殺虫剤
うざい。マジないわ。
あの独特なウザさを何かに例えるなら“真夜中の部屋に入り込んだ蚊”みたいなカンジ? 耳元に飛んできて、人を不快にさせる翅音を聞かせるだけ聞かせておいて、少し暴れるとすぐ逃げ出すみたいな?
もう、吸うならさっさと吸うてくれ。
# # #
「かゆ……」
朝。部室へ向かう財前の首筋には赤く腫れ上がった虫刺されの痕があった。昨晩、日本の夏将軍・蚊が財前の首を夕飯にしたらしい。
刺された首は、夏将軍の恐ろしさを誇示するかのように痒みを財前の神経撒き散らす。何度も掻く首筋は、血が滲み始めていた。
「おーい、ざーいーぜーん」
やけに伸ばされた声に、財前は気だるそうに立ち止まる。振り返るとニヤニヤとした顔がそこにあった。財前はため息を吐き、何事も無かったようにまた歩き出す。
「コラ、財前! 先輩が呼んでんねんから、無視すんなや!」
「……」
「ざーいーぜーん!」
「…………何すか」
うんざりとした声で返事をし、立ち止まる。睨みつけるような視線で財前は振り返る。
そこには同じ部活の先輩である忍足謙也がいた。右手にビニール袋を提げ、ニヤニヤとしながら忍足は財前に駆け寄った。
「見てみ、見てみ」
ビニール袋の中を嬉々とした表情で漁る忍足は子供のようだった。そんな彼を見て、財前はまたため息を吐いた。
「ほれ、これや!」
「……消しゴムっすか」
「すごいやろー、すごいやろー」
うきうきとした明るい声で忍足は言い、テニスコートの形をした消しゴムを見せた。
「珍しいやろ?」
「まぁ、そうッスね。ラケットとかボールならまだありそうッスけど」
「だから、お前にやるわ」
「は?」
財前は首を傾げた。目の前の忍足は自慢気に言って、財前の手に消しゴムを押し渡した。
「優しい先輩からのプレゼントや。素直に受け取り」
「……いや。先輩、こういうの好きじゃないッスか。自分で使えば良いじゃないッスか……」
「オレがお前にやりたいねん。先輩の厚意は素直に貰っとくんが、後輩の礼儀やで」
忍足は歯を見せてにっと無邪気に笑うと、財前の頭を荒く、掻き回すように撫でた。
「うわっ、先輩やめ……」
「後輩は後輩らしく、素直になればええんや」
「──ッ、止めて下さい!」
財前は忍足の手を乱暴に払い除けた。
財前は一歩退くと、拳を握りながら、鋭い瞳で忍足を睨んだ。
──止めてくれ。
財前の胸が痛んだ。
目の前の忍足はきょとんとしていたが、直ぐに申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……すまんなぁ。もう頭撫でんのやめるわ。消しゴム大事にせえよ。今度は白玉ぜんざいの消しゴム探して来たるわ」
忍足は少し寂しそうな顔をしていた。その表情は財前の喉元にある言葉を心中に押し返した。そして、彼は何も言えなくなってしまった。俯いた財前は、表情を歪めた。
「……じゃあ、オレ、先に行ってるわ。遅れんなよ」
忍足は気遣うように財前の肩に手を置いて言った。財前は俯いたまま、「はい」と答えた。
忍足が去った後。財前はやっと顔を上げた。
──ホンマ、キツイわ。
財前は首筋の赤みに触れ、瞳を閉じた。
──人のこと掻き乱しといて生殺し。鬼としか思えへん。
膨れ上がる首筋の痒み。痒みは痛みになれなかった感覚云うが、もどかしさも痛みに分類されるのだろうか。
──“蚊”みたいや。
好きなだけ人の安眠を妨げ、微々たる反応を示すと隠れてしまう。
「さっさと、吸うてくれればええのに……」
──そうすりゃ、このもどかしさも痛みになって、受け入れられるのに。
掻きすぎた首筋から、うっすらと赤い液体が浮き上がっていた。
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