02


     *



「エルフ様あ、元気出せよおー」


 ぼくの耳をぐいぐいと引っ張って、ブラウニーが話しかけてくる。落ち込むぼくにどうしていいか分からないのか、そのトーンはいつもよりも低く小さい。ぼくは大きないつもの枕に顔をうずめたままいやいやした。


「えーるーふーさまあー……」


 周りを途方に暮れたようにブラウニーが飛んでいる。羽音が心地よいのに、今はすこしも顔をあげたくなかった。


 おうさまのうそつき。

 後でっていったのに、全然来ない。


(それだけ、怒ってるんだ)


「エルフさま、とりあえず今日はお休みください」

「おうさま……こないの」

「ええ。時間も遅いですし。きっと今夜にはたてこんだ仕事も片付くご様子ですので、明日必ず」

「……わ、かった」


 ブラウニーの気配が遠のいて行く。同時に、ぱちっと電気が消える音。もう、ぼく寝る時間なんだ、きっと。

 おやすみなさい、というロビンとブラウニーの声が聞こえた。ちいさくなみだ声で、ぼくもおやすみなさいと言った。声はすこしだけ掠れて、すぐにぱちんと消えた。

 ぎゅう、と枕を抱きしめる。いつもベッドに入ったら、ふかふかの気持ちいいで、すぐに眠れるのに。今日は目が冴えて、眠りの世界が訪れない。


 ぼくがこの部屋に来たときからある年季の入った壁時計が、かち、かち、と規則正しく時間を刻んでいる。静寂の中で、音が響く。かち、かち、かち。


 目を瞑れば、何回でも甦る、こころの中に印刷されたおうさまの怒った顔。笑った顔を、思い出せないくらいに、胸を占める。いたい。

 いたい。おうさま。


(おうさま、ぼくを捨てないで)


 おうさまに捨てられてしまったら、ぼくはどこにも行けない。きっと、生きれない。

 顔を上げる、なみだの水で湿っぽくなった顔に、髪の毛が張りつく。耳も尻尾もだらんと下がったままのろのろと起き上がって、暗がりの中で目を凝らして時計を眺める。みたことのない時間になっている。


 ――今夜にはたてこんだ仕事も。


 さっき聞いたばかりのロビンの言葉。

 夜は深い。

 もう、おうさま、お仕事終わったかなあ。


(もしかしたら、ぼくのこと、もう許さないって思いながら、仕事しているのかなあ)


 おうさまに受け取ってもらえなかった桃色の実は、食べて食べてと寂しそうに暗がりのなか、ベッドの脇に置いてある。

 おうさまに、もう一度謝りにいきたい。

 いつもならベッドに入ればうとうとと意識が遠のいて行くはずなのに、今日は目が冴えわたっている。眠れないのだ。胸を占めるおうさまの怒った顔が、離れない。


(もしもあの顔がぼくを突き離したら――)


 ベッドからおそるおそる下ろした足を床につけた。すこしだけひんやりと冷たい。

 ひたひた、そのまま、歩きだした。


 おうさまに会いたかった。

 なんで来たんだって、言われるかもしれない。だけどおうさまにさっき怒られたとき、体が射すくめられたかのように動かなくなって、ごめんなさいもちゃんと言えなかった。

 もう一度言おう。きらわれて、捨てられてしまっても。


「……っ」


 ほっぺたを舐めると、しょっぱい味がする。


 おうさまはいつも、寒い夜はぼくのそばにいてくれて、体をぐるぐるとタオルで巻き付けてくれた。そうして足が冷えるからと素足のぼくを抱きしめてくれていた。だから、知らなかった。

 おうさまの部屋までいくこの道が、ほんとうは、とても冷たい廊下だということに。

 足の裏、いたいくらい寒い。タオルを持ってくるのも忘れて身一つできたせいで、足先から冷たさが全身へ伝っていくみたいだ。

 扉の向こうはしんと静かだ。


 おうさま、お仕事もう終わって眠ってしまっただろうか。


(おう、さ、ま)


 ちゃんと、謝る。おうさま、ごめんなさいって。決めた。だから、真夜中でほんとうはもう寝るはずなのにここまできてしまったんだ。

 だから――、そう思ってノックしようと手を伸ばすけれど、宙を舞ったそれが、中途半端な位置で止まる。そのまま、所在なさげに落ちていった。


 ――どうして、約束を守らない。

 ――部屋に戻れ。


 聞いた耳から全身を氷漬けにしてしまうみたいな、トーンだった。

 あの声がまたおうさまのくちびるから降ってきたら、ぼくはきっと、死んでしまう。


 こぶしをきゅっと握りしめてもう一度扉へ手を伸ばすけれど、ふたたび落ちていく。また、扉へ伸ばして、へなへなと落ちていって、その繰り返し。


「……っ」


 こわい。こわいよ。


「おうさま……」


 ぽつんと呟いた声は、こんなに広く続いている廊下で発した言葉だというのに、すこしも響くことなく溶けて消えた。それくらい、ちいさくて、途方に暮れた、か弱い声。

 だけど次の瞬間、まるでこの向こうにはだれもいないよとでも言いたげなほど静かだった扉が勢いよく開いた。


 顔を上げる。


 ドアノブを引っ張ったのだろうおうさまは驚いたようにぼくを見下ろしていた。眠ったあとにしては目が冴えすぎている。きっと、仕事をしていたのだ。


「お、さま……」


 声が、情けないほど揺れて掠れた。

 謝らなきゃ。ごめんなさいって。

 もう約束破らないから、努力するから、いい子にするから。ごめんなさいって。


 謝らなきゃ。


「エルか……どうして」


 だけど、昼に見た死んでしまうほど冷たい顔じゃなくて、いつもぼくに向けるきょとんとした顔を見てしまったら――。

 一瞬で緊張が緩んで、ほどけていくのが、自分でも分かった。


 ぽろ、と、頬をなにかが伝ったのが分かった。


「す、てない、で」


 ぽろぽろ、と、二度三度、それ以上は数えきれないくらいなみだの筋を伝って溶けだしていくそれ。まばたきをしたら、いっそう溢れる。


「……ぼ、ぼく、もう約束破らない……っ、いい子にする……っ」

「エル」

「だから……お、さまおねがい……っ! すてないで……っ」


 世界でいちばんだいすきなおうさまに捨てられたら、ぼくはきっと生きていけない。

 ちゃんと謝りたいのに、なぜだか、声が震えてしかもへんにひくひくと喉が唸る。人間だから喋れるはずなのに、上手く声が出せない。ぼくが、猫だからだろうか。

 すーはー、と深呼吸をして、もう一度喋ろうとするけれど、同じことだった。


「エル……こっちこい」

「……っ、やだあ……すてないで……っ」

「……はあ」


 大きなため息に肩が無意識のうちにピクリと震える。だけどなにかを考える前に大きな両手がぼくの体を強引に引き寄せる。

 ふわりと、おうさまの匂いがする胸に引き寄せられる。温かい、いい匂いのそこ。


 ぽろぽろぽろ、と溢れていたなみだが、すこしだけ引いて行く。


「お、うさま……」

「なんだ、捨てるとかってのは」

「だて……きょ、おこ、た」


 背中に置かれていた手が、どこかあやすような素振りで大きく上下に撫でる。小刻みに震えるぼくの体を落ち着かせるみたいに。効果はいうまでもなく絶大で、だんだんと体のひくひくが収まっていく。

 やがておうさまが、信じられないくらい長くて大きなため息を吐いた。だけどそれはさっきまで再三心の中を占領していたあの冷たいものではなくて、いつもの。いつもの、おうさま。


「丁度仕事も終わってなかったし、ちょっとお灸をすえようと思っただけなんだがな」

「おきゅ……?」

「なんでもない。ほら、こっち向け」


 背中に回っていた手がもういいだろうと離れていき、代わりにぼくの両頬を捕える。すこしだけ体を放されて、その分ぐいぐいと顔を上げられる。ほぼ真上を見る形で、おうさまの濃藍の双眸と視線が絡む。


「あ」

「どうだ」

「おうさま、もう、怒ってない」

「ああ。怒ってない」

「ごめんなさい……」

「ああ。おまえはこういうのがだめなんだということがよく分かったよ」


 おうさまの綺麗な夜の瞳が、ぼくを映すのが分かる。そして、周りから見たらすこしも分からない変化で、やわらかく笑う。

 ぽふ、とおうさまの胸に顔を埋める。ぎゅうう、と力強く抱きついた。さっきまでべとべとだった顔が、おうさまの高そうな仰々しい服につく。

 なみだと、はなみずもすこし。


「エル……」

「ふああ、ふうんふあ!」

「押し付けすぎだばか。何言ってるのか分からない」


 だけどおうさまはもうぼくを強引に離したりしない。ばか、と言いながらもきっとのめりこむようにおさまったぼくの後頭部をくしゃっと撫でている。


 すこしだけおうさまに今のぼくの顔を見られるのは恥ずかしい。


 しまりがなく、だらけて、口元が緩んでいるのだろう。おうさま、きっと呆れる。

 おうさまが黙ってぼくの頭をかきまぜるように撫でてくれている間、ぼくは呼吸さえも殺すようにしてその体に張りついていた。


「……寝るか」

「やだ」

「おまえ、もう眠いだろう。いつも寝てる時間よりずいぶん遅い」

「へや、もどりたくない。おうさまといる。……もどって眠って、あした夢だったらいやだ」


 おうさま、我が儘だって呆れるかなあ。それでも、やっぱり夜は戻れっていうかな。

 無言が怖くなっておずおずとさっきまで締めるように回していた手を放すと、これ幸いと言わんばかりに今度はおうさまの両手がぼくの体に回ってきて――、あ、という暇もなく地面から足が離れる。


 いつものぷらぷらとした浮遊感。頼るのは、そばにあるのは、逞しくて押しても引いてもびくともしない体躯。


「お、さま?」


 おうさまは答えない。

 代わりにさっきまでいたおうさまの部屋の入り口よりももっと奥へと連れて行かれる。そのままふかふかにおろされた。ベッドだ。

 はずみでふわんと浮かべるのではないかというほど、おうさまのベッドは気持ちいい。

 ぽかんと見上げたぼくの体をごろごろと転がして、となりにおうさまが横になる。ぼくよりももっと大きな揺れ。ふわん。


 横を向いてぼくを見たおうさまが、ちょいちょいと片手で手招きする。

 ぼくは思案することもなくくねくねといもむしみたいに横を向いたまま這っておうさまの胸の中に近づいた。あとは腕を伸ばしたおうさまが引き寄せてくれる。


 あったかい。

 そこらじゅうが、あったかい。


「公務が始まる前に、声をかけてやる」

「……うん?」

「夢だったら、いやだろう」


 朝早いから寝ぼけて忘れるなよ。頭上でそう言われて、耳がぴんと上がるのが分かる。こくこくと頷いた。

 頬にあったぼくのなみだの筋は、すっかり消えていった。


 ぼく、捨てられない。こうして今夜はおうさまの熱をたくさんもらってしあわせになって――。

 ちゅう、とおうさまが頭のてっぺんに唇を寄せてくれる。くすぐったくて笑った。


 そうしてあしたの朝早く、きっとしあわせのままぼんやりと寝ぼけてふたたび、おうさまにくっつくのだ。


 安堵で意識が沈んでいく間際、おうさまが小さく声をもらした。まぎれもなく飼い猫のぼくをすきでいてくれると思い知らされる、その声色。


「まったく、懐きすぎた猫だな」


 うん。だって、だいすきだよ、おうさま。


そ ん な き み の も の


( 今日も明日も無自覚にラブラブですね )

――End――

魔王さまの執務室にはそろそろ子ども教育に関するノウハウをのせた雑誌が散らばりそうですね。

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