09



     *



 ――おにいちゃん、おにいちゃんは世界一ぼくのことをたいせつにしてくれるね。ぼく、おにいちゃんだいすき。……ぼく、おにいちゃんが世界一たいせつ。おにいちゃんにしあわせになってほしいよ。

 僕のしあわせは、おまえといっしょにいることだよ。

 ――おにいちゃんのしあわせが、ぼくのしあわせ。えへへ。

 僕のしあわせも、おまえといっしょにあるんだよ。



「……く、……――さく」

「ん……っ」

「朔……藤様のおむかえ……」

「あ、もう……そんな時間?」

「あさだよ……朔、こわいゆめを見たの?」


 ――ちがう。


 しあわせすぎてどうしようって思えるような、そんな夢だった。ほんとうにそんな話をしたのか、したとしたらいつのことなのか、それさえも思い出せないようなやさしい会話の逢瀬。

 心配そうに僕を覗きこんだ真鶴が、僕の頬にいつの間にか流れていた涙の筋を、袖でぎゅぎゅっと拭う。


 ――おにいちゃんのしあわせが、ぼくのしあわせ。


 まだ、そんなことを思ってくれているのかな。それとも僕のことなんて忘れてしまうようなしあわせに溢れた生活をしてくれているのかな。……どっちだっていい、僕を忘れてしまっていたっていい。

 僕はこうして甘えたり、泣いたり、慰めさせたりする真鶴を、ほんとうは利用しているのかもしれない。どこか弟の影が垣間見えるこの子どもを、自分自身の罪滅ぼしに使っている。真鶴ごと、あの影を遠くに眺めている。

 いつまでも大切な、僕の弟を。


「いい夢を見たからだよ。……こわい夢じゃない、心配させてごめんね」

「いいゆめ? どうして泣くの?」

「……いつか、きっとわかるときが来るよ」


 すこし緩和してきたからだの痛みに鞭打ってからだを起こすと、まだ不安そうな顔を拭えていない小さなからだを抱き寄せて、頭をぽんぽんと撫でてやった。


「さて、行くかあ。……真鶴も、そろそろ葵様のところに行きな」

「ん。……いく」

「よし」


 お客さんのための部屋に面している整備された縁側とは逆――花宮の裏側位置する使用人用のやや古びた庭に出て、朝露に濡れた雑草の緑っぽいかおりと、乾燥した空気を感じながら、錆びた水道で顔を洗った。

 水都様が来てから、あっという間に三日が経ってしまった。……あの御方は、昨晩、藤と同衾して過ごしたのか。


(やめよう……)


 醜い感情は、いらない。頭を振って、いやな考えを朝の霞に乗せて散らす。

 ……戯れにくださった夢のようなあの一夜のことは、特別だったのだから。今日は、水都様が最後に見た僕の姿が笑顔であるように、せいいっぱい送り出すんだ。

 やわらかい日差しが下りてきた。朝餉あさげを作りはじめる音が聞こえて来て、世話人たちが廊下を行き来するせわしない足音が花宮の床に響きはじめる。

 名残惜しそうにくっついてくる真鶴を送り出した後、藤の部屋の前にそびえる障子の前に立って、軽く深呼吸する。……大丈夫、今日で最後だから、せめて笑顔でいよう。そう思って障子に手をかけると、まるで魔法のように向こうからそれが横に滑った。


「あら、いたいた。……いつもよりも遅いからどうしたのかと思ったよ」


 勢いよく開いた障子の向こうにいた藤は、既に一切の乱れがない。涼しげな音を立てて鳴る頭上のかんざしに、整えられた梅重うめがさねの着物。ぽかん、とした僕とは裏腹に、おそらく僕よりも先にしゃっきりと目を覚ましているらしい藤が入って入ってと促してくる。


(こういうお世話のしがいのないところ……いつもの藤だ)


 昨晩縁側へと逃げそこねた微かな薫物のかおりの残る部屋へ、足を踏み入れる。


「ごめん、僕遅かった?」

「いつもよりはねえ。まさか寝坊して他の世話人に起こされたとか?」

「……今朝は真鶴が」

「古株が台無し」

「たまにはそういうこともあるよ……」


 いつもの藤だ。僕は、いつも通りお話できているかな。緊張して、声、震えていないかな。


「やあ、おはよう朔」


 今朝は寒さが厳しかったねえ。なんていう、まったりとしたお声。


 ――朔。


 あの夜とは打って変わった、いつものその声に顔をあげると、既に布団の上で完璧に衣裳を整え終えている水都様が優雅に僕の方を向いていた。


「あ、えと、……おはようございます」


 そっと安堵する。水都様、いつも通り。よかった。


「たしかに、今日は遅かったようだね。……真鶴というのはどの子だい? 今度お寝坊さんのきみを起こしてくれたお礼をしなければね」


 クスクスと冗談をいう水都様と、それにのっかって僕をからかう藤。それでも、いつものようにむっとするよりも、いつもどおりの空気であることへの安堵感が勝った。

 例によって開け放たれたままの障子からこぼれる朝の陽ざしが、水都様を背中から眩しいほどに明るく照らしている。水都様の腰掛ける布団は、そこだけが皺になっており、他の一切は整えられている。

 ……また僕の仕事、藤だか水都様だかに取られてる。


「さ、じゃあそろそろ僕はお暇することにするよ。……ふたりとも、三日間とても楽しかった、お礼をいうよ」

「あらそうですか。では朔とお見送りを」

「ああ、それはいらないよ。……ずっと僕に付き合わせてしまったからね。三日間客の元に働きづめることなんてなかなかないし、疲れているだろう」

「……それではここで失礼します」

「藤はほんとうにさっぱりしているねえ」


 水都様が、苦々しく笑った。僕は見送りのために部屋を出ようと開けかけた障子への手を止めて、穏やかにやり取りをするふたりを唖然と見つめる。


(見送りがいらない?)


 軽やかに笑って見せた水都様は――たしかに、既に羽織を着ている。

 いつもなら、淹れたお茶を飲んで帰っていくのだ。昔はまずかった僕のお茶を、ふたりでたっぷりと時間をかけて、「美味しくなったね」って、僕にいじわるをしながら。水都様は公務に戻りたくないなあっていいつつ、重い腰をあげて支度をはじめる。

 それなのに、今日はその一切が既に整っている。今気づいた。水都様は、僕と藤が揃ったらお暇する気だったのだ。


「今日は一段と、お客さんのお見送りが多い。ここで静かに送ってくれるだけで十分だよ」


 そんな、待って、と、落ち着きかけた心が一気にざわめいていく。まだすこしの時間が残されていると思ったから、油断していた。いつもの空気感に落ち着いて、とびきりの笑顔を作る時間があると。

 けれど水都様は、もう立ち上がって布団に寄ってしまった皺をはたいている。お客さんの意向に従うらしい藤は、ごねることなくそばでそんな水都様を眺めていた。ふたりの後ろ姿を、どうすることもできずに見つめる。

 待って、と、喉元まで出かかった声が、また喉の中へと押し込まれていく。


(世話人の僕が、この御方に、藤の前に出てまでいえることなんて、なにもない……)


 深呼吸をして、最後に求めていた水都様との時間は、あっさりと終わりを迎えようとしている。


「……朔」


 シーツを整えた水都様が、出入りの障子を背中にして立ちすくんでいた僕を、振り返った。


「は、はい」

「今日も、きれいにしておいたからね。……いつものようにお茶をいただかなくて、すまないね」

「いえ、そんなこと……」


 そんなのいい。お茶なんて飲まなくていい。なにもしなくていい。だけど、もうすこしだけ貴方をお目にかける時間が――。


「ああ、そうそう。きみにいおうとしていたことがある」


 朗らかに、だけどあの夜よりもずっとあどけなく、水都様が微笑した。僕の知る、この世のものとは思えない、きれいな笑顔。


「次は、春に来ようと思う。……桜が咲くころに、ね」


 そうして、はなびらのようにそっと僕の頭に落ちた手は、一瞬で消えてしまった。視界で水都様を捉える前に、その姿はすこしの名残を見せずに、ふっと縁側へ消えていった。あとかたもなく、花が散るみたいに、氷が解けるみたいに。

 それは、一瞬。

 名残なんてなかった。

 ああどうしよう、僕は、最後の水都様のお顔を、しっかり見ることができなかった。


 僕は――……。


(なにも、いえなかった)


 またお待ちしています、なんていう嘘も、さようなら、といういつものあいさつに見せかけた今生のことばも、なにもかも。そうして、僕は水都様を永遠に失ってしまう。

 くちびるが、震えた。棒のようだった足が緊張をなくして、ゆるゆると崩れる。座り込んで、なにもなくなった縁側を見上げる。


(いやだよ――……っ)


「朔」


 そばで、布が擦れる音がした。背中に回された手と、藤のにおいがした。そうして僕を藤がやさしく包み込んだ刹那――すべてが決壊した。せき止めていた心の壁が、がらがらと音を立てて崩れていく。


「……なりたい……っ」


 畳についた両手に、大粒の雨が落ちるみたいに。


「僕、み、みなと、水都様の……うちのこになりたい……っ」


 ――うちの子になって、桜を見に行こうか。


「ずっといっしょにいたい……! 花宮からいなくなる僕を、みなとさまに、……忘れて、ほしくない……!」


 ほんとうは、いつ水都様がここを訪れなくなってしまうのか、待つのがこわかった。あんな風に水都様に身請けの話を持ちかけられたとき、すぐに頷いてしまいたかった。

 身分不相応でも、僕にどんな罪があっても、一緒にいたい。


「いっしょに、生きたい」


 ひとりで生きたくない。


「水都様がいい……っ」


 もうほかのどんな魅力的な御方にも、こんな恋はできない。


 その御方はいつも、“約束”なしに突然僕の元へ現れる。でも、今日だけ、約束をくれた。次は春にくるからと、まるで僕に逢いに来るからとなだめるみたいに。だけど僕は、水都様が唯一くれた約束を守ることができない。

 ふわ、と、あたたかく何かをかけられる音。……見上げると、やわらかく笑った藤が、僕にかけたそれを整える。


 ――あの日、僕にくれた、美しい氷重の羽織。いつから、藤の元にあったのだろうか。


「ふ、じ?」

「行きなさい、朔」

「……っ」

「おまえはなにもかも我慢する、自分を卑下する、ほしいものをいわない、いい子よ。とびきりやさしい子。……でもそれじゃあ、ほんとうにほしいものを、逃してしまう」

「で、も」

「朔は心がきれいだよ。……大丈夫、想いだけでも伝えておいで。もう二度と逢えなくなってしまう相手なんだから」


 藤の女性らしいしなやかな手が、ボロボロになった僕の涙を拭っていく。その目に、動揺や驚愕はない――あの日僕を見送ったときと同じ、静かな目をしている。


 ――何年一緒にいると思ってんの。顔見れば、おまえのことならなんだってわかるよ。


 そうなんだ。そのことば通り、きっと藤は、僕の汚い気持ちすべてを知っていた。そうして、なにもいわずに見守ってくれていた。


「い、いって、くる」


 最後のさようならを、いいたい。

 季節が変わって花が吹き散るころ、僕はもうここにはいないこと。水都様がはじめてくれた約束は、永遠に守られることがないということ。そして――。

 足に力を入れて、立ち上がる。藤が、うん、と、小さく頷いた。


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