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「言うならば、“蛇”の配下さ」
 メフィストの赤い目がうっすらと細められた。白い部屋に異質な黒い闇が渦巻いている、ヨハネスにはそんな感覚がした。

 最初、メフィストは果てしない恐怖を感じた。このメフィストとやらの得体の知れなさはかつて感じた事があったろうか。いや、なかった。八十余年生きていながらにして、見た目はさながらサーカス団の団長のような男に自分が畏怖するなど、自尊心が許さなかった。
 だが、その一方でヨハネスはしめたと思った。先ほどの口振りから、メフィストはゼオシスを良く知っているようだ。ならばメフィストに上手い事近付けばゼオシスを思いのままに手懐ける事も出来るかもしれない。

 ヨハネスは口を歪めて笑った。
 前々から思っていたのだ。あの無表情の下にどれだけの顔が隠れているのだろうか。一体、どんな表情が分厚い仮面の下にあるのだろうか。笑み、怒り、嘆き、驚き。これらの誰も知らざる顔が自分の物になればどれ程に気持ちが良いだろう。

 だが、プライドの高いあの男を手に入れるに、ヨハネスは決定的に欠けているものがある。ヨハネスはメフィストを一変して嬉しそうに見た。
「お前、ゼオシスを良く知っているんだろう?」
「知っているさぁ。正確には知らざるえないのかねぇ……何せ蛇は坊やを今も可愛がってるからね。私が報告してやるのさ」
「なるほど。悪魔の首領は地獄の番人が好みって訳か。ククク、好敵手だ。私の相手に不足無し!」
「……センセ、蛇は男色じゃないよ? まっ、センセの考えてる事は読めてるさ」
「ならば話が早い!」
 ヨハネスはメフィストの言葉に嬉々と叫んだ。ヨハネスの頭にあるのは、ゼオシスが自分を見てくれている夢しかない。

「メフィストを名乗るお前なら出来るはずだ! ゼオシスと私が同じ時の流れにする事ぐらい、いや、出来て当然だろう。その為にお前は私の前に現れたんじゃないのか?」
 これは運命などではない。神が私に与えてくれた最初で最後の大博打だ。このギフトが神からか、はたまた悪魔からか。それは分からないが、十分に賭けるに値する。

 ヨハネスは懐古した。ゼオシスを初めて見た若かりしあの日。大学を出席で卒業し、博士号を欲しいままにした自慢の頭脳を安々と踏みつけられた。そして、自分の未知なる知識をゼオシスは当然のように知っていた。
 屈辱だった。跪き、その足を舐めて、避けずんだ眼で見られた。
 しかし内心はいつかこの男を跪かせようという思いで溢れていたのを覚えている。いつかはその後穴に物入れて散々に鳴かせてやろう。そう決意した。

 メフィストはそれすらも知っていたのかもしれない。すると、肯定するかの様に紫がかった彼の唇が微笑んだ。
「アタシはセンセみたいな人間、好きだよ。フフン。どうだい、アタシと来るかい?」
 メフィストはヨハネスに手を差し出した。この手を取れば、ただならぬ事が起こるのは確実だ。メフィストの赤い目が嫌に光って見える。

 しかし夢にまで見た凌辱されたかの総督の顔が浮かんだのだ。あの綺麗な顔はどんな顔で泣くのだろう。ヨハネスはその手を迷わず取った。
「メフィスト、私を連れていけ」
「……かしこまりました、センセ」
 紫の唇が弧を描いた。



 日が落ち、辺りは暗くなってしばらく経った頃、ゼオシスは自室のベランダに立っていた。
 ベランダから地中海が臨める。そしてその向こうには聖十字<クロスロード>の本部があるのだ。
 聖都ヴァチカヌス、かつて教皇がいたヴァチカン。教皇がその地位を失ってから早くも三百年が経とうとしている。
 そして今年は聖十字<クロスロード>の栄光三百周年でもある。外国からもゲストが来るような大式典だ。当然、ゼオシスも赴く事になる。

「良い風だ……」
 昔を思い出させるような、爽やかな風。塩の匂いが微かにする。ゼオシスは目を瞑り、全身で風を受けた。
 長くアレクサンドリアに留まっていた為に、ヴァチカヌスの記憶は曖昧だ。それに、他の支部と連絡するのも画面通信で済んでしまうので、あまり別支配下の地へ出掛ける事もない。

 思い返せば、生きてきた時間のほとんどをアレクサンドリアで過ごしてきたのだ。
 なのにも関わらず、アレクサンドリアを燃やすのに抵抗はない。かつての少女にしても、最初から殺すつもりだ。それを聞いたら非情だと人は言うだろう。しかしそれにはゼオシスなりの理由があった。

 なぜならば、誰かに気を許してしまうと情が移ってしまうからだ。自分が知らない所まで見られてしまう。醜い所を見られては嫌われて、人は軽蔑して去っていく。そんな恐れが常にあった。
 しかし、そんなゼオシスだが、三百年生きてきて誰にも心を許さなかった訳ではない。かつて一人だけゼオシスの中に踏み込んだ者がいた。

 南東から風が吹いてきた。ゼオシスは砂が混ざった風に目を細めた。
 遥か彼方の対岸にあるヴァチカヌス。幼少時代を過ごした思い出の場所。歴史ある通り。オリーブの香り。温暖な気候に眩しい日差しが懐かしい。そこは良いものもあれば、悪いものも詰まっている。

 ゼオシスはゆっくりと自室に戻った。机の上には書類が積まれ、空から撮ったスラム街の地図が無造作に広げられている。風で飛ばされそうになっている書類に重りを乗せてやった。
 そしてベッドに身を投げると、ゼオシスは枕を抱き締めた。本当は弱い自分だ。何かにすがり付きたくて堪らない。
 それが溜まっていたのだろう。今日はついついヨハネスにその孤独感をぶちまけてしまった。さぞかしヨハネスは驚いたろうに。分かっているような顔をするのはヨハネスの癖なのは最早承知である。
 なのに、柄にもなくむきになって汚い面を見せてしまった。ゼオシスは後悔した。

 一番怖いのが、戦いの中だ。知らない内に殺している。気持ちが高揚して、我を失ってしまう。今まで押し殺してきたものが爆発するかのように出てくるのだ。その結果、機械を使って取り押さえられるまで、人を殺め続ける。周りは血の海、部下も下手に近付けられない。

 飾りだけの鏡台に古びた写真入れが立てられている。誰にも見せたくないので修整してない。写真自体は黄ばんで、色も褪せてきている。かれこれ、三百五十年前の写真だ。
 ゼオシスは写真を覆う硝子を指先で撫でた。ゼオシスの顔は泣きそうになって恍惚としていた。六十年彼に仕えているヨハネスも視見たこともない表情だろう。無表情で冷酷だと悪評高い彼が、まさかそんな顔をするとは誰も知るまい。

 その視線の先にいるのは黒髪の青年だ。にこやかに微笑みを浮かべている。その青年の手を、銀髪と不安気に揺れる赤紫の瞳の少年がしっかりと握り締めていた。





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