01
「どうして、約束を守らない」
今までで一度も聞いたことのない、震えあがるような、大きくないのにどこか響く低い声。怒りの声色。
体がすくんで、一瞬で地面から生えた根がぼくの足を捕えてしまったように動かなくなってしまった。そのままぺたんと座りこみたいのに、それもできないくらい、体が固まる。
見下ろすおうさまの目は、冷色。燃えるような怒りじゃなくて、青に冷めたような静かな怒り。
「おう、さま」
声はかぶせられた声によって、無視されて、消されてしまう。
ぼくの声は、今、おうさまに届かない。
差し出した桃色の実を持つ、すこしだけ泥のついた手が震えて、彷徨い続けている。かまうことなく、おうさまが踵を返し自室へ持って行く。
おうさま、呟いた。
今日ぼくは、はじめておうさまを怒らせてしまった。
最近のおうさまはすこしだけ忙しいらしい。理由をロビンとブラウニーが色々と教えてくれたけれど、つらつらと並べられる不可解な単語を前に、ぼくは首を傾げるだけだった。
「おうさま、元気ないの?」
「いえいえ元気です。しかしちょっとだけ忙しくてね。エルフ様が気がかりとおっしゃっていましたよ」
ぼくの動きになぜか爆笑するブラウニーの横でロビンが鷹揚に語るのを聞きながら、ぼんやりと思う。ぼくだっておうさまが気がかり。今どんな気持ちだろう。辛いのかなあ。おうさま、だけど、仕事すきなのかなあ。
「あ!」
急にロビンとブラウニーが訪ねてきてくれるまで読んでいた絵のついた本の中身が急にフラッシュバックする。ベッドに舞い戻っておうさまと会えない間一晩中眺めていた本をゴソゴソと取り出す。ぼくと一緒に眠っていたせいですこしだけ曲がってしまった、古くて大きな本を、きょとんとするロビンとブラウニーたちの元へ持って行く。この本はぼくにとって片手では抱えられないくらい大きいのだ。
「あのね、昨日ロビンが教えてくれた、美味しいたべもの!」
「……ああ、はい。木の実の一種ですね」
地面にどさっとおいて、ページをめくる。後ろからロビンとブラウニーも覗きこんでくる。どこだっけ。昨日ロビンが教えてくれた、美味しいたべもの。
「うう……ん、あ、あった!」
覗きこんだページにはいっぱいに、緑が広がっていて。その中でぽつんと桃色に色づく不思議なまるたち。ロビン、庭の奥にあるかもっていっていたやつだ。
これをおうさまにあげたら、おうさま、喜んでくれるかなあ。よし、ってぼくの頭撫でてくれるかなあ。ぎゅうぎゅう抱きしめてくれるかなあ。
(あいたい)
ぼくは、これを口実にして、おうさまの部屋に行きたかったんだ。たぶん。今から考えてみれば。おうさまの反応が見たくて、それ以上におうさまの顔が見たくて。
ロビンとブラウニーは渋い顔をしてぼくを止めていたけれど、小さな妖精にならぼくだって負けない。強引に振り切るようにして、庭に飛び出した。妖精たちはぼくを引っ張ったけれど、構わなかった。
ぼくはただおうさまに会いたかった。
木はたしかに庭の奥にあったけれど、猫だったぼくにとってはそんなに遠い距離じゃなかった。顔をぐっと上に向けても木の下から桃色の実は見えなくて、仕方なくぼくは上まで上っていった。
ロビンとブラウニーはこれもやめさせようとしたけれど、ぼく、猫だったんだよ? これくらい全然平気だよ!
手の中にころんと転がった丸い桃色の実からは、すごくすごく甘くていい香りがした。きっとおうさまも元気になって、ぼくを褒めてくれる。抱っこして、ぎゅうぎゅうしてくれると思った。
――どうして、約束を守らない。
だけど、おうさまは、怒った。一瞬、息をするのも苦しくなってしまったくらい、鋭い目でぼくを射抜いた。
「おうさまっ、待って!」
仰々しい机の上には、たくさんの、黒いインクで書かれたへにょへにょの文字たちが並んでいる。その前に座り、ふたたび脇のインクに手を伸ばすおうさま。
ぼくはおうさまの横にうなだれるように立つ。だけど、怒ったようにぼくを無視してふたたび紙に目を通すおうさま。もはや、ぼくを見てはいない。
目に、なみだが、溜まるのが分かった。
「おうさま……」
「部屋に戻れ。話は後だ」
「……っ」
「エル。戻りなさい」
おうさまがぼくを見ない。いつもやさしく、すごく小さく口角を上げるおうさまが、いない。
――捨てないで。
くちびるを噛みしめた。
いらない猫は、野良猫に戻されるんだって。ぼくの世界には、そんな猫がいくらかいた。野良猫に戻された猫は、野生の勘をすっかり失ってしまって、途方に暮れる。そして、他の猫からすごく馬鹿にされる。それで、もう二度と、飼い主は家を開けてくれないって。
おうさま。
ぼくのこと、いらなくならないで。
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