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「閣下、私は貴方様を……」
 愛しております。長年言わずに、心に秘めてきた言葉。その分、想いは醸成し、独特の深さを持つ。
 しかし、ヨハネスがその先を言う前にゼオシスは口を開いた。

「ファウスト」
「はい」
「……その液体は片付けておけ」
 そうヨハネスに命じると、ゼオシスは何事もなかったように、いつも通りの顔をして立ち去った。
 扉が閉まる音が無情にも、ヨハネスが一人残された空間に響き渡った。
 ヨハネスは、頭を踏みつけられた痛みすら消え失せてしまったような感覚だった。きっとしばらくは、ゼオシスのの目に自分の姿は映らないだろう。

 体が疲れているならばマッサージもする。好物のワインも最高級の物を用意させる。しかしゼオシスはそれだけでは癒されていないようだった。
 ヨハネスは自分には何も語らない総督に嘆いた。



 扉が閉められて、ヨハネスは一人、呆然と不気味に白い部屋の中にいた。
「閣下……」
 私はこんなにも閣下を思っているのに。ヨハネスは唇を噛んだ。
 六十年間、ヨハネスはゼオシスを一番上に優先着けて、何から何までやってきた。なのにゼオシスの目に自分は映らない。
 なぜだろうか。
 その時、ヨハネスは目線を落としていた為に、一番認めたくなかった物が目に入った。

 皺が寄り、血管も浮き出て、白人でありながら色は砂風に当たってきたお陰で薄汚れた色になっている。指先は薬品を扱ってきた為に爛れている。そんな、艶もない醜い自分の手。
 慌てて顔を背ければ、先程までゼオシスが浸かっていた白い液体に自分の顔が映った。禿げ頭のしわくちゃな醜い顔がゆらゆらと浮かび上がって見えた。

「嫌だぁああ!」
 浴槽を蹴ってヨハネスは叫んだ。設置方の浴槽だ。倒れて、部屋中に白い液体が広がった。ヨハネスの白衣をじわじわと濡らしていく。

 いつから自分はこんなに老いたのだろうか。近くに仕えてきたあの方は、依然として美しい。私の手は皺だらけだ。あの方とは不釣り合い。何故、自分はあの方と同じ時を過ごせないのか。
 なんと神は無慈悲なんだ。

 その時だった。
「なんと、まぁ、お可哀想に……」
 どこからか声がした。可哀想と言うわりには、その気はないような感じである。男の声だとは分かったが、どうも快活な印象は受けない。女のねっとりとした喋り方に似ていた。
「だ、誰だ!」
「可哀想すぎて見入っちゃった。アタシが本物のガブリエルなら幾分、良かったかもしれないんだけどねぇ。残〜念」
 ヨハネスが上半身を起こして辺りを睨み付けていると、部屋の隅がゆらりと空気が揺れて影が見えた。

 目を凝らして見る。
 すると、そこにはどこから入ったのか、黒いシルクハットに黒い紳士服、黒いステッキを持った若い男がいた。首を傾げて微笑むと、セミロングの黒髪がサラサラと揺れた。
「お前は誰だ、どこから入った!」
「おしずかに、おしずかに。呼んだのは貴方じゃないですか、ファウストセンセ。何か用ですか?」
「私はお前など呼んでないぞ! それに何故私の名を知っている?」
 驚くヨハネスに男はステッキを振り回しながら近付いた。本当の紳士ならばそんな真似はしまい。ヨハネスは男をもっと別の種の人間だと悟った。

 男はハンカチを取って頬を拭きながら行った。
「おはつにお目にかかります。えー……ずいぶん汗をかきましたよ」
「ふざけた奴だ、なりきったつもりか。質問にも答えられないだなんて! まずは名前を言え」
「つまらないね、もう少し付き合ってくれても良いじゃないか。仕方がない――アタシはメフィスト。メフィスト=メレボレート。アンタの嘆きが聞こえたから、来ちゃったのさ」
 語尾に音符が着いた調子で男は話す。そして、笑っていた目を、男――メフィストは開いた。
 それを見たヨハネスは声を失いそうになる。

「悪魔か……?」
「悪魔? 面白い事を言うね。まっ、強ち間違ってないけど、悪魔じゃあないんだよねぇ。悪魔と言うならば蝿の王とでもお呼び」
「嘘吐け。私を馬鹿にしやがって」
「アタシはお遊戯好きなのさ。本気で受け取る必要はなくてよ」
 にんまりと笑うメフィストはヨハネスを面白可笑しく見た。しかしヨハネスの視線は相変わらずメフィストの顔に注がれている。ヨハネスは指でそれを指した。
「ところでお前、その、目が赤いのはどう理由つけるつもりだ?」

 そう、メフィストの目は赤であった。もっと言うならば、どす黒い赤。髪は黒いから色素が欠けているという訳ではないようだ。
「ははぁ、なかなか着眼点がありまして感心ですねぇ」
「さっきから馬鹿にしやがって、怪しい奴め」
「なぁに。ゼオシスの坊やと同じ類いだよ。あの坊やもルビーに紫の絵の具でも垂らしたような目玉じゃないか」
「すっ、崇高なる閣下とお前が同じだと? 口を慎め!」
 閣下はこんな怪しい男よりも清廉潔白だ。ヨハネスは自分よりも長身なメフィストの腹を掴んだ。
 にんまりと笑むメフィストの口が憎たらしい。明らかに年長の自分が見下されている事にヨハネスは腹が煮え繰り返りそうだった。

「……どーやらセンセは何も知らないようだ」
「私は八十年生きてきて医療、科学、派手に政治や文学も突き詰めてきた。私が何も知らないなど、知った口を利くな!」
「ノンノンノン。そういう意味じゃないんですよ、センセ」
 メフィストはヨハネスの目の前で人差し指を立てて振った。お仕舞いにヨハネスの鼻をついと小突くと、メフィストは勿体ぶった司会者の様に言う。

「センセ、ゼオシスの坊やの心中を知った事はあるかい」
「そっ、それが知れたら私はこんなに辛い思いもせん!」
「ははぁ、坊っちゃんを読めてないようだねぇ。六十年も仕えてるのに……」
「黙れ、薄汚い悪魔め」
「ぶ厚い仮面を被ってるように見えるけど、坊っちゃんは案外カワイイ子だよ。手懐ければ火の輪も潜るライオン、センセの足もナニも舐める奴隷さ」
「……さっきからお前は閣下の何を知っているんだ。閣下の侮辱ばかりしやがって。そろそろお前に付き合うのはこの老体に堪えたぞ。さっさと若いのはここから去れ」
「ふふん、知ってるさ。坊っちゃんの事なら小〜さな時から、ず〜っと」
 ヨハネスは眉を潜めた。ゼオシスの年は直接知らないが、恐らくは何世紀かを生きているのは容易く予想される。
 メフィストは見た目は二十代後半か三十代前半だろう。ゼオシスの容姿は二十代前半で止まっているところから推測すると、もしかしたらメフィストはゼオシスより永く生きているかもしれない。

「お前は……何者だ?」
 そうヨハネスが問うと、メフィストはにんまりと紫がかった唇を吊り上げた。ぺろりと赤い舌が唇を潤す。




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