06



 その前に、横から伸びてきた手に捕まった。同時に、一気に濃くなる甘ったるいコーヒーの香り。

 ふわりと、強引なのにどこかやわらかく、体が宙に浮かんだ。


「――……っ」


 こんな風にぼくの体を慣れた手つきで抱き上げる人間なんて、ひとりしかいない。


「失礼ですが、そろそろ凛は返していただきます」

「な……っ」


 呆気にとられたのと、えもいわれぬ幸福感が同時に襲ってきて、動けなくなったのはほんの数秒。じ、と見つめる香宮の視線に気づいて、暴れた。


「に、するの! 離せ馬鹿!」

「俺は待ちました。騒ぎはもう落ち着きました。凛の元へ戻るのに支障はありません」


 言うや否や、入ってこようとする風紀を押しのけるようにして、生徒会室を出る。ぼくの体は、しっかりと抱き上げたまま。


「やめろよ! 香宮が見てる! おまえに運んでもらう義理はない!」

「……」

「会長がついてきてくれる! おまえは香宮のそばにいていいんだよ!」

「うるさいですよ」


 叩いても、殴っても、蹴っても、ぼくの足が地に着くことはない。いつもぼくが振り払えばおとなしく引き下がる手が、今日はぼくをがっちりと捕えたまま離してはくれない。

 助けを求めるように会長を見上げる前に、扉を出てすぐに横切ったせいで、その姿は見えなくなった。



     *



 無人の保健室に入ってはじめて、里巳がぼくをソファに下ろした。保健室の先生は駐屯をやめたのか、どこかへ消えてしまっている。

 抱き上げられたとき一瞬でも感じてしまった安堵は、すぐにぽかんとこちらを見る香宮の視線によって罪悪感に変わる。怪我をしていると言われてみれば足はツキツキと痛むけれど、きっとあれを見せられた香宮はもっと――。


「ねえ里巳」


 里巳は答えない。さっきから一度もぼくを見ないまま、手当てできるものを物色している。表情一つ変えない……知らないところのものを勝手にあさることを厭わないような図太さは、あるらしい。


「ほんとうにもう戻りなよ。ぼく手当てくらい自分で」

「したことないでしょう。いつも俺がやっています」

「でもいいよ。今頃あっち大変だし、香宮きっと困ってる」


 お目当てのものを見つけた里巳が、ソファに座るぼくの前にひざまずいて、ズボンをめくる。割れたマグカップの端で切ってしまったのか、肌から流れた血が上履きのかかとを赤く滲ませていた。


「……っ里巳、聞けよ! ぼくの言うことを無視するな!」

「あいつのところへは行きません。俺が仕えているのは凛だけです。その凛が、騒ぎが終わるまでは香宮のそばにいろと命令をしたからいただけだ」

「そんなこと……」


 ――もうぼくの迎えはいらない! 送るのも! 騒ぎが落ち着くまでは香宮についてなよ!


 あれだ。口論になったとき、もういい加減素直になってほしくて、香宮のところで幸せになっちまえって自暴自棄になって、自分の首を絞めるみたいに放ったセリフ。


(あれを律儀に守ったなんて)


 だが、すぐに首を横に振る。


「嘘だ!」


 丁寧に血を拭きとって、薬を素早く塗りつけ、包帯を巻く手から逃れるように足をばたつかせる。

 そんなの嘘だ。ぼくを言いくるめる出まかせだ。

 だってぼくは見た。あいつが香宮のとなりでどんなにやさしく笑うのか、しっかりこの目に焼きつけていた。


「早く香宮のところに行ってよ! 手当てもいらないから! 離れ――……っ」

「しつこいですよ、凛」


 いきなり伸びてきた手が、ぼくの両手ごとソファの背もたれに体重をかける。容赦ないその力に蹂躙されるようにして、背中が後ろにくっつく。掴まれた腕が、ひどく乱暴で、いたい。

 巻かれた包帯が中途半端なところで里巳の手を離れて、床を伝って転がっていく。


「さ、とみ」

「俺が仕えているのはあなただ。香宮は関係ない」

「だって」


 嘘だっったって、

 死ぬほどうれしい。

 自分が仕えているのはぼくだけって、里巳の口から紡がれる言葉が。

 信じられないほどの安堵を与えてくれる。

 うれしい。里巳はぼくのことなんてすきじゃないのに。


「だって……さとみが、かみやをすきって言う……っ」

「どこにそんな証拠があるんです」


 ハア、という深いため息とともに、いくらか緩くなった手つきがぼくの目元をくいっと拭う。それに触発されたように、ぼくの涙腺は壊れる。子どもみたいに。


「新聞が出回ってた……っ」

「一度でたらめな記事を書かれた凛ならよく知っているでしょう。あそこの情報源が一生徒だけのもので、さらにそれが読者を獲得するために面白おかしく書かれてること」

「しゃしんもあった……!」

「……新聞部はもう一度潰さなきゃなりませんね」

「なにより」


 ――ほしいなら、あげる。


 いやだ。ほんとうはだれにもとられたくない。だけどそれは子どもがおもちゃを取られたくないおうな生易しい感覚じゃない。もっと強く、どろどろとしている。

 だけど譲ろうと、手放そうと思ったのは、香宮のせいじゃない。目の前の、この男のせいだ。

 この男が、あんな顔で香宮に笑ったからだ。


「ぼくなんかいも見た……っおまえと、かみやの……あれは、すきってかおだ……!」


 刹那、ぼくの頬を拭っていた手と反対の手が、背中から覆うようにしてぼくの体を目の前の胸に引き寄せる。同時に顎を捕えられた。

 りん。

 という、平素よりも怒ったような、困ったような、珍しい声色。


「……っ」


 ピントが合わないくらい近づいた表情と、一か所だけくっついたもの。時が止まったように沈黙が流れて、その間も余すところなく深い瞳に見つめられて、気づけば両手で目の前の体を押しのけようとする前に、抱き込まれる。


「おまえのペースに合わせてやっていれば……どうしたらそういう方向に考えがいくのか不思議にもほどがある」

「な、にが」

「そこも可愛いけど、限界」

「……――っ」


 胸に埋まった顔をすくうようにとられて、あっと思ったときには真上にある顔とぴたりと重なる。想像すらできなかった唇は、ひどくあつくて、やわらかい。


「さと――」


 離れる隙もないほど、間髪入れずに降ってくるくちびる。避けようとしても、回された手がさせまいと力を入れてきた。

 なにこれ。どうなってるの。


(ぼく、なんで、里巳とキスしてるの)


 物心ついたときから、ぼくはぼんやりとではあるものの里巳の背中ばかり見ていた。だけど里巳はしょせん家のしきたりからぼくについている。だから、嫌われているかビジネスじみたものの対象だとこそ思っていたものの、こんな風になるなんて。考えたこともない。だから、この感覚は、未知だ。


「……ん、んう……ぅ」


 吸いつくように重なるくちびるが、食べるように何度も行き来する。ちゅう、という信じられないほど淫靡な水音が、耳を犯した。


「さ、やだ! やだってば!」


 パンクする頭に耐えかねて、ぐいーっと手を突っ張れば、ようやく不本意そうに里巳の顔が離れていった。それでも体はさっきゼロになった距離のまま。


「これで真っ赤ですか、凛は」

「うるさい……離れろ……おまえがわけわからないことするから、混乱している」

「……なんで分からないんですか」


 どこか脱帽したような声に、顔を上げる。同時に、両頬を掴まれた。ぐいっと目線を合わせるように上を向かされて、背中を見続けながらも正面から見ることは稀になってしまっていた端正な顔立ちが近くになる。


「俺は」


 どこか怒っているみたいなのに、上品な声。


「凛がどうして俺を一人部屋にしたのか知っています。あと、どうして一年の頃生徒会補佐で、このままいけば二年で生徒会入りは確実と言われていた俺を蹴落として自分が副会長になるように権力を行使したのかも、知っています」

「嘘をつくな……だれにも言っていない」

「凛を見ていればわかります」

「嘘だ!」


 上品なのに、艶っぽくて、蜜菓子のように甘い。

 いやだ。


「凛がいつでも俺の部屋に来れるように。俺が生徒会入りして目立たないように」


 めまいがする。

 おもむろに端っこからぺりぺりと仮面をはがされるみたいに、ぼくの本心は隠れることなくこの男に暴かれていく。


「ちが――」


 とても従者とは思えない、射すくめるような強靭な目つきと、それとは裏腹にガラス細工でも扱うように頬にふれてくる手のひら。


「凛の気持ちと俺の気持ち、どうして同じだと考えないんですか」

「……っ」


 そんなの考えたことない。


 ぼくはわがままで、可愛くなくて、七光りで、みんなから恐れられていて。いいところなんて、ひとつもない。おまえのことも、ひどいことをして傷つけている。

 胸がぎゅーっとする。刺されたみたいに痛くて、この大きな体から、すぐに逃げ出したいというのに。

 ぼくを抱き寄せるこの男の力は、ひどく強くて。


「もう認めてください。自分が俺をすきっていうことも、俺が凛をすきだっていうことも」

「や、や……だ!」

「じゃあどうして顔が赤いんですか。泣く意味も分からないです」


 子どものようにぐっしょりと濡らしているだろう頬を、ぐいっと拭いながら、里巳がやわらかく微笑む。

 凛、とぼくを呼ぶ里巳の声に、勝てない。


「なんで」

「なにがですか」

「なんで、ぼくなの……ぼく、おまえにひどいことしてる。我が儘だ」

「凛は健気で、……ちょっと不器用なだけですよ」


 ずび、とはなをすするぼくを抱き寄せて、肩口に押しつける。骨ばったそこは、ひどく熱くて、芳醇な香りに眩暈がするみたいな感覚。


「一生懸命こちらの怒りの一線を超えないように、おそるおそる伺いながら、口だけは達者に命令する。可愛くて仕方がありませんでした。香宮にその話をしたこともあるので、信じられないなら聞いてみるといいでしょう」

「……でも」

「もうおしゃべりはやめましょう」


 ぼくの髪の毛をやわやわと撫でながらかき分けた手が、うなじをつ、と撫でる。ひくりとこわばった体をなだめるように、もう一方の手がやさしく背中を上下する。


「凛」


 こんな声に、耐えられるわけがない。夢にまで見たような体温。のどから手が出るほどほしかった里巳の全てに。


「キスがしたい」


 ぼくが抗えるわけが、ない。

 顔を上げた先にあった里巳の表情は、よく見知ったものなのに、知らないひとみたいだった。ゆったりと塞がれた唇に、たまらず目をつむる。

 かわいい、と、唇を放したわずかな隙間で、零すように呟かれた声に、体が震えた。


「――……っ」

「香宮に嫉妬したんですか」


 試すような、意地悪な色をした声が、耳元で響く。ぼう、とする頭で、かすかに頷いた。

 だって、香宮は可愛い。ぼくが持っていないもの、全部持っているような気がして、焦って、つらかった。

 ぼくがそんな死ぬ思いをしたと、分かっているのか分かっていないのか、すこし不敵な笑みを浮かべて「うれしい」と言った里巳が、今日で何回目か分からないキスを降らせた。


 ――あれでどこが執着していないんだか。


 一週間後、新聞部の一大スクープとしてぼくと里巳の従者を超えたお付き合いが挙げられたのだが、右下にインタビューアとして、そんなことばとともに死んだ魚の目をした会長が登場していたのだとか。


百 瀬 凛 の 仰 せ の ま ま に


( おい、俺のこの写真載せるとか、悪意あるだろあいつら、そう思わないか香宮 )

( 会長すごい顔してますもんね。ていうか都合いい記事ですね、おれと九条を誤報したことはきれいさっぱり忘れちゃったのかなあ、新聞部さん )

( ……もしかして香宮。おまえって、九条里巳に本気だったのか? )

( いや? おれ、どちらかっていうと副会長さんのこと可愛いなって思いますよ。誤報されるなら九条じゃなくて、副会長さんがよかったなあ。ちっちゃくて、一生懸命じゃないですか )

( それ九条の前で言ってくれるなよ。血を見るから )

( ですね。普段はおくびにも出しません )

――End――

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