01
それは、理人の朝がいつもよりもすこしだけ早かったある日のこと。
恋人という名前がついたもののゆったりとしたおれと理人の関係の変化を象徴するものといえば、たまに一緒のベッドで眠るようになったことだった。小さな頃理人のベッドに潜り込んだ記憶の中とは違い、おとなとおとなになりかけのふたりが横になると、ちょっとだけ狭い。
狭いせいで、理人が起きてベッドを離れる瞬間は、夢うつつになっていても、なんとなく感じることができるのだ。
「先、いってくるね」
いつもと同じ、おれをとびきり甘やかす朝のやさしい声とともに、頭に淡雪みたいに静かに降ってくる手のひら。いつもと同じ……は、そこまでだった。
シーツに巻きついていたタオルケットごと、まだ半分夢を見ていたおれの額にかかっていた前髪を、両手がやんわりとかきわけた。
刹那、ちょん、と、すこし湿った心地よい体温が一瞬触れた。
そうして理人は、宣戦布告をしてきたのだ。
今日帰ったらちょっとだけ長いキスをするから、覚悟しといて。
――一歩ずつ、ちょっとずつ。
「で、あの、これって……どういうことだと思う?」
「おれはさあ、そろそろおまえの首締めたくなってきたよ」
「へ?」
いつも集合する駅前のスタバが空いていなかったので、斜向かいにある喫茶店に入った。面倒くさ、といいつつ糖分がたっぷり入ったカフェモカを奢ってくれたくらいまでは、まだ通常運転くらいの機嫌の悪さだった。
それがどうしてだろう。今朝の話をした瞬間、なんていうか、目が死んだ。生気を失った魚みたいになった。
おれは冷たいカフェモカを、ずず、と吸った。
首絞めたいという衝撃の一言以来だんまりを決め込んだままの水原に対し、もう一度問いかける。
「なんで、首締めるの?」
「僕おまえのそういうところ、ほんとうに嫌いだよ」
はああとわざとらしいため息を吐いて、水原が眉間にしわを寄せたまま「で」と三割増しで低くなった声を出す。
「僕が今でも未練のある元恋人を現恋人にしているおまえは今、元彼がだらしなくデレデレしてきた今朝のちゅーのことを惚気けて、ついでにこれから始まるであろう夜のネタまでぶっこんできたわけだ」
「元恋人? 現恋人? ……違うって! ん? そういうことになる?」
「そういうことだよばーか。ほんとうばーか」
今朝理人が唇をくっつけてくれた額を、水原の指がビシっと弾いた。いたい。
いつ行っても満員御礼なせいかひとの喧騒もすごいあっちのカフェに比べて、あたりに響いているのはややしめやかなバックミュージックだけ。必然と、おれと水原の声もいつもよりも小さくなった。水原は低くなっているから更に小さい。でもこの感じ、なにやら怒ってるのは確実だ。
「……こんなこと水原にしか話せないし」
「はいはい。で、急遽今日来いと、いっちょまえに僕を召喚したわけね」
そういえば水原って、大概都合が悪いときってないかも。……なんの仕事しているのか、気になる。前聞いても教えてくれなかったけ。
「なんだよ。キスくらい恋人と同棲中なら普通にするだろうが。何が気になってるわけ」
「しないもん」
「だろう? 今更相談なんて――え?」
「え?」
「は?」
水原がすすっていたコーヒーから唇を離し、唖然とした表情でおれを見た。おれの背後に幽霊見た、みたいな顔である。そうして極めつけにもう一度、「まじ?」と問いかける。おれは頷いた。
水原がどうしてそんなにも驚いているのかわからない。
「……え、おまえら、冬の一件から付き合ったんじゃなかったっけ?」
「そうだよ」
「で、なんも変わらないわけ?」
「ううん。たまに理人と一緒に寝るようになった」
思い出すと、ちょっとだけ恥ずかしい。一番恥ずかしいのは、一緒にふとんに入って理人にくっつく瞬間が、“特別”って感じがして、今でもくすぐったいのだ。
しかしおれとは裏腹に、水原はがっくりと肘をついてうなだれた。地獄だ、ということばが聞こえたけれど、それは一体どういう意味だろう?
それ以降なにかを考える素振りを見せたため、しばしの沈黙が続いた。しかたなく、おれは水原が「おまえにはこれがいいだろう」と買ってくれたカフェモカを、またずずっと吸った。喫茶店特有の甘みのあるコーヒーとチョコレートが、じんわりと喉を潤す。美味しい。でも美味しいというだけあって、値段は高かった。高級品だ。
「――大体、状況は分かった」
「え、え?」
まだ水原に朝のことくらいしか喋っていないというのに、どういうことだろう? 抱えていた頭を離し、相変わらずおれを「おまえ嫌い」という目でじっとりと睨めつけつつ、水原が居住まいを正した。
「それはね、おまえが悪い」
「ええ!? おれ!?」
「……うるさい。そう、おまえが悪い。というか、いっとくけど理人とおまえがこじれるときって、たいていおまえが悪いと思った方がいいよ」
う。たしかに、冬の一件もおれが全面的に悪かったから、返すことばもない。
「この恋愛オンチ」
「う……」
「どうせおまえ、いつも理人と一緒に寝れるのが嬉しくて、ぴったりくっついたまま10秒で寝ちまうんだろ。オコサマ」
「え、なんでおれの寝つきがいいの、知ってるの!?」
水原は、エスパーなのか、それとも探偵なのか。もしかしてその手の仕事をしているのだろうか、なんてことをグルグル考えていたら、「ばかなこと考えてると張り倒すよ」と釘を刺された。
そう。おいでといわれて、ちょっとだけ緊張しながらもぞもぞと理人にくっつくのはいいのだけど、お風呂上がりの理人からはやさしくていいにおいがする。それに吸い込まれて気づいたら寝ているため、最近はひとりベッドにいたときよりもずっと寝つきがよくなってしまった。
それにしても水原、名推理……証拠品もアリバイもダイイングメッセージも与えていないような気がするけれど。
「で、おまえの相談だけど、――まあせいぜい緊張しながら理人の帰りでも待ってろよ」
「それだけ?」
「それだけ。そうしたら、理人がなんでそんなこと言ったか、わかるんじゃないの。どっちにしろおまえにわざわざ教えてあげちゃうほど、僕はお人好しじゃないよ」
「ひどい! 信じてたのに!」
「女子か」
たしかに、女子が放課後のクレープ食べ歩きにでも誘うみたいな軽々しさで、「ねえ今日暇?」と電話で呼び出したのは、悪いと思っている。ちょっとだけ。
でもおれは、いつもおれを困らせたりなんて絶対にしない理人が、今日の朝は爆弾を落としていったことに、パニックになったのだ。相談できるひとが水原しかいなくて、苦渋の決断だった。ちょっとは悪いと思っていたんだ、たぶん。
じっとりと責めるように水原を見上げるけれど、「ぶん殴るよ」とあしらわれた。暴力反対……。
水原は結局さっきまでみたいに「鈍感」「恋愛オンチ」「空気読めない」「ムカつく」「おまえ嫌い」おれを詰り続けて(ていうか全部悪口じゃん)、ゆっくりと自分のコーヒーを飲み終えると、「こっちは暇じゃないんでね」という嫌味とともに去っていった。最後の一言は、ほんとうに余計だと思うんだ。
おれの心にくすぶり続けているもんもんは、ついに取れずに終わった。
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