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少し昔の夢を見た。ざっと十年ほど前の夢。
しかし、夢と言うにはあまりにも鮮明な記憶だ。まるで瞼の裏で映画を上演しているよう。
そんなに強烈な出来事だったかといえばそうではない。ほんの小さな事だった。
本当なら直ぐ忘れるはずの思い出だが、柄にもなく記憶している。
そう、あの日は確か星の綺麗な夏の夜だった――。
以前から、アレクサンドリア中心部を度々抜け出してはナイル川のほとりに来ていた。
理由はない。
下流の穏やかな流れを、日が明けるまでずっと眺めていた。
それが、当時の定期的な習慣だった。
その日も例外ではなかった。ぼんやりと、ナイル川の静かな水面を眺めていたのだ。
「お兄ちゃん、よくここに来るよね」
ふと声を掛けられた。
今まで何回も来てはいたが、人のいない夜を選んでいた為、会った事はなかった。
つまりはずっと見られていたという事になる。
失態だ。
今まで気配にも気付かなかったなんて、どうかしている。
殺さなければならない。そう思った次の瞬間、ホルスターにある銃のグリップを握って私は振り返った。
腕は本能的に声の主に伸ばされた。銃口を対象の額にあてがう。
しかし、トリガーを引く指はすんでの所で止まってしまった。
何故なら、そこにいたのは少女だったからだ。
黒曜石のように艶やかで深い黒髪に、陶器のように白い肌。極東の出身かと思った。
しかし瞳の色はラピスラズリに似た青だったので違うらしい。見た目は十歳を少し過ぎたぐらいか。幼いながら凛とした顔をしていた。
あまり綺麗な服を着てない。それに薄汚れた水筒を掛けている。
少女はアレクサンドリア郊外のスラム街の子とも分かった。
大きな目で驚いた顔をされた。
当然だ。
危うく殺される所だったのだ。危ない。撃ちそうになったこの腕を呪った。
……危ない?
どうやら私はこの少女に情けを持ったらしい。可笑しな事があるものだ。
そもそも、何故こんな真夜中に子供がいるのかが可笑しい点だ。気配を探っても親らしき姿は辺りにはないのだ。
すると、少女は私に質問する時間も与えないで、即座に話し出した。
「お兄ちゃんは、軍の人?」
近くに寄って、大きな目で見上げられた。それは私が銃を下げたせいだろう。危険はなくなったとは限らないのに。
その屈託のなさは罪にしかならない。無垢は恐ろしいものだ。
私は内心少し動揺した。出来れば答えれたくなかった。
なぜなら、少女が住むスラム街を脅かしているのが私であり、私の仕事なのだから。
しかし銃を突き付けてしまったので、肯定せざる得ない。渋々と私は答えた。
「……そうだ」
すると少女は私の返答に残念そうに視線を下ろした。予想はしていたが、そうでなければと言うように。
「そっか、お兄ちゃんは私達の敵なんだね……」
「あぁ」
「なんか不思議。同じナイルを見に来てるのに、お兄ちゃんと私は敵なんだもん」
この少女の言葉は胸が痛んだ。心臓を鷲掴みされているような圧迫感だ。
少女の視界に入らない影で私は右手に拳を作った。
アレクサンドリアはスラム街の過激派、つまり反乱軍との内戦が頻繁する地域だ。
アレクサンドリアに私達、支部が居座るようになって既に三百年が経つというのにも関わらず、反乱軍はアレクサンドリアを取り返そうと足掻く。
私は必然的にスラム街の住民を殺してきた。女子供限らず……。
戦争になると箍が外れてしまうせいだろう。
知らない内に、周りは血の海になる。そしてそれを仕事と言い聞かせて、その場しのぎで逃げてきたのだ。
「そうだな、ナイルが変わらないように……お前もこのままなら良いのに」
きっと、小さいままなら戦場に出て行く事はないだろうから。
私は少女の頭を恐る恐る撫でた。体温が伝わった。生きている、鼓動があった。
しかし、いずれこの体温を奪う事になりかねない。そう思うと、また心臓を掴まれたような圧迫感を感じた。
「……水を汲みに?」
「うんお葬式だから」
「葬式に水が必要なのか」
「砂に水を掛けてあげるの」
だから水筒を掛けているのか。しかし、渇いた砂に水を掛けるなど無意味だ。
一瞬そう思ったがやめた。ナイルを見る少女の横顔は、泣きそうに唇を歪めていたからだ。
誰のせいで葬式を行うかは、予想はつく。
現実的な事を言うよりも、予想がついてしまう苦しさで頭がいっぱいになった。
その葬式は、私が殺したから行われる。全ては私が殺したに違いない。
懺悔をいくらしても、足りないぐらいに私は殺したのだ。
「ならば、私からの言伝を頼む。……葬式の時に、こう、伝えてくれ」
私は今更だが少女の前に膝を着いた。
けして懺悔ではない。私は許されたいのではない。
普段は冥福を祈る事が出来ない身の上だから、今だけでも可笑しな話だが、人並みの事をしたいと思っただけだ。
その意も含め、私は今までこの世に存在してきた中で一番丁寧に祈りを込めて十字を切った。
「土は土に、灰は灰に、塵は塵に……」
人はいずれ土に還る。
神は土でアダムを創った。死んだアダムは土に還るのが必然。アダムの子孫も、生まれては同じように土に還って逝った。
きっとこの少女も私より先に土へ還るはずだ。
しかし私は還れないで人間が死に逝く様を傍観するだけだ。
このままなら、世界の終わりが過ぎても私は還れないだろう。私が殺す命は還るのに、私は還る場所がない……。
「お兄ちゃん」
「……何だ」
「みんなの為に泣いてくれてるの?」
まさか。そんな感情はとうの昔に無くしてしまったはずだ。
私は首を弱々しく横に振った。
しかし少女は本当は葬式と言うだけで泣きそうだったのに、私には無理矢理に笑顔を浮かべた。
泣けば良いのに、泣かない。敵の前では涙は見せてはいけないというのだろうか。
まるで人間との超えられない壁が私と少女の間にあるようだった。
少女は、ようやく涙を押し殺した所で、言った。
「……ありがとう」
被らなければいけない仮面。被らなければ異端扱いだ。心の中は誰にも明かせない。
だから本当を知る人もいなくなるのだ。
私は、その仮面を疎ましく思った。
目が覚めた。目尻から縷と涙がこぼれ落ちる感触があった。
あの夢の後は何故か過去に置いてきた感情が湧き上がる。
男は手の甲で無造作に目を擦って、気怠げに上半身を起こした。
見ればカーテンの隙間からさんさんと眩しい日が差し込んでいる。それを見ると他の季節なら気にしない事がいろいろ頭を過ぎるのだ。
夏は朝から日差しは厳しい。
スラム街の人達には酷な季節だ。水不足にならないように、細々とやりくりを重ねて生活をするのだろう。
唯一の助かりがアレクサンドリアは砂漠気候から少し離れた位置にあるという事だけだ。
あの少女は今頃どうしているだろうか。
男は思った。
あれから十年が経とうとしている。
あの少女はもしかしたら死んだかもしれない。
その後もしばしば反乱軍と戦いがあったので、巻き込まれて死んだという可能性は多いだろう。
仮に生きていたとしても、どのような状態で生きているかは分からない。
片腕がないかもしれない。歩けない体になっているかもしれない。更には呼んでも反応しない状態になっているかもしれない。
どこにも、無事かどうかの確信はなかった。
その時だった。
憂鬱な空気の中、切り裂くように電話の呼び出し音が鳴った。
ベッドの横から鳴る、空気の読めない無粋な音に男は思わず眉をひそめる。
しかし、あえてか何も言わないで子機を取ると、相手からの応答に応えた。
「お早う御座います、イスラーフィール総督」
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