月夜竜
九
名を尋ねると娘はおもむろに筆を取った。
そしてたどたどしい字で己の名を書いて見せた。
『…千…代…、お前の名前はちよって言うのか?』
顔を上げてニッコリと笑う千代はとても愛らしい。
釣られて梵天丸も笑顔になった。
そして千代は梵天丸を、それから己の名を書いた紙を交互に指差した。
『我の名前が…知りたいのか?』
千代は首を小刻みに縦に振った。
梵天丸はそこで気がついた。
この千代が口を聞けないことに。
『梵天丸だ、いい名だろ』
千代はまたニッコリと笑うだけ。
自分と同じく体に難がある彼女により親近感が芽生えた。
『…何も気に病むことはない。梵天丸も右目が見えん』
脳裏には母の冷たい目が焼き付いている。
いつも胸を締め付けて苦しめる。
母に愛されないと知ってしまった寂しさ、孤独感は幼い梵天丸の心を押し潰してしまう位にのし掛かる。
その重圧に目を反らし、笑顔で告げた。
『見ろ、こうして元気に生きているぞ』
そんな梵天丸に千代は見守るような温かい眼差しを向けていた。
彼女の笑顔は心が安らぐ。
心は軽くなり胸の辺りが温かくなるよるだ。
言葉は無いが梵天丸は感じていた。
『独りじゃないよ、いつも見守っているよ』と、言われているようだと。
自分が勝手にそう思っただけ。
けれど言わずに居られなかった。
『千代…ありがとう…』
相変わらず千代は笑顔。
梵天丸も一緒になって笑った。
そんな温かい雰囲気の二人を襖の隙間から小十郎と輝宗、喜多の三人はヒッソリと見つめていた。
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