月夜竜
六
蒼く澄んだ空の高くを鳶が輪を描いていた。
長閑な秋の空だった。
小十郎の呼び止める慌てた声を背に、全力で馬を走らせた梵天丸は北の山へと辿り着いていた。
『坊主、こんなとこで何しとる?一人か?』
山の麓に建つ小さな農家、そこに住む老人が話しかけてきた。
野菜の収穫をしていたのか手に持つ篭はネギや玉ねぎ、大根で一杯になっていた。
『北の沼に行きたい、どっちに向かえば行ける?』
梵天丸は馬上から尋ねた。
『一人で行く気かね!?それにおめぇさん、目を怪我しとるんかね?』
老人は梵天丸の右目を覆う眼帯に目をやった。
右目の事に触れられるのはいつまでたっても不愉快だった。
胸の辺りがギュッとする。
そんなとき、思い出すのは母上の冷たい視線。
『…。何処か知らんのか?じゃあ失礼する、お邪魔した』
気にしない振りをして軽く馬の腹を蹴り、山へと向かわせた。
『待ちな、知らんことはないんだが…、ここらの者はあの沼にはよう近づかんよ』
再び馬を止め、梵天丸は老人の方へ向き直る。
『何でだ?』
老人は声を潜めて呟いた。
『ものの径がでるっちゅう話じゃ、止めておけ』
それを聞いた梵天丸は満足そうに笑った。
老人は予想を反した反応に少々驚いた。
『いいんだ、梵天丸はそいつに会いたいんだから』
老人は梵天丸の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
そしてポツリと呟いた。
『…不思議な子じゃ』
それから間もなくのことだった。
普段は滅多に人が訪れることのない此の場所に馬のひずめの音が聞こえてきたのは…。
『ご老人、お尋ねしたいことがあるのですが…』
焦った様子の若者、立派な馬に跨がっていた。
―…そういえば、さっきの坊主の馬も毛並みの綺麗なよい馬だったのぅ。
老人は思い返し、先程まで梵天丸の居た辺りに目をやった。
小十郎は構わず問いかけた。
『此処に少年が尋ねて参られはしませんでしたか?右目に眼帯をしていて…髪は短く…』
『ああ、そんな坊主なら来よったぞ』
―…そういえば、伊達輝宗さまのお子さんも右目が悪くなったと聞いとるなぁ。
『なんと!梵天丸さまに違いない、どちらへ向かわれましたか?』
老人はハッとした。
少年が梵天丸と名乗っていた事を思い出したのだ。
『今、…梵天丸さまと?』
尋ねる老人の声は震えていた。
『はい、伊達輝宗さまの嫡男にございます。』
老人は腰を抜かす寸前だった。
『して、梵天丸さまはどちらに』
足取りが掴めてホッとしたのは小十郎。
梵天丸と知らずに接していたことに気付いた老人は反対に慌てふためいていた。
小十郎はその老人が震える指で差した北の山へ馬を走らせたのだった。
―…おらぁ梵天丸さまに無礼なこと、いってなかったべなぁ。
心配事が頭を駆け巡る。
放心気味な老人は、小十郎の背中を見えなくなるまで見送ったのだった。
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