01
――ふんふん、なるほど! わかったよパパ!
――こらあ。大声出さない、すみちゃんが起きちゃうからね。
――んむぐ! ……うんうん。
ひそひそと内緒話する、先生と風太の声が聞こえている。なんだろう、起きようとするのに、あったかい体躯に包まれているせいで瞼を開くことができない。先生と風太の楽しげな声だ、おれも一緒になって入りたい。きっと風太は先生の声に、カルガモの子みたいにこくこくと頷いているのだろう。
――うんうん。じゃあ、そういうことでね。
夢か、うつつか。ぼんやりと考えているうちに、内緒話は終わってしまったみたい。おれのこと、起こしてくれなかったな。おぼろけな記憶の中で、一抹のさみしさが胸の中に広がる。まぎれさせるように、内緒話中もずっと目の前にあった大きな体に、不安な気持ちを埋めるようにぴたりとくっついた。
ふ、と笑う声が聞こえて、シーツの上をくしゃっと歪ませたであろうおれの体は、いっそう深く、でもきつくしすぎないように、目の前のだいすきなひとのぬくい温度に包まれた。そしておれは、何もかも忘れて再び眠りの世界にいざなわれてしまったのだ。
「すみちゃん、こっちだよ!」
「あ、ちょっと待ってって。前見て歩いて、ぶつかるから」
さなぎから生まれ変わった蝶は、まるっきり新しくなった世界の到来に胸を弾ませて、あのきれいな羽をひらひらと空気に馴染ませるのだろう。ふらふらと歩いては、新しいものを見つけ笑顔になり、またどこかへ誘われるように歩く……せわしない風太の姿を見ていると、いつもそう思う。
風太は特別な子どもだ――、と思うのは、家族同然のように過ごしているおれの、親ばかにも似た心情だろうか。息苦しそうな子どもたちが増える中、すくすくと育つ風太は、やさしく思慮深い気立てと何にでも興味を示す弾むような豊かな心をうまく持ち合わせている。
先生がいつまでも風太、風太と親ばかなのも、うなずける。
風太お気に入りの、最寄りの駅から三つ駅を過ぎた先にある小ぢんまりとした植物園は、休日ということもあってかややひとが多い。風太のような小さな子は、みんな一対の幸せそうな男女を引き連れている。
「これはねえ、なんていうお花?」
「前に来たときは咲いていなかったね。金木犀っていうんだよ」
「ん。あまあい匂いがするよ」
穏やかな光に包まれた辺り一面に咲く黄色いそれを、キャッキャと楽しそうに眺める風太。空はさっきまでのようなぎらついた陽の光を、だんだんと緩やかなものに変えている。もう少しで、夕焼けに染まるだろう。
それまで一緒にいてあげたら、きっと風太は喜ぶ。赤々とした空が照らす植物園を、うれしそうに眺める風太は、すこしも想像に難くない。
「風太、楽しい?」
「うん! パパいないけど、僕、すみちゃんと一緒ならなんでも楽しいもん!」
周りの子は、当たり前のように両親と訪れているというのに、風太はそんな光景をうらやましく見ることもしない。たまに一瞥しているときは、その子たちが見ている花や植物が気になっているらしい。
おれは、まだ無邪気でやさしい風太に甘えているのかもいしれないと、時々思う。
いつか風太がおれの背を抜いて(男性平均身長にまるで及ばなかったおれが、にょきにょきと大きい先生の遺伝子を継いだ風太に早いうちから抜かれることはもう決まっているのだ)、今よりもすこし世界がよく見えるようになって、分別がついて、――自分の家庭が父と母を核に構成される家族という枠組みから大きく離れていることに気づいたら。
風太は、おれを汚いおとなだと思うだろうか。裏切者だと思うだろうか。そんなことを、こんな日はついつい考えてしまう。
……先生は最近仕事が忙しいらしい。しっかりと顔を見たのは、いつだろう。今日だって、日曜日だというのに風太と遊んでおいでと言って足早に外へ出て行ってしまった。
「すみちゃん、あまあい匂いだねえ。このお花」
目の前を彷徨っていた風太が、しゃがんで風にゆられる金色の花に目を凝らしている。おれも風太のとなりにしゃがんだ。鼻をつん薫る匂いと、可愛い花弁に、ああと合点が行く。
「これはね、金木犀だよ」
「きんも、……?」
「きんもくせい」
風太はもう一度きんもくせい、と反芻した。
「秋にこうして咲く花なんだ。風太とは結構ここにきてるけど、見るのははじめてかな」
「ん! いい匂いのお花だねえ。きんもくせい」
さわろうと手を伸ばした風太の手が、だけどそれはさわらないまま再び下ろされる。前に一度ひとの手であまりさわると花の元気がなくなってしまうんだと説明してから、やさしい風太はどんなにきれいなものでもさわることをしなくなった。
よほど気に入ったのか、ぼんやりと風に吹かれて左右にたなびくそれを見つめる風太。
「風太、楽しい?」
「うん。ねえ、すみちゃんはきんもくせいすき?」
「すきだよ。いい匂いで、花も可愛い。風太は見たことがなかったけれど、おれは金木犀が咲いているのを見ると、秋が来たなあっていつも思うよ」
「ん……そっかあ。あのね、じゃあ」
じゃあ、というから何か言うのだろうかと思ったが、風太はそれ以上何も口にしようとはしない。すこしだけ躊躇するように口をもごもごとさせてうつむいた。
(いつもはきはきとした風太がこんな風になるの、珍しい)
「ん? なあに?」
内緒話をするみたいに、風太の方に歩み寄る。うつむいてんー、と唸っていた風太が、おもむろに口を開いた。
「すみちゃんは、たのし?」
刹那、じんわりとした罪悪感にも似た何かが、おれを襲った。ああ、この子はなんて聡い子なのだろう、と。
風太はずっと、おれが先生と時間が合わないせいで寂しく思っていたことを知っていた。今日も、ずっとわかっていた。わかっていて、無邪気におれを誘ったんだ。植物園に行こうって。
いじらしくて、健気で、――思わず頭を抱えた。
「すみちゃん?」
「うん。……ごめん」
「どうしたの? あたまいたい?」
「ちがくて、ね」
この子どもには、とっくに見透かされている。先生と生活リズムがすれ違って、不安になっている自分の気持ちが。それは、この子はおれが思っているよりもずっと、おれのことを見てくれているからであって。
(先生、おれはだめなおとなです……)
頭を抱えていた手を解いて、同じように金木犀を目の前にしながら背中を丸めて丸くなっている風太の体に手を回す。
「正直、おれ先生と一緒にいられなくて、ちょっとさみしかったよ」
「そっかあ」
「でも今日は、風太の顔をずっと見ていられたから、楽しかったよ。おれは先生がだいすきだけど、風太のことも大好きだからね」
なんて、先生の前では絶対に言えないセリフまでつけ加えてみる。金木犀の濃密な匂いの中で、風太がまるで宝物でも見つけたようにくしゃっと破顔した。
今を大切にしよう。
たとえ風太がどんなおとなになっても、それでどうおれとの関係性が変わっても、おれは今この瞬間を記憶にとどめて生きていけばいいのだから。
夏の名残にはまぶしすぎる風太の笑顔と、金木犀とを、深く心に刻み込む。
植物園の出口には、花屋がある。そこにはこれまで育てられていたその場所の植物や花たちがすこしずつカットされている。いつもは通り過ぎてしまうけれど、今日はおれも風太もそこで立ち止まった。
ニコニコとひとのよさそうな笑みを浮かべる店員さんを横目に、風太に聞く。
「風太、金木犀すき?」
「すきになった!」
すき、じゃなくて、すきになった。
風太の言葉は、いつでもやさしい。
店員さんに、家の花瓶に飾れるくらいの金木犀を注文して、包んでもらうのを待つ。この匂いが家の中に広がると思うと、おれもちょっとだけわくわくしてくる。先生にも、今日のことを教えてあげられる。素敵な花が咲いていたよって。
やがて渡された包みを風太に持たせてやると、一旦おれの手に離れたものが、再び手の中におさまってきた。
「?」
風太は、買ってもらったものを自分で持って帰ろうとする。物欲の少ない子だが、気に入って手に入れたものはしっかりと噛みしめながら帰るらしい。……殊勝な子である。
だからいつも通り風太に持たせてやろうとするのだが、すぐにそれは押し戻される。
「この金木犀、すみちゃんにあげるの」
「え?」
「すみちゃん金木犀すきって言ってた!」
――すみちゃんはきんもくせいすき?
――すきだよ。いい匂いで、花も可愛い。
えっへん、と得意げに、風太がそう言った。片手で持てるくらいの金木犀の束をもらって、ぽかんとする。だけどすぐに、くすぐったいような気恥ずかしいような気持ちになる。
はじめて、風太から何かをもらってしまった。うれしい。
「ありがとう。おれも、金木犀のことがもっとだいすきになったよ」
今日、風太にここに連れてきてもらって本当によかった。買い物して帰ろうかと言ったおれを無理矢理ここに行こうと誘ったのは、風太だったから。元気を出してほしくて、こうして気分転換をさせてくれたのかもしれない。
手の中にある金木犀が、あの甘い匂いをさせている。
あまいねえ、あまあい。
そんなことを言いながら、左手に金木犀、右手に風太の左手を重ねて、夕暮れの中を歩いた。家に着く頃には、もう暗くなっている。先生は、もう帰ってきているだろうか。
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