02



     *


 その後は寝息を立てる千尋くんを起こさないように音を立てず、すこしずつ缶を片付けた。シンクに缶をすべて持って行って、寝室から持ってきたタオルケットを千尋くんにかけた丁度そのとき、インターフォンが鳴った。

 先輩かな。

 半信半疑のまま、チェーンを外して鍵を開ける。するとこちらから開く前に手をかけた扉ががたりと開く。

 吸い込まれるように前のめりになって、次の瞬間勢いよくのしかかるように体当たりしてきたなにかにぎゅう、と抱きしめられる。


 え。え、ええ?


 しかも――なんか、重すぎて後ろに倒れるような……!


「こら健斗」


 しかし片手で目の前のなにか、もとい三上くんらしき人物の首っ玉を鷲掴みにした先輩が、反対側に引っ張ってくれる。……背中を打ちつけるかと思った。


「うぐ……あの、こんばんは」

「久しぶり。夜分遅くにすまないね。この馬鹿も」


 肩越しに見えた、どこからどうみてもド素面な先輩が、綺麗に微笑んだ。

 ていうか、えっと。どういうことだろう。このおれをぎゅうぎゅうと抱きしめて離さない体は、三上くんということでいいのだろうか。


「……しのぶ……鍵は開けておいちゃだめだ。おかえり」


 だとしたら。


 だとしたら、これは完全に酔っ払ってる……!


 くっついているとすごくよく分かるが、三上くんの足取りは既におぼつかない。ふらふらと揺れる体に比べて、後ろの眼鏡の先輩はけろりとしている。先輩、どこかで泥酔した三上くん拾ったのかな。


「一緒に飲んでいたのだが、こいつが潰れかけてね」


 ……このひとザルだ。絶対ザルだ。

 もだもだしている三上くんの横を「上がるよ」と通った先輩が、中へ消えていく。きっとすぐに眠り続けている千尋くんを見つけていくだろう。

 その背中を見つめながら、やっぱり、と思う。やっぱり、先輩千尋くんのことだいすきじゃないか。なんとも思っていないひとを夜中にホイホイ迎えに来るほど、先輩はおひとよしじゃない。


「しのぶ」


 消えていく先輩の背中を見ていた顔を、ぎゅう、と挟まれる。い、いたい。

 目の前の三上くんは、すこしも顔が赤くなんてない。それなのに目だけはいつもの真っ直ぐさに比べるとややおぼつかないようにさまよっていて、紛れもなく酔っているのだと気づかされる。


「ど、うしたの……三上くん」


 それに、なんだか近いような気がするし。


「玲二はだめだからな。だめだ」


 ん。もう全然どういうことか分からない。とりあえず分かった、と言うと、ますます抱きしめる力が強くなった。おれの肩口に顔を埋めた三上くんが、はあ、と小さく息を零す。熱い。

 寝巻用のティーシャツのせいで、よれて肩が半分出そうになっているせいか、三上くんの吐息が直に肌に当たってくすぐったい。


 ぐらり、と三上くんの体が揺れる。

 あ、と思う暇もなかった。

 さっきみたいに先輩はいない。そのまま尻もちをつくように倒れる。結構な音がした。たぶん、明日近所のひとになにか言われる。


「ん……しのぶ」


 三上くんは、ぴたりとくっついたまま、離れようとしない。すっぽり覆われたまま、途方に暮れる。ベッドまで運ぶことすらできない。


「向井田」

「え……あ、先輩」


 さすが先輩と千尋くんとでは体格が違うためか、顔色ひとつ変えずに千尋くんを抱えた先輩がおれを見下ろして、それから三上くんに視線を映して、眉を潜める。


「約束通り、交換だ」

「え、あの……先輩三上くん、ベッドに――」


 せめてベッドに運ぶのを手伝ってほしい。そう言おうとする前に、先輩がすたすたと玄関の方に歩いて行く。


「悪いな。こいつで精いっぱい」


 いやいやそんなわけないでしょうに! ちょ!

 なんていう暇もなかった。立ち上がろうと手を伸ばすけれど、なぜか目の前の三上くんの体に押されて叶わないまま、無情にも閉まっていくドアを見送る。


 え、え、ええ――……。


 いっきにしんと静まりかえって、伸ばした手が宙ぶらりんのまま、下がる。三上くんは、微動だにしないままおれを抱きしめ続けている。


「三上くん」

「しのぶ……おかえり」

「うん。えっと、おかえりは三上くんだよ」

「しのぶ」


 顔を上げた三上くんが、視線を彷徨わせて、それからおれを見つめる。


「しのぶ」


 座りこんだおれの胸に、かがむようにして頭をぐりぐりと押し付けた三上くん。……う、かわいい。


(普段、絶対にこういうことしないのに)


 ふたりでいるときも、おれと三上くんの距離はゼロよりも開いている。甘えた声でおれを呼ぶことも、こうしてひたすら抱きついてくることもないわけで。

 酔っているはずなのに、力だけは強い。むしろ加減を忘れている所為か、いつもよりも苦しい。

 なんだか、勿体ない。いつもは絶対にこんなことしてくれないから、ついついもっと一緒にいたくなってしまう。酔っ払い三上くんなんて簡単には拝めないだろう。


 うう。葛藤が。


「三上くん……とりあえず、おれのベッド貸すから、そこまで歩ける?」


 体を持ち上げるように脇に手を入れて引っ張るが、全く動かない。回ってきた手に引き寄せられるようにしてふたたび尻もちをつく。いやだ、というように三上くんが首を横に振った。


「しのぶ。だめだ、ここに」


 いつもよりも舌っ足らずで幼い口調。


「う……でも、もう寝た方がいいよ。酔ってる」

「酔ってない」


 言下に否定される。いや、酔ってるよ。

(でも)


 なんだか、可愛い。いつも絶対に隙を見せずに、おれを守ってくれる三上くんが、今日はこんなに無防備に甘えてくる。立とうとすればおもちゃを取られる子どもみたいに引きとめようとする。


 う。惚れた弱みだ。

 さらり、と、三上くんの髪の毛を撫でる。おれの胸に顔を埋めていた三上くんが、気づいたようでこちらを見上げた。上目づかいでおれを見上げて、不意に両手が眼前に伸びてくる。

 避けるよりも前に、頬を掴まれて、三上くんの顔が迫ってくる。


「あ……の、みか……」


 最後まで言えなかった。ついばむように唇を寄せた三上くんが、ピントが合わない位置でおれの名前を呼ぶ。かかる息は、ほんのりお酒の匂いが残っている。

 わざとだろう。器用にちゅ、という音を立てながら、もう一度、またもう一度おれにキスを落とす。


「しのぶ……すき」


 さっきよりもずっとずっと、頬が染まる。

 分かっている。こんなの酔っ払いの戯言だ。意識が混濁している中で、たわむれに言っているだけ。

 だけど、理性を失い酔っ払って言うということは限りなく事実に近い……ということも言えるわけで。


「う……急に、なに」

「言いたくなった」


 三上くんが、いつもの十倍甘い笑みをたたえて、今度はおれの耳に唇を落とす。ちゅ、という音が直接耳に響く。

 息がかかって、くすぐったい。


「すき」

「ひゃ……あう」


 ――……たまには、不安を消してくれるようなことばがほしいよ。


 ろれつの回らない中で放たれた、千尋くんの言葉を思い出す。


 三上くんの気持ちを疑ったことなんてなかった。一緒にいる時間はもう随分長いし、おれを守ってくれる様子はいつも見ている。邪推なんてする余地はない。だから、千尋くんの言っていることはよく分からなかった。

 だけど、こうして「すき」の言葉を聞くと、体が勝手に安心する。嘘偽りのない無邪気なことばが、くすぐったいくらい嬉しい。


「三上くん……」


 楽しいのか、おれの耳にキスをし続けている三上くんが、ん、と小さくことばを返す。


「おれも、すきだよ」


 安心させてあげたい。

 おれは、三上くんのものだよ。恋や愛なんていうことばは三上くんそのものってくらい、きみしか見ていないんだよ。

 今はおぼろけにしか辿れなくなった記憶の奥底、小さな図書室で三上くんが背中におれを庇ってくれた日から、ずっとずっと。


「ん。わかってる」

「ひゃ……な、なに」


 さっきまでのキスが止み、かわりに耳朶を食まれる。甘噛みするように歯を当てられて、そのあとに酔っているとは思えないくらいやさしく舐める。

 片耳から流れる音に、体がぴくりと震えた。


「みか……ストップっ」


 ダイレクトな刺激に、指先がびりびりと痺れる。流されそう――。


 震える手で目の前の体躯を押し戻そうとするが、びくともしない。噛まれる痛みとはまた違う、体の奥がぞくぞくと粟立つような感覚。

 酔った三上くんの唇は、いつもよりもずっと熱い。


「しのぶ……」


 その声は、反則だ。眩暈を感じながら、ぼんやりと考える。

 おれだって男だ。こんなのされたら、流される。さっきまでかろうじて糸一本ほどで繋がっていたような理性がつぷ、と切れる音がした。体が弛緩していって、そのまま倒れ込む。


「……っ」


 どうにでもなれ――。


 戯れのような耳へのキスに応えるように、ぎゅう、と広い背中に手を回した。


「……」


 そのまま、三上くんの唇が、…………………動かない。まったく。


 それどころかさっきよりもずっと容赦なくもたれかかってくる体に、肺が潰される。うう、と小さくうめいたけれど三上くんは当然シカトである。

 耳に響いていた水音や衣擦れの音がすっかりやんで、辺りはふたたび夜の静けさを取り戻す。その後で耳元にかすかに聞こえたのは、穏やかなかれの寝息。


(う……)


 ほんのすこしだけ、(三上くんの、ばか)と思ったことは、絶対に内緒だ。

 普段の三上くんはおれにはもったいないくらいかっこいいけど、酔っ払った三上くんはもう、心臓に悪い。背中にフローリングの固さを感じながら、はあ、と息を吐いた。


 無防備におれに向かって崩れかかった体は、肺が潰れるほど苦しいのに、どこか愛おしい重み。体を横に倒すようにして、三上くんの重みを半分だけ取り除く。二人とも朝になったら、きっと体の半分がすごくいたい。


(三上くん、驚いた顔、してくれるかな)


 無意識のうちに、三上くんの閉じた長い睫毛を見ながら、笑みが零れた。

 色々なきみの顔を見ている。おれを守ってくれる凛々しい顔、やきもちを焼く顔、斜め下を向いて照れた顔。だけどまた新しく、見たことのない顔を知る。


 頬に掛かった三上くんの髪の毛を、かきあげるように撫でた。


そ ん な き み を ひ と り じ め


( 意識のない三上くんの唇をこっそり奪ってしまったのは、内緒 )

――End――

まあ三上くんといえば意識のない向井田くんにこれまで数百回くらいはちゅーしてると思いますがね。笑

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