08
*
――一晩だけ借りるよ、藤。
そのことば通り、水都様が僕を攫ったのはその一晩だけだった。
「……朔、目、覚ました。……おはよう」
気づけば僕は花宮の、世話人のための雑魚寝用に用意された部屋の布団に寝かされていた。薄く目を開いたとき見えたのは、いつも朝早くに見る無機質な天井と、心配そうに僕を見下ろしていた真鶴の姿。違和感は、朝暗いうちに見る天井が、今日は真昼の明るさに満ちていたことくらいだ。
真鶴がどんなときもどこか不安そうに眉を下げているのはいつもと大差ない。
(すごい、長い時間、寝てたみたい)
気だるげな眩暈を感じていたけれど、とにかくいったん起き上がろうとからだに力を入れる。
(……あれ……)
「朔? 起きる?」
「あ、ああ……うん起きるよ」
「朔はいつも、ぼくを起こす……だから、ぼく朔がねているところはじめて見た。ずっとねてるから、起きないか起きるかしんぱいだったの……」
「ああ。……ごめん、心配かけたな」
おかしい。からだに全然力が入っていかない。だるくて、それに――いたい。どうしようもなく。
鈍い痛みが、昨夜起こった甘美で恥ずかしいことを細部まで生々しく思い出させる。あれは、やっぱり夢じゃない。今日僕がいるこの花宮はいつもの場所だけど、あの一夜は確かに現実だった。
「朔? 顔、赤い……おねつ?」
「ん……ちょっと調子が悪くてね。真鶴は葵様のところはいいの? 僕のところばっかりいないで、お仕事は?」
「朔、ねむっているときに、おわらせたよ」
そこはちょっと得意げだ。褒めて褒めて、というように顔を寄せてきた真鶴の頭に腕を伸ばして、くしゃくしゃ撫でてやる。真鶴は満足げに目を細めた。
「あ、あのね、あと藤様が、今日と明日はおやすみしてて、って。おきゃくさんといっしょにいるから、大丈夫って。……明日おきゃくさん、あさ送るときだけ時間しらせにきてって」
――あとね、今日から三日分藤を買ったからね。
何を素っ頓狂なことをいっているのかと思ったけれど、あれはほんとうだったのか。
(明日まで、かあ)
どのようにしてかは想像もつかないものの、僕をここへ送り届けたのは、十中八九水都様だ。……その後、藤の元へ戻ったのか。なんだ、そうなんだ。
さっきまでからだにあった物理的ないたみのうえに、胸がキリキリと削られるような心の奥底でのいたみまでが襲ってくる。こっちのほうがずっといたい。
「ん、わかった。お伝えありがとう」
「葵様、今日はおきゃくさんいないの……だから、ぼく、めずらしく朔がおやすみだからいっしょにいる」
いうやいなや、真鶴がいそいそと僕の横になっている小さな布団に入ってくる。からだをぴたりとくっつけるように、ためらいなく僕のそばへと擦り寄るあたたかい体温。あの冷たい手とは違い、ひとの、子どもの、ぬくもりに、ひっそりと安堵した。
「……朔、ほんとうに、おねつない?」
「ないよ。確かめてみる?」
「ん……ぼくとおなじくらい」
「でしょう」
「よかったあ」
いもむしのように上ってきた真鶴のひたいと僕のひたいが、こつんと重なった。
無邪気に笑った真鶴の小さなからだを、ぎゅう、と抱きしめる。
「……朔? あまえんぼ?」
子ども独特のぽかぽかした体温が、あの御方が入ってきたせいでどこか冷えてきたように感じる僕のからだに、ゆっくりと熱を移してくれる。いつもは僕が真鶴をなだめたり、真鶴が甘えたになって僕に擦り寄ってきたりする方が圧倒的に多かったからか、抱きしめられた真鶴はすこしうれしそうだった。
(明日まで、なんだ。ほんとうに、あの御方とこんなにも近い距離で時を過ごすのは……)
藤にお休みをもらえてよかった。今は、水都様はおろか、藤とさえも顔を合わせたくない。水都様のてのひらを知ってしまった僕が、同じように水都様に抱かれているだろう藤を前にしたら、きっとおかしくなってしまう。きっと僕とは違った意味でだけど、水都様をお慕いしている藤と、どんな顔をして話をしたらよいのだろう。
(どうしてあんなことをしたのですか、水都様)
次に貴方がこの場所を幸運にも訪れてくださったとして、僕はもう花宮から姿を消している。……僕はこれから永遠に貴方のいない世界で生きていかなきゃならない。
それなのに、どうして――……。
(胸が苦しい)
もう水都様を忘れることができない。こんなしあわせを知ってしまったら、ひとりでは生きていけない。
「お仕事、おやすみ。朔と、いちにちいっしょ。うれしいなあ」
「僕もだよ。……だけど葵様が聞いたら、悲しむかもね」
「葵様のことだいすき。もっとなかよくなりたいから、いわないでね」
「ん、約束」
「約束」
あの晩に体力を根こそぎ奪われてしまったのか、まだ、眠い。やわらかい髪を撫でながら、うとうとと、意識が遠くなっていく。
(どうしよう、真鶴と話をしてあげなきゃ。この子はまだ眠くないだろうに……)
それなのに、ひどい眠気が、僕を意識のない世界へと強引に誘う。
ずきずきとする胸のいたみは、まるで夢の中にまで僕を襲ってきそうだった。
(明日は、ちゃんと水都様を送り出すんだ……だって、もう一生会えないかもしれないから)
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