしれない。

 いやだ。


(おれ、へんたい)


 いや絶対だめだおかしい。


「ゆき?」

「へ? いや、なんでもない。……眠くなってきたから、寝る」


 よし、逃げよう。

 くるりと踵を返して、沈黙を貫いていた携帯を手に取った。暇すぎて、歯磨きも終わっていたし、あとは布団に入るだけだったから。


(ばかみたいに考え込んでいたおれが、恥ずかしい)


「僕のベッド行ってなさい」

「え、り、理人の?」

「どうかした? 最近はもう、いつもそっちじゃん」


 理人が当たり前のように、ジャケットをハンガーに引っ掛けながら、いつもの会話の応酬と同じくらいの軽やかさで問う。気分的に、今はひとりで寝たいけれど、そういわれるとなにもいえないので、頷いて理人の寝室へ向かった。


(へんなこと考えてたの、後ろめたいから、いやなのに)


 脱衣所に消えていき、理人が服を脱ぎ捨てる音を聞きながら、寝室の扉を閉めた。

 いつもの壁側を占拠するみたいに、ごそごそと移動する。ほんのりと、理人のにおいが残っていた。


 ――まあせいぜい緊張しながら理人の帰りでも待ってろよ。


 水原のいじわる! 理人がなにも考えていないことを知っていておれを一日中もんもんさせていたのだとしたら、もう次会ったら文句いってやる。全然普通だったよって。完全に八つ当たりであることを知りつつも、そうやって心のなかで水原をなじった。


(今日は、へんなことばっかり考えてた)


 うう。と、ひとりでにうなりながら寝返りを打つ。そうしているうちに、耳の奥で微かに聞こえていたシャワー音が止まってはじめて、何度も何度も寝返りを打っていることに気づいた。

 あれ? おれ、ベッドに入ってからどれくらい経った?

 おれは、精一杯脳みその少ない頭で考えた。たしかに今日一日、理人がその気でもないのになんとなくいったであろう一言を本気にして、もんもんしていた。だけどそれは誤解だったのだ。だったらいつもみたいに持ち前の寝つきのよさに頼って、もう寝なきゃいけない。じゃないと、理人がとなりにくる。

 となりにきたら、いやだ。今のおれはおかしいから。

 理人が全然考えていないことを想像して、勝手にひとりでもっとおかしくなる。


(ね、寝よう)


 それなのに、頭がパニックなせいか、いつもの寝つきの悪さはどこかへ吹っ飛んでしまっているらしい。何度も寝返りを打った末に、壁際を向いてからだを停止させた。


(ね、寝たふりだけでもしよう……へんに思われる。理人が寝たら、おれのベッド戻ろう)


 理人に罪はないが、今のこの状況では、おれは寝れない。確実に。

 どうせもう眠れるような精神状態じゃないと知りつつも、ぎゅう、と目をつむっていると、寝室がゆっくりと開かれた。背中を向けているのに、おれを起こさないようにか、そっと歩いてくるのがわかる。やがて、通路側のベッドが深く沈んで、すこしだけからだが傾いた。

 ね、寝たふり寝たふり。おれは寝てるぞ。

 いつも夢うつつの中で、理人が自分のそれごとおれの布団をかけ直してくれているのをよく感じていたけれど、その日もやさしい手が、布団を肩までかけてくれる。


(その布団を、朝には蹴飛ばしているけど……)


 しばらくして、理人も横になったのが、ベッドの沈み方でわかった。ほっと肩を撫で下ろそうとした刹那、おもむろに伸びてきた大きな両手がおれを捕まえて、ずるずると引き寄せてくる。やさしいけれど、なんだかいつもと違う、知らないひとみたいな手つき。背中が、お風呂上がりでまだあったかい理人のからだにくっついて、落ち着きかけていた心臓が早鐘を打っていく。

 状況についていけなくて、からだがまた、一気に硬直していく。


(ど、ど、……どうしよう。とりあえず、おれは、寝てる!)


 なるべく眠っているとわかってもらえるように、からだから力を抜いて、目をきつく瞑る。だけどおれのからだを引っ張って腕の中に閉じ込めた手がまた動いて、髪の毛を撫でた。


「ゆき」

「……」

「今日も、夕食作っておいてくれてありがとうね」


 ささやくような低い声が、耳にかかる。くすぐったかったけれど、身をよじったらおしまいだ。まるでおれが起きていると知っているみたいな自然さに、(違う、おれは寝ている!)と無視を決め込む。

 起きてるって知られたら、色々とやばいもん。


「でも、今日は食べなかった。ごめん、明日の朝食べます」


 後ろから回ってきた手が、壁際に向けてからだを向けて交差していたおれの両手を掴んで、やさしく絡めてくる。

 心臓が、いたい。


「……っ」

「だってせっかくおまえが、朝のことを意識して待っててくれてるから、我慢できなくて。……違った? ゆき」


 おれの指を弄んでいたのとはもう一方の大きな手のひらが首元とシーツとの間に入ってきて、ぐい、と持ち上げるみたいに引っ張る。無理やり理人の方をむかされて、きつく閉じていた目を恐る恐る開けた。

 天井を遮っておれを見下ろす理人の髪の毛は、まだ湿っていた。ろくに乾かしてもいない髪の毛と、スーツを脱いだせいでおれだけが知っているスウェットと、おれを振り向かせた力強い手に、全身が熱くなって今すぐ逃げ出したくなる。


「やっぱり」理人の浮かべる笑みは、いつもよりもいたずらっぽい。「起きてた、たぬき寝入りさん」


「う、うそつきっ」


 捕まえられたまま脚をばたつかせて、今度は水原でなく理人に八つ当たりをする。全部へんなこと考えていたおれが悪いのに、火を噴くほどの恥ずかしさが憎まれ口をこぼしていく。


「さっきは普通だった……っ」

「いきなり豹変したらおまえ逃げるでしょ」

「知らない!」


 まるで、今日一日へんなことを想像しながらもんもんしていたのを、すべて見透かすような深い瞳。それがいつもよりもいたずらっぽく意地悪なのに、どこかうれしさみたいなものも含んでいるのはどうしてだろう。

 どっちにしろこの大勢はいやだ、へんだ。そう思って理人のそばから離れようとするのに、普通じゃ思春期の男の方がおっさんより力あるはずなのに、上からのしかかってこられたら太刀打ちできない。びくともしない。


「ゆき、かわいい。真っ赤」

「男にかわいいとかいうな!」

「ゆでタコみたい」

「う……やだ、離せばかー」

「それはできないお願いだなあ」

「今日の理人、意地悪」


 だいたいおれをかわいいと思うとか、理人の目はちょっとおかしいと思う。おれは確かに日本男児の平均身長は満たしていないけれど、そのへんの女の子よりも大きいと思うし、体重もちょっとずつ増えているし、顔だって……たぶんもうちょっとしたら凛々しくなる。はず。

 からだもムキムキになる予定だし。


(男前さは、理人に比べたらまだ負けているかもしれないけど)


 首元をさらっていた手が抜かれて、かわりにぴたりとほっぺたにくっついた。頬に熱が集中しているせいか、お風呂上がりの理人の手よりも、暑い。くっついてきた手のひらが、おれの頬を撫でたりつまんだりして弄ぶ。どんどん紅潮していくのが自分でもわかった。


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