04
寂しく微笑して僕の心を放してくれた雪影様を残して、藤の部屋へと向かう。水都様が自分で買ったというのに子どもたちと遊んでばかりいるから、どうせ暇だろうって。部屋へ入ると、文字通り暇を持て余しているらしい藤がごろごろと布団に横になって、この間お客さんからもらったらしい分厚い本を読んでいる。
「ふーじー! だらしない、おしとやか!」
「いいじゃないの。おまえしか見ていないんだから。うるさいなあ」
水都様が偶然入ってきてこんな花宮に仕える女にあるまじき姿を見ようものなら、卒倒……はしないかあ、あの御方もあまり気になさらないところがある。藤は文句をいいながらも、むくりと起き上がって本にしおりをした。
布団を整えてやる。ここは夜になったら水都様が訪れる手はずになっている。しわしわのままじゃいただけない。
(ここに、水都様がくる……)
当たり前だが、夜の間使用人は部屋へ戻るか、部屋の前で宿直をするかである。藤はいつも宿直が必要ないといっているので、結局僕は部屋へ戻っている。だから、一度も見たことのない、水都様と藤の夜を、なるべく想像しないようにしていた。
死んでしまいそうなほど心が痛くはならなかった。だって、どうあがいたって男の、使用人の、子どもの僕にとって、水都様は手の届かない存在だ。
このまま時々会えるだけでいい、待つだけでいい。それももうすぐできなくなってしまうのだけど。
心を落ち着かせて布団を整えていると、ふ、と影がさした。視線の先には、さっき整えた布団に乗り上げる艶やかな着物。
「藤ったら――……」
「朔」
またしわが寄るし、着物もぐちゃぐちゃになる! といおうとしたのに、僕の顔に伸びてきた藤の手がそれを遮った。
「きれいになったね」
花宮に守られる、宝物のような手のひらが、確かめるように僕の顔をすべる。やさしいそのしぐさに、すぐに動けなくなった。
藤はたまに――僕が出てくと話してから、たまに、こういう悲しそうな顔をするようになった。うぬぼれではない、それは僕と藤とが歩んできた花宮の軌跡から僕だけがひとり消え去るということに、ひどく不安を感じているのだ。花宮の舞台にふたりきりになってしまっていたはずの僕らの中から、今度は僕が藤を残して。
「おとなになった?」
「私にとって、おまえはいつまでも花宮に来たときの泣き虫な子どものままだよ」
「なにそれ……」
――きみは、そうだな、四年後にはこの花宮の人気者たちにひけを取らない美しさを持つようになるよ。
水都様にそういっていただいてから、四年。途方もない時間に思えた時は、穏やかに、でも急流のように過ぎていった。僕の背はおとなの人間ほどではないにしろ、あのときと比べて伸びた、声も低くなった、藤がいうきれいになったというのは当人なのでよくわからないが。
僕だって、藤を置いていきたくないよ。
だけどそうもいかない、特に僕は。それは、藤も知っている。僕と藤はまるで姉弟のように育ってきたが、邪推の得意な支配人たちにとってそうは映らないらしい。必要以上に距離が近いとか、仲が良すぎるとか、とにもかくにもそういう下品な邪推や噂ばかりされている。出ていかないわけにはいかない。
「水都様に、出ていくことはお伝えしたの?」
「するわけ……ないじゃん。水都様はお客さんだもん、出ていくことをいっちゃだめだもん」
使用人風情が、そんなこと、いえないよ。
……約束がなかったから、こうして出ていく前に来てくださっただけで十分だよ。
次に水都様がこの花宮に足を運んでくださったときに、できれば僕がいないことに気づいて、すこしだけ寂しく思ってほしい。それは僕のエゴだ。
「水都様はいつだって藤に会いに来ているんだから、言えないよ……」
障子の向こうで、子どもたちの話し声と水都様の笑い声が聞こえる。楽しかったねえ、とか、今度はどこへ行こうか、とか。
藤の手が離れたことで、まるで金縛りから解放されたように体が動き出す。慌てて、布団を整えた。
「藤、戻ったよ」
「おかえりなさい。楽しかったですか」
「花宮の子どもたちは明るくてしあわせな子が多いね。藤と、朔のおかげかなあ」
手の中いっぱいに戦利品を抱えた中から、なにかをつまみだし、「お土産」と藤に渡している水都様。開け放たれた縁側の障子を覗くと、外はいつの間にやら闇に染まっている。藤の部屋のように煌々と明かりの灯った部屋は、既に少なくなっている頃だろう。そろそろ二人の時間だ。
手早く布団を整えて(ほんとうは藤の着物も整えたかったけれど、時間がない)、そっと何かを話し合うふたりを一瞥し、下がろうと後ろ手で廊下へと続く障子に触れる。
「ほら藤、アレ持ってきて」
「はいはい……今日はご機嫌ですね」
「そうだね。そしてきみの機嫌を取るために、たくさんのお菓子を買ってきたんだよ」
「普通、女たちが喜ぶのは花飾りとかだと思いますけど……」
「藤はお菓子の方がすきだろう」
今日も今日とて、おふたりの間には親密な空気が出はじめている。四年一緒に過ごし続けた時間が、そうさせているのだろう。世話人の僕にとって、お客さんと藤の仲がよいのは喜ばしいことだ。
(結局、藤も楽しそうだし)
お客さんによっては、朗らかに笑っているものの内心では(うわあつまんなそうだなあ)と感じる言動がちょくちょくみられるけれど、水都様と話すときの藤は格別きれいになる。
すらりとした身長と溢れる気品を備えたふたりが並ぶ姿は、まるで寄り添う花みたいに美しい。ここだけ、うつつの世界ではないみたい。
――って、見とれている場合じゃなかった。我に返って出て行こうとすると、折しも何かを取り出した藤が、僕の元へ来る。
「……藤?」
ふわ、としたそれが、世話人用の着物の上からかけられる。すこしだけ重たいそれを見下ろすと、白と鳥ノ子色に縫われた氷重のそれ。世話人というだけあって、地味な色ばかり着ている僕に、その冬の色は眩しいほどに明るかった。
「ふふ。やっぱり、よく似合う」
「これって……?」
「外は寒いから、これを着ていきなさい。おまえのために繕っておいたからね」
羽織に手をかけると、滑らかな感触。え、え、えっと……藤のいっていることが理解できない。
外は寒い? どうして外?
だって、僕はこれから部屋へ戻って世話人見習いの子たちと雑魚寝をしながら夜を明かすのだ。それなのにこんな僕に似合うはずのない、薄い高貴な着物なんて――。
「藤、なんで……」
「それはね、今日一日、僕がきみを藤の元から攫って行ってしまうからだよ」
「へ――……っ!?」
水都様、といおうと吸い込んだ息はそのまま、あまりの衝撃に喉元で飲み込まれてしまった。確かめるように羽織を触っていた僕を、文字通り水都様が攫った。重くのしかかった羽織ごと、僕の体をふわりと抱き上げて。
驚きのあまり口をパクパクさせているうちに、水都様の手はいつの間にやら、僕の顔を覆うように羽織を引き上げた。額が、水都様の胸にダイブして、気づいたら薄暗い中でその着物だけが視界を覆っている。
「え、ええ!? ……ちょ、えと、藤!?」
「あはは、朔、びっくりしているね。暴れると水都様のところから落ちるよ」
「で、でも待って! これってどういう……!」
さっきまで僕は、ふたりの部屋から姿を消す、ただの世話人だった。それなのに、今、どうしてこんなことになっている? 足音でわかる、水都様は藤を置いて、僕を攫ったまま部屋を出ようとしている。
「ふ、藤――……っ」
「いいのよ、朔。いってらっしゃい」
藤の心が、まるで夜の海のように静かに落ち着いているのがわかる。そしてその声は、迷いなく僕を外の世界へと連れて行こうとしている水都様を許している。
「一晩だけ借りるよ、藤」
「ええ」
どうぞ、という藤の声からは、落ち着いているという以外はなんの感情も読み取れない。
水都様の歩みに、躊躇はない。僕といえば……いまだに驚きすぎて、騒いだり抵抗したり暴れたりすることすらできず、唖然としたまま。
「み、水都様?」
「なんだい?」
「えっと、これは……」
「ふふ。きみに見せたいものがあってね、どうしても今日、藤からきみを借りたかったんだよ」
……見せたいもの?
頭までかぶせられた羽織の隙間から、水都様の歩く廊下と、その向こうへ続く外を見ると、花宮には既に煌々と明かりが灯っている。お客さんを誘う妖艶な笑い声と、どこか酔っぱらったような陽気な獣人の声とが、あちこちで重なり合ってこだましている。
夜の花宮は、どこかけだるげな昼と違い、騒がしい。
「あの、僕に見せたいものって……」
「それは着いてからのお楽しみかな。ほらほら、羽織をしっかり被りなさい。きみの姿がバレてしまっては困るんだからね」
そうしてまた視界を塞がれる。有無をいわせないその強引な仕草に、(僕の姿がバレるのが困る?)という言葉……すこしだけ、いやな予感がする。
「み、水都様……!?」
それに、さっきと違う、土を踏む足音でわかる。もしかして、もしかしなくても、このひとはこのまま花宮を離れる気?
使用人が夜に花宮を出ることはご法度だ。そもそも色街へ買い物に行くのも、一時は支配人に咎められていたくらいだ。ましてや僕みたいなのが夜出歩いているなんて知られたら……。
「おやおや北の御方様」
(……っ)
思わず自分の口を塞いだ。でないと、あられもない声が出てしまいそうで。身じろぎをしたところを、これ以上動かすまいと水都様が押さえ込んできて、苦しい。
「あ、こんばんは。ちょっと今日はこれから外へ」
「女を外に出すなら一言申していただかないと困りますよお。……まあ、貴方様だから特別ですよ」
「助かるよ、いつもありがとう」
「とんでもございません。こちらこそいつもよくしていただいているんでねえ」
あ……あれ?
よくわからないけど、バレてない……?
(それに今、……女、って)
確かに僕は水都様にひょいっと抱っこされてしまうくらいには小さいけれど、それでも、もう十七なのに……羽織を被っているだけで間違われるなんて……。
いってらっしゃいませ!
さっきまですこし胡乱げだったそれが、弾んだご機嫌な声に変わったのは、その後水都様が「お礼にいつもより多く置いていくよ」と支配人にいったせいだ。おとなの世界は、フクザツなんだか単純なんだかわからない。
しばらく経って、土を踏む音が止むと同時に、羽織が頭上から消える。すっかり籠ってしまっていたそれに、夜のひんやりした空気が流れ込んだ。ゆっくりと地面に下ろされる。用意周到な水都様は、下駄まで持ってきていた。
経験したことのない危ない橋渡りに、高鳴る胸を押さえながら、羽織を着たまま呆然とする。ほんとうに……抜け出してきてしまった。
「ふふ。何かショックなことでもあったかい?」
「あ……あったといえば、あったような……だって、僕もう十七なのに、支配人に女と間違われるなんて……恥ずかしいです……」
「羽織を着ていたからだよ、きっと。元気を出しなさい、ほら、後ろを向いて」
水都様は、僕を未だに子どもだと思っていらっしゃるから、こうしてヘタクソなご機嫌取をするんだ。すこしむすっとしながら、振り返って、――息を飲んだ。
「わあ……」
そこには、赤や、黄、橙など、彩り豊かな光の中に浮かび上がる――夜の花宮の姿。昼にはただのぼろ屋敷かと思っていまうような外観を、美しいぼんぼりがやさしく照らしている。
思えば、外から屋敷を目に入れるのは、昼間に掃除をしたり、洗い物をしたり、お客さんをお見送りするときくらいだ。夜に浮かぶ花宮をこの目に映したことはなかった。
きれい。
お客さんがよく、まるで幻想の都のような場所だというけれど、その意味がわかった。
ここはとても美しい。
「ふふ。目が爛々と輝いているね。……じゃあ、行こうか」
「え……ここではないのですか?」
「もちろんだよ」
水都様が歩き出す。慌ててその背中を追った。名残惜しいわけではないけれど――何度も踵を返して、美しくそびえる花宮を見る。一歩、また一歩、進むごとに、そこは小さくぼやけていった。
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