「…俺の事に手を出すな。お前には関係無い。それが出来ないと言うのなら…お前とはもう会わない。」
「…飛…影…?」
意識を取り戻して直ぐに告げられた言葉を上手く理解出来ず、蔵馬は只、愛しい者の名を呼んだ。
「動ける様になったら誰かを呼べ。人間界まで送る様、希淋にでも命じておく。」
「飛影、待っ…」
蔵馬は飛影に手を伸ばす。
望みもしない飛影の言葉と、ベッドの側に立つ飛影が背を向けた事で、訳の分からない不安が彼を駆り立てたからだった。
「…触るな!」
飛影は蔵馬の手を払い除けた。
蔵馬は目を見開く。
動揺と哀しみで瞳を揺らしながら。
―こんな飛影は知らない。
蔵馬は一日中眠り続け、つい先程覚醒した。
飛影が側に居て頭を撫でてくれていた事も、蔵馬の呼吸や顔色を心配して見詰め続けていてくれた事も、重い瞼を開けようとした時に蔵馬は気配で気付いていた。
―それなのに…何故…?
「関係無いなんて…」
「迷惑だと言っている。」
畳み込む様にピシャリと飛影は言った。
蔵馬に背を向けたまま。
あぁ…と、蔵馬は理解した。
飛影の冷たい言葉の裏側を―…
それでも飛影の口からは聞きたくない言葉の数々であった。
蔵馬に背を向けたまま扉へ歩みを進める飛影の靴音が、やけに無粋に響いた。
「…結局は貴方の手を煩わせた事、申し訳ないと思っています。けれど、オレの行動を取り下げる気も今後控える気も無い。…貴方を守りたいと思う事に、今も昔も変わりは無いんです。」
蔵馬の台詞が、外へ出ようとしていた飛影の動きを止めた。
飛影としては、手を煩わされた事等どうでもいい事。
恐らくは、蔵馬も気付いている。
「たまたま俺が間に合ったから良かったものを―!でなければお前は殺され―」
「魔界では…それが全てです。」
静かに、けれど強く、飛影の言葉を遮って蔵馬が告げた。
魔界に生きる者であれば、誰もが分かり切っている事。
「…その理屈を!!」
珍しく声を荒げた飛影に、蔵馬は思わず目を見開いた。
「認めたく無い程、お前が傷付くのが許せん!!」
背を向ける飛影から、陽炎の様に黒い炎が見え隠れする。
怒りで黒龍が暴れそうになっている証拠だった。
まだ動かすのが厳しい筈の身体を引き摺る様に、蔵馬はベッドから出て立ち上がった。
少しも、飛影から視線を外さないまま。
「…オレは…貴方と結ばれた時、貴方が自分の命より大切だと…そう言いましたよね…?」
「…」
静かに…飛影を諭す様に、蔵馬はゆっくりと言葉を紡ぐ。
それに飛影は答えない。
「…後…二十年も経てば、オレは母を失う。」
思いも寄らない蔵馬の言葉に、飛影は眉を小さく反応させた。
それでも飛影は扉と向かい合ったまま、動こうとはしない。
それ故、蔵馬には飛影の表情を見る術は無かった。
「その時に貴方も居なければ…オレは命よりも大切な存在を持たない事になる。」
言葉と同じゆっくりとした速度で、蔵馬は飛影との距離を縮めてゆく。
「…オレに…生きる意味を失えと言うの…?」
蔵馬の声に悲痛な色は無く、只淡々と事実を述べるものだった。
その事に、飛影は心底驚いていた。
母親の死―…
それを淡々と述べる蔵馬に。
「飛影…こっちを向いて下さい…」
そう蔵馬に言われても、飛影は動かない。
否、動けないのかも知れなかった。
「…飛影。」
蔵馬は飛影を呼び掛けながら、身体を庇う為とは別の理由で、ゆっくりと飛影に近付いてゆく。
「…飛影…」
尚も呼ぶ。
飛影との距離を完全に縮めて、飛影の腕を掴んだ。
「お願いですから…っ……こっちを向いてっ!」
初めて、蔵馬の声に悲痛な色が込められた。
先程蔵馬の口から出た内容の方が、余程苦しいものである筈なのに。
その事が飛影を突き動かして、飛影は振り返った。
初めてまともに目が合った気がした。
「これが…この生き方が、オレの決めた道なんです。認めて…側に居て下さい…」
飛影は気付く。
飛影の腕を掴んだままの蔵馬の手が、小さく震えている事に。
「…お前は…心底阿呆だったのか…」
「これがそうなら、そうなりますね。」
―こっちを…向いてくれた―
飛影を見て、いつもと変わらぬ優しい紅の眼差しを確認して…
蔵馬の身体から一気に力が抜けた。
そのまま身体の要求に逆らう事無く膝を折る。
当然の事。
目の前の存在に膝をつく事を許される訳も無く支えられた蔵馬は、ニッコリ、と言う表現が的確な程の笑みを向け、狐らしい台詞を吐いた。
「その阿呆を一度手にした貴方も同じ…という事になるけれど。」
目を丸くしてから一睨みし、飛影は蔵馬を横抱きに抱き上げた。
そしてそのままベッドへと運ぶ。
そっと蔵馬を寝かせ、優しく蔵馬の頬を撫でた。
傷付けた詫びの様に―…
「躯に報告を入れて来る。お前を心配していたからな。」
そう言って離れ掛けた飛影を、服の端を掴む事で蔵馬は止めた。
「…妬けるから行かないで。側に居て下さい。」
“躯には後でオレから謝っておきます”と続け、身体を庇いながら移動し、自分の横に飛影の為のスペースを作る。
その蔵馬を、様々な理由で驚いた飛影は只々見詰め、そして溜め息を吐いた。
「…死に掛けて、人でも変わったか…?」
結局、ベッドに蔵馬が作ったスペースに綺麗に収まる飛影と、その飛影の肩に頭を預けて目を瞑る蔵馬の姿があった。
躯に見られでもすれば、いいネタにされる光景。
目を瞑ってはいても眠ってはいない蔵馬と、天井を見詰める飛影に、静かな時間が流れていた。
互いの持つ意味は違っても、二人が感じているのは“安堵”だった―…
「首輪でも付けて、この部屋にでも閉じ込めるか…」
飛影の静かな口調は、本気の度合いを物語る。
「…オレ、もう少しでこっちに…」
「その話はいい。また後で聞く。」
“もう少ししたら、魔界に来る”という蔵馬の台詞を飛影は遮った。
蔵馬が魔界に来るという事…
これは蔵馬の母親との別れを暗に指している。
先程、母親の死を口にしたばかりの蔵馬に、これ以上言わせたく無かった。
これ以上蔵馬の傷を抉る様な事を、飛影は避けたかった。
飛影は天井に向けていた視線を、身体ごと蔵馬に向けた。
そして、傷には障らない様に優しい力を込めて、蔵馬を抱き締めた。
「…それとも…今、俺の腕の中で死ぬか…?」
飛影の物騒な発言。
その意味も、飛影の感情も、理解する者は、唯一人…
「それもいいですね…」
何の曇りも無い笑顔で蔵馬が答えれば、“冗談だ”と、飛影は降参した。
生憎か、幸運か…
身体に傷を負う蔵馬に何か出来る様な不逞の感情は、飛影は持ち合わせていない。
それでもクスクス笑う狐を困らせてやりたくて、飛影は次の手段に出る。
…が。
「…傷が治ったら、」
「覚悟しておきます。」
「…」
またニッコリと返されて、押し黙った飛影だった。
再び見る事の出来た狐の笑顔に感悦した事は、隠す事に決めて…。
魔界に在る、冷たい空気漂う広い部屋の中。
守られている要塞の中とは言え、普段ならば何処か警戒を解けないその場所で、互いの存在が理由で安らぎの中に居る二人。
「…お前、もう少し強くなれ。」
眠りに就きかけながら、飛影が言葉を紡ぐ。
「酷いなぁ…。貴方に超されたとは言え、これでも結構…」
「なら死にかけるんじゃ無い。」
「…すみません。」
「定期的に手合わせでもするか。」
「いいですね、楽しそう♪」
「本気で掛からないと、死ぬぞ…?」
「ん―…、飛影がオレを殺せるとは微塵も思えないな…」
「……じゃ、犯る。」
「何それ。」
…続く、二人の他愛も無い会話。
結局は、共に在る未来を二人は想う…
そして。
互いの温度を共有しながら、“失わなくて良かった”と…
絡め合った指先に力を込めたのは、二人同時の事だった―…
(END)
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