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 加えて、無表情且つ抑揚の少ない声で、ゼオシスはけして口数は多くない。
 だが、その分だけ少ない言葉に意味があるのをヨハネスは長年仕えてきた経験で知っていた。

 もっとも、その事に気付くのには時間を要した。今でも完璧にゼオシスの考えが分かる訳ではない。むしろ、読めない方が沢山ある。
 ヨハネスはもっとゼオシスに近付きたかった。

「時に、ファウスト」
「はい」
「お前は今まで生きてきて、心を捕らわれた人間はいるか」
 あぁ、閣下はなんと酷な方なんだろうか。ヨハネスは嘆いた。
 私は今年で八十四の老人で御座います。初めて見た時から私は閣下に恋焦がれ続けた。片時も忘れた事はない。ご体調からお召し物まで私は閣下の大事を恐れて管理してきた。
 なのに、閣下の目に私は一度も映った事はない。誰か、別の人がいる。

 ヨハネスはいつも通りに顔を変えないで頷いた。
「……無論、おりましたよ」
「どんな人間だ?」
 勿論、貴方です、など答えられる訳がない。
 だが、ヨハネスは六十年間、この黒い想いをゼオシスに感づかれた事はない。伊達に永くしがみついて専属医師を勤めているのだ。

 もしかしたらゼオシスは気付いているのかもしれない。しかし、ゼオシスは予想以上にヨハネスの想いが大きく邪悪な事までは知らないだろう。
 ヨハネスはにこやかに嘘の仮面を被った。
「優しい人でした。しかし、私は今年で八十四の老人で御座います。この年になると、恋い焦がれた人は、もう既に亡くなっている場合が多いでしょう。恥ずかしながら、私もかつてはいましたが、今は思い出に若い頃の姿を思い浮かべるだけです」
「そうか……人間の生は短いからな」
 思い詰めた表情でゼオシスは、空中を仰いだ。液体の揺れる音がした。

 明日、反乱軍を攻撃するのに二十四時間も残っていない。指揮するのは勿論、ゼオシスだ。三百年同じように、恐らく明日も沢山の死者を生み出すのだろう。その半分は、ゼオシスの手で命を奪う。
 見つけたら、ゼオシスは十年前の少女も自ら殺めるつもりだ。どこぞの馬の骨に殺されるよりも、自分で思い出を断ち切った方が良いと思ったからだ。

「明日、私はスラムを焼く」
 ゼオシスはしばらく沈黙していたが、ふと呟いた。それにはヨハネスも眉をひそめた。
「民衆は無闇に殺してはいけないと本部がおっしゃっていたのは如何なさいますか?」
「今年は神聖なる聖十字<クロスロード>がヴァチカンを征して三百周年を迎える。その式典の準備が我ら第二支部もあって忙しい。それを狙って、スラムの貧民共は、聖十字<クロスロード>の重鎮が集まる式典当日に、もしや爆弾を飛ばすかもしれない。ならば今の内に潰しておいた方が良いだろう。いずれは消えなければいけなかったのだ、仕方ない」
 無駄な感情を一切捨てた、冷たい語調。ゼオシスはあくまでも総督であろうとした。

 異論は認めない。そんな強い意思が見える視線をヨハネスに投げ付ける。ヨハネスは素直に頷いた。
「その通りで御座います」
「無論だ。私の支配下の民衆が式典当日に発砲だなんて、兄上に私の顔が立たないからな」
「ご安心下さい、閣下。第二支部の名にかけて、閣下に恥など掻かせません」
「流石だ、お前はいつもよく動いてくれる。総督たる私に泥を塗る行為など、極刑に値する。死をもって許しを乞うべきだ。そうだろう?」
「は。異論は全く御座いません」
 肘を着いてゼオシスは緩慢な態度で言った。
 彼が領内外でも敬遠されるのは、冷酷なほどに厳しい性情ゆえだ。ヨハネスが総督の姿を見た時から、それは変わらない。今こそまともな対応をされるが、最初の二十年は酷かった。

 それとは違って、特にスラム街の統制は他よりも一段と厳しい。三百年もの支配を敷きながらにして、顧みない非情さは他の誰も真似は出来ない。
 この様に支配に残虐も時にはい問わない。よって、彼の評判はすこぶる悪かった。

「……その為にも、いい加減、奴らは引く事を知らなければいけない」
「そのお気持ちは私が一番承知しております」
 恐らくは閣下は民を鬱陶しく思っているのだろう。ヨハネスは知った顔で返事した。が、しかしゼオシスに射るような眼で睨まれてしまった。
 滞るような冷たさだ。ヨハネスは無意識に肩を竦めた。
「ファウスト」
「……はい」
「お前は賢い。医療だけでなく、様々な知識に通じている」
「有り難きお言葉」
「しかし、私には劣るのを忘れるな。生きる時は私の方が遥かに永く――」
 ゼオシスはそうヨハネスの顎を長い指で掴み上げて子供に諭すように囁いた。

 あまりに美しい顔が目の前にあることに目眩を覚える。零れる吐息から彼の仄かな香水が香った。未だ見たことのない雪の白銀とはゼオシスをさすのだろう。

 しかし次の瞬間、ヨハネスは地面に叩きつけられていた。
 揺れる視界に、揺れる脳みそ。何が起こったのか、ヨハネスは最初分からなかった。
「か、閣下……ウグァッ!」
 鈍い音がした。浴槽から上がったゼオシスの白い足がヨハネスの頭を踏みつけたのだ。ヨハネスの視界に映るのは白い部屋の隅。敬愛するかの姿は見えない。

 ゼオシスの低い声が降り注いだ。
「遥かに孤独だ……」
 人の頭を踏みつけるにはあまりに落ち着いたゼオシスの声音。ゼオシスの発言にはヨハネスは驚きを隠せなかった。
 ゼオシスが自分の内心を言うのは聞いた事も片手に足りるかどうかだからだ。
 混乱している内に、ヨハネスの手から落ちたタオルとバスローブは広い上げられた。ヨハネスの上で肌と布地が擦れる音がした。

 ヨハネスがのろのろと頭を上げた時には、ゼオシスは立ち去ろうとする所だった。バスローブを纏うその背中は孤独だ。髪も濡れていているせいか、線の細さが浮き立つ。
 何かを背負うには、永遠でありながらあまりにも儚く、切ない。
 ヨハネスは六十年間仕えていながら、ゼオシスを一度も癒せなかった事を悲しくなった。

「か、閣下!」
 ドアノブに手を掛けたゼオシスをヨハネスは思わず引き留めた。
「……何だ」
 訝しげに振り向く主にヨハネスは、この際遠慮も関係ないと声を張り上げた。無礼も承知である。
「閣下! 閣下は何かを私に隠しておられる。何かを背負っていらっしゃる。それらは私には言えぬ事でしょうか。私は閣下の為になら何でもいたします。どうか、貴方様の見る彼方を、私にも見せて下さい! この老いぼれに、押し付けて下さい……!」
 赤紫の瞳が冷たく自分の禿げ頭に注がれている気がする。ゼオシスが物を見る目は常に氷のように冷たい。血が流れているのかと思う程だ。それでも、ヨハネスは声を振り絞った。




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あきゅろす。
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