01



10話とリンクしてます/魔王様視点


 いつもなら二倍ほど時間がかかる書類がすべて終わった。格好だけは豪奢な作りの大きな机の、左には未処理のもの、右にはすでに目を通したもの。いつもそのように置いてある。

 魔族の領にいるやつらの注文は多い。毎日気づかないうちに左には書類が塔のように積み重ねられていき、さばかないとあっという間に二列……三列となっていく。

 ところがどうだ。


「魔王様、今日仕事早いっすねえー」

「……」

「……ところで魔王様、なんでそんなに不機嫌なんっすか? 怖い……ロビンはエルフ様のところだし……」


 右にずらりと並ぶ何十もの紙っぺら。そのすべてに、魔王の印として印鑑がつけられている。左は閑散として、もはや手を付けるものは何もない。

 好き勝手飛んでいる妖精に目をやると、さっきまでおどおどしていたのが、一層視線から逃げるように落ち着きがなくなっていく。


「おい」

「は、はーい。なんでしょう、魔王様?」


 仕事はいつも、常に終わらない。左にはなにかしらの紙が数十枚は並ぶ。かつてはこうして左から紙が消えていた時期があったが、それは別に魔王領が平和だったからというわけではない。逆もまた、しかり。



 ――おーさま。おしごと?



 いつも終わらせる手前のところで、控えめに、猫一匹通れないのではないかというくらいの小さな隙間が扉にできる。そこからひょい、と、窺うようにこちらを覗く小さな影。きらわれたらどうしよう。そんな風に考えているのか、いつもよりも元気のない両方の耳。

 その姿につられるようにして、ついつい職務は後回し。結果として、書類は溜まっていく。エルがこの城に住み着いてからの、おおかたの日常だった。


「エルはなぜこない」


 妖精はただ、そんなこと知らないという本音を言うことはできなかったらしい。ひくりと怯えたまま「さ……さあー、ロビンが知ってるんじゃないっすか?」とだけ俺から視線をそらして呟いた。

 そうだ。あの日からだ。


 ――んう……おうさまあ……っ。


 街に出かけた、あの日から。いつも忙しいからと我慢しようとして、結局失敗してこの部屋を訪れるまで、三日と開けなかったというのに。

 そうでなくても昼間は構ってやろうと部屋へ赴いたりもしていた。ところがあいつは最近部屋でじっとしてすらいない。確かに、あったかくなったから庭に出てもいいと言ったのは俺の方だが。

 とはいうものの、あいつが安全に遊んでいる以上追いかけていくのも馬鹿馬鹿しいのでその日は放っておいた。まさかその外遊びが、それから五日立て続けに開催され、おまけに夜も寂しがって来やがらないとくるとは、思わなかったが。


「ひい……っ! ちょ、いくら魔王様といえど潰すのは――」

「何の話だ」


 縮こまったあいつの横を素通りして、部屋の戸を開ける。


「……え? あれ? 珍しいですね、おでかけですか?」

「書類は終わった。問題ないだろう」

「そりゃ……そうですが」


 後ろから、意外だという声色。無視して、煌々と明かりがついた部屋を出た。すこしだけ暗い廊を渡って、今ではもう行きなれた奥の部屋へと歩く。あいつが斜め後ろをついてこない分、大股で。

 確かにいつもよりも、触ったときのあいつはおかしかった。原因といえば、それしか思い浮かばない。



 違和感がなかったのは、最初の一日二日だけだ。あいつがなにも考えずに俺と会わない日が続くわけがない。何か思うところがあるに違いのだが。

 正直、そんなことはどうでもいい。目下の問題は、こっちにあいつを構う時間が不足しているという事実だけで。

 気配だけで分かる。扉の前に立てば、あいつがこの向こうの大きなベッドの端っこで、丸くなっていることが。猫だったときの習慣なのか、抱きついてくるとき以外は小さくなって寝るのが好きらしいから。

 そっと扉を押して、中に入る。寝ている雰囲気は感じない。ベッドサイドの薄い明かり以外は消えているのか、暗がりの中ほうっと照らされたベッドで、思った通りあいつはこちらに丸めた背中を向けている。

 それにしても、こうしてすこし遠くから見ると、ますます小っこい。


(ロビンは、いないのか)


 きい、とほんのわずかに軋んだ音が立ったが、背中はぴくりともしない。気づいていないのだろうか。

 そっと近づいていくと、わずかに身じろぎをして、「んー……」というよくわからない声。まぎれもない、エルだ。

 五日も放置させるとは――と言いたいのはやまやまだが、それも馬鹿らしい。そばに近づけば、壁に視線を寄せているエルの横顔が見えるくらいまでになる。

 それでも気づかない。ほんとうに、野生にいたらあっという間に肉食獣に食い殺されてしまいそうな猫である。


「んー……おう、さま」


 小さく呟いたエルが、左手をパーにして、ぼうっと呆けたようにじっとその一点を見つめる。その薬指には、あのときの指輪がはまっていた。

 ちゃんと、しているのか。しとけ、と、念を押したのは俺だが。

 エルの横顔が、不意にふわりと歪む。小さく笑みを作って、「ふふ」と何を思い出しているのか楽しげに笑った。


「おうさま、すき」


 確かめるように手のひらを引き寄せて、薬指のリングにちゅう、とキスをする。そこで、何かが切れた。確かに、切れる音がした。


「んー……っふあ!」


 ベッドが急に大きく背中側に沈んだことに、本気で驚いたらしい。ぴくりと怯えるように体を揺らして、それから後ろの俺と目を合わせて、また目を見開く。


「好きなら、なぜ部屋に来ない」

「……お、さま……っ!」


 いつもなら笑って一直線に曇りなく俺の名前を連呼するはずなのに、エルは俺と指輪を交互に見合わせたあと、首まで真っ赤に顔を染めた。


「おうさま、……み、……みた……っ」


 薬指のキスのことか。

 後ろは壁、前は俺の体だというのに、真っ赤になってベッドから逃げようとするエル。うろたえる体を、難なく捕まえる。久しぶりの、初夏にしては温かすぎる体に、数日の疲れがすっと消えていくような心地。


「やー……!」


 ぎゅうぎゅう肩を掴んで手を突っ張るようにして距離を取ろうとするのが面白くない。これはこれで可愛いが、さっきまでもっと可愛くて素直だったというのに。

 エルは、だんだん素直じゃなくなってきた。


「ほら答えろエル。なぜ来なかった」

「だ、だって……っ。お、さま……ちゅー……!」


 その先を言おうとしたのだろうが、ことばにならなかったらしい。パニックのまま口を金魚みたいにぱくぱくさせたエルは、それでも今度は逃げるのをやめて力いっぱい俺の胸の中に抱きついてくる。


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