03
――もうぼくの迎えはいらない! 送るのも! 騒ぎが落ち着くまでは香宮についてなよ!
――なぜですか。
――なんでも! ……いらない、ぼくにはおまえなんかいらないから!
数日前の、出来事だ。
ぼくは、そのときとても参っていたのだ。
まだ会長と二人の生徒会に順応していなくて、体裁すら適当なくせに量だけは一丁前に次々と提出されてくる資料だけが増えて行って、気持ち的にも落ち着かなくて。授業も出られなくなって、生徒会室に缶詰の日々が続いていた。
精神的にも若干余裕がなくなっていて、そんなときに、自分の世界の中心だったあいつが、だれかに笑いかけているのを見た。
ずっと見てきた。小さな頃、あいつがぼくに仕えると決まった頃から、ずっと。
だから、分かってしまった。あいつの中にくすぶっているはずの、ぼくや他の人には見せたことのないやさしい感情や、執着に。
そんなものを見たのが、爆発の原因になってしまったのだろうか。自分のプライドが高すぎるのも悪かった。
いらないと言われる前に、手放したかった。
いい機会だった。このままあいつがぼくに縛られ続けるのも、どうかと思っていたから。
――凛。
あいつの、困ったような、どうしていいか分からないような表情。
ああ、夢だ。あいつの表情。
なんでそんな顔をするんだって、怒鳴って、挙句の果てに出てけよってあいつを部屋から追い出した。
それでも里巳は、ぼくを捨てなかった。
「さ……と、み」
そんな自分の声で、目が覚める。そうして最初に気づいたのは、異常なまでの体の痛さ。
ああ……この体勢はそりゃ、痛い。
(いつ、寝ちゃったんだろ)
どうやら生徒会室で仕事をしている間に、そのまま突っ伏して眠ってしまったらしい。肩からかけてあるやたらいい匂いのブレザーは、会長のかな。でかい、うざい。
締め切った隙間から覗いていた外は、いつの間にやらオレンジ色に染まっている。そろそろあっという間に陽が沈むだろう。すぐそばの資料に、青い付箋がしてあるのを見つけて、何げなく覗いてみる。そんなところに付箋をつけることなど、普段なかったから。
『ブレザーかけてやったやさしいおれさまのかわりにとじまりよろしく』
(馬鹿丸出し。漢字使いなよ……一応学年トップだろうが……)
俺様なんて聞いて呆れるようなすこし丸まった字を一瞥して、すぐにゴミ箱に捨てた。戸締り、面倒なのに。鍵も戻しに行かなきゃいけないし。どう考えても対価が大きすぎる、こんなブレザー肩にかけただけなのに。
悔しいからブレザーはここに置いたままにしておく。一夜をここで過ごして埃っぽい匂いになればいい。
カーテンを閉めて、紙の束を適当に掴んで鞄に入れる。給湯器の電源を確認し、電気を消して、鍵を閉めた。鍵さっさと返して、今日こそ寝よう。絶対寝る。
昇降口を出てから寮へ向かう間には、花壇がずらりと並んでいる。比較的学費も高く、金持ちの道楽じみたこの学校において、「環境美化委員」など名前ばかり。結果的に花壇はいつもきれいに整備されているものの、いったいだれが整えていることやら。
そんな状態なわけだから、ぼくは、花壇に水をやっている生徒なんて見たことがない。そう、今、この瞬間までは見たことがなかった。
「あれ、副会長さん!」
夕焼けをバックに、楽しそうにひとりじょうろで水をやっていた香宮が、ぼくを見つけてぱっと花が咲くような笑顔を見せてくる。可愛い。だれにでもこういう、警戒心のない顔なのだろうか。
香宮の身長は、そんなに低いわけじゃない。それなのに容姿にうるさい三馬鹿をとりこにした要因は、この屈託ない笑顔あたりにあるのだろう。
「花壇にお水? えらいねー、香宮」
声の調子も言葉のチョイスもいつもと違うって? ぼく、可愛い子には無害だから。
結果的に、二年で先輩である香宮を呼び捨てにしてため口なんだから、ふてぶてしく可愛くない感じは隠せていないんだろうけどねえ。
「はい。ここ、だれもお水やっていないみたいで。先生たちが気づいたときにだけって聞いたので。おれ、花は好きなんですよ」
「へえー、いいね、可愛い」
「副会長さんこそ、花がとても似合いそうです。好きじゃないんですか?」
花が似合いそう。花が好き。……そんなこと、新聞部が聞きつけたら「悪魔・百瀬凛は花が好き(笑)」ていうジョークじみた記事でも書いてきそうだ。ぼくのこともそうやって言っちゃうところも、天然で可愛いなあ。
「んー。好きって言ったら、学校中が笑うよお」
「そうなんですか?」
「ほらぼく、こんなんだから」
そう言って、ぼくは香宮の隣に置いてあったもう一つのじょうろを取った。そばにあった水道で、中に水を流し込む。香宮がそばで小さくなにかを言っていたけれど、聞き取れなかった。
小さなじょうろは、あっという間にいっぱいになった。あ、香宮が使ってる方がかっこいいな。ぼくの、カエルの形してるや。
「手伝ってくれるんですか? うれしいです」
「うんうん! 変な連中が香宮のこと狙ってきても、ぼくが追い払ってあげるよにね。もうそろそろ陽も沈むし、危ないよ。さと――……」
里巳のそばにいなきゃだめだよ。
そう言おうとして、思わず、思考がストップする。あまりにも自然に、口から出そうになったことに、愕然とした。
ああ。もう完全に、ぼくの脳内の中じゃ香宮は里巳と一緒にいるって決まってしまっているんだ。今は、いないのに。無意識に、香宮のそばに里巳を見ている。
やだな。怖い。
「く、九条とかと一緒にいなきゃ。いつどこから狙われるか、分からないし」
「でも、最近減ってきていますし。……副会長さんの親衛隊さんも、時々守ってくれます」
当たり前だよ。香宮が傷ついたら、里巳がつらい気持ちになるもん。きっと。
「でもだめ! うち確かに八割は品がある学生だけど、ほんとどこにあとの二割の無体な連中がいるか分からないから!」
「ふふ。副会長さん、やっぱり噂と違ってやさしいです」
天使のような笑顔で、香宮が笑う。あまねく植物や花に水がいきわたるように器用にじょうろを動かす香宮にならって、ぼくもカエルのじょうろを動かした。……すぐ水なくなる。
「香宮は可愛いから、特別なんだよー」
香宮は特別だもん。ぼく、だれにでもやさしくない。
香宮、やっぱり可愛いなあ。眼鏡しているけれど、その奥のガラス細工みたいに綺麗な瞳は隠せていない。顔立ちだって、整っている。こういう純朴な感じが、きっと里巳のツボをついたんだろうなあ。成績もいいから、あまり知られていないけれど去年風紀への打診があったらしいし。
よかった。香宮、いい子だ。
いい子ならいいや。きっと香宮が里巳のものになって、里巳が香宮のものになったら、二人ともお互いをとても大事にするだろう。
「副会長さんの方が、可愛いですよ」
「ぼくは全然だよ。性格真っ黒だもん。何より、九条も、香宮のこと可愛いと思ってると思う」
「九条? ……里巳のことですか?」
人知れず、胸が痛む。
――里巳。
そうやって呼ぶのは、今までぼくだけだったのに。もう香宮は、里巳って呼んでいるんだ。そうしたら里巳も、香宮のこと。
いたい。
むねがいたい。針が何本も刺さって、取れないみたい。
「そうそう。九条はね、小さい頃からぼくの付き人なんだよー。あの通り頭もよくて、容姿もよくて、性格も落ち着いてるしスマートだし、ぼくの身の回りのことはなんでもそつなくこなしちゃう。ほんとう優秀なやつなんだよお」
すでに花壇と水道の間は三週している。もうそろそろ、花壇の水やりも終わりそうだ。端っこまで、さっと水をかけてやりながら、やわらかく苦笑する香宮の声が耳に届く。
「でも、すごいですね。里巳は……」
「うん。ねえ、香宮」
「なんですか?」
「ほしい? 九条のこと」
沈む前の赤い夕日に照らされた景色をバックにした香宮の方を、くるりと向く。花壇の水は、最後まで終わった。
影になった香宮の表情は、暗めだが、おどろいているみたいだ。ぽかんとした、呆気にとられたような表情。
「ほしいなら、あげる」
ぼく、もういらないから。そこまで言おうと思ったのに、どうしても、言えなかった。
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