5.チョークの粉ってマジ面倒
土方先生の授業はわかりやすくて人気だ。女生徒の間では特に。中には授業を真面目に聞いてるふりして土方先生を見つめてる強者もいる。
だが、あたしにとっては、どんなにわかりやすい授業でも古文は嫌いだし、土方先生はむかつくしでつまらないことこのうえない。平助と(平助の)教科書に落書きしつつ、つまらない授業を眠気から脱却すべく受け流していた。
「…東城、平助!遊んでんじゃねぇ!!」
「げ」
「あーあ怒られた」
「東城、この文口語訳しろ」
「は、なんであたしだけ…」
「早く出て来い」
うっわ、土方先生超不機嫌。
仕方なく立ち上がり、黒板に向かう。
こんなの楽勝楽勝。…って、あれ?
届かない。
あたしより背の高い先生が、黒板の高いところから書き出したため、横に訳を書こうにも届かない。
「ぅ…ん」
おもいっきり背伸びして……あと少し、だけど届かない。
手も足もぷるぷるし始めた。
と、チョークを持った手を大きな手で包まれた。
にやりと笑った土方先生が、
「訳言え。書いてやる」
それはそれは楽しそうに言った。
こいつぜったいわざと上から書いた!
確信犯とかうざすぎる。
さっきまで不機嫌だったくせに。
あたしが必死に背伸びした惨めな姿と、悔しくてつい睨んでしまう様をわざと導いた土方先生はさぞかし面白がっていたのだろう。
くそ…っ、めっちゃ悔しい――!!!
ふて腐れていたあたしだったが、手を包む大きな手の平から伝わる体温に徐々に恥ずかしくなってきて。それにクラスの皆から感じる強い視線。沖田はくすくすおもしろそうに笑っている。先生もそれは気づいているはずなのに、まるで見せつけるかのようにあたしの手を握っている。いつまでもこの体制はきつい。
「…はい」
赤くなってきた顔を隠すように、先生の手をさりげなくどけて、チョークを手渡した。
受けとった土方先生は、
「さっさと訳せ」
長い指でチョークをつまんでニヤリと笑った。
なんだその意味ありげな笑みは…っ
盛大にひっかかる、というか嫌な予感しかしなかったが渋々異国語みたいな古文を訳す。
「『男は女に向き直り、…その細い身体を引き寄せ、艶やかに紅の引かれた唇に…せ、…っ!?』」
思わず土方先生をガン見した。
「どうかしたか?」
わざとらしくあたしと目を合わせ、またニヤリと笑った土方先生。
や、どうかしたか?…じゃねーよ!!
なんて文読ませんだこの変態教師!!
ぶん殴りそうになるのを必死に堪える。
…いや待て、落ち着けあたし、ここで焦れば土方先生の思う壷だ。ここは平然を装ったほうがいい。
「…なんでもありません」
心を落ち着かせて先生の深紫の瞳を見つめ返す。
なぜだか分からないが土方先生はあたしで遊んでいる。だったらこれは挑戦状だ。
売られた喧嘩は買うのが礼儀。今度はあたしの番だ。
切れ長の瞳はスッと細められて、あたしは黒板に向き直った。
「『…艶やかに紅の引かれた唇に……せ、』」
「なんだ、東城。早く読め」
「…わかってます。『唇に、…』…先生」
「あ?なんだ。早く読め」
「これ、なんて読めばいいんですか?古文ですよね。曖昧で…」
古文でもなんでも読み方は変わらない。そんなことは分かっているが、あえて攻めに切り出した。
あたしに読ませて楽しみたいなら、逆に読ませてやる。
せいぜい恥ずかしい思いをすればいい。
いつまでも遊ばれてばかりのあたしだと思うなよ!
「そのまま読めばいいだろ」
「そのまま?どういうふうにですか」
「現代文と読みは同じだ」
「…漢字が読めません」
クラスの皆に多少バカに見られても構わない。というか皆このやり取りから、あたしと土方先生が噛み付きあい始めたことに気づいてきたようだ。クラスメイトが面白いものを見るような目つきになる。
沖田に至っては、さっきからずっとケータイでムービーを撮っている様子。
「これくらい読めるだろ」
「読めません」
「…照れてんのか?」
ニヤリと笑った先生は、普通の女の子にとっては相当クるところなのだろうが、少なくとも今のあたしにとってはむかつくだけだ。
「照れてません」
「顔が赤いぞ」
「赤くなんかないです」
「…そうか」
土方先生は笑みをさらに深くした。
また嫌な予感がする。
と、突然先生があたしの耳元に顔を近づけた。端正な顔が近くにある、そのことに驚くのもつかの間。
「…『接吻』だ」
ボソリと、でも確実に聞こえる声で先生は言った。耳元で囁かれたせいで、低いその声と吐息が鼓膜を強烈に揺らして、ぞわりと背中ををなにかが駆け上がった。
きゃああっ、と女生徒達から黄色い喚声が上がる。
あたしはというと、まるで思考が停止したかのように立ち尽くすしかない。
自分が声フェチであることを恨んだ。
土方先生の行動と美声に一気にざわついた教室。そのざわつきに乗ったように授業終了のチャイムが鳴った。
土方先生はあたしの耳元から静かに顔を離した。そのとき香った煙草と土方先生の匂いに、ショートしていた頭がくらくらした。
土方先生は嫌になるほど様になっている笑みをニヤリと勝ち誇ったように浮かべて、黒いスーツの裾を翻してざわついた教室から出ていった。
「――っ…!!!」
ひとり黒板の前に残されたあたしは、思わず真っ赤になった頬を両手で覆ってしゃがみ込んだ。
「凜、大丈夫かん」
「平助…っ、あたしが、土方先生ごときに…っ!」
負けた…!!
今回は悔しくて堪らないが完敗だ。
「おもしろいもの見せてもらったなあ。あんな土方さんが見られるなんて」
「凜が赤くなるなんてスゲーな、土方先生」
「あ、あたしだって赤くなるよ!べつに土方先生だからじゃないし…!」
「いやでも珍しいものは珍しいし」
「ばかっ…見るな!」
「凜ちゃん、かわいいよ」
「千鶴まで…!もうハズい、死にたい消えたい…!!」
きゃあきゃあ沸き立つクラスメイトを見て、あたしもあの子たちみたいに女の子らしく素直に照れられたら楽なのに、なんて思ってしまう。
「凜はあまのじゃくだからね。臍曲がりだし。そんなんだからツンデレとか言われるんじゃないの」
「土方先生がむかつくだけ。あたしの性格は関係ないもん!千鶴ー、立たせてー」
千鶴の手を借りて立ち上がり、ふぅ、と息をつく。
耳にはまだ、土方先生の声がしつこく残っている。
――腰にがんがんクる、エロい声。
むかつくのとハズいのとで、耳に残るその声を振り払うようにぶんぶん頭を振った。
「くっそー…あたしがあんな声出せたら土方先生なんかよりモテるのに!」
「ふふ、凜ちゃん女の子でしょ?」
「まあ凜は女にもモテるからな。さっきの女子の中には、凜に向かってキャーキャー言った奴もいたみたいだし」
「女の子にモテてもなんもなんないじゃん!…嬉しいけど」
「いや、女だけじゃないと思うけど」
「冗談でしょ」
「違……ま、いいか」
呆れ返った沖田をよそにあたしは千鶴に後ろから抱き着く。抱き心地最高。
「とにかく!今回は負けたけど次はこうはいかないんだからね!あのむかつく顔を屈辱にまみれさせてやるわ!ふはははは!!」
「残念なほど立ち直り早いな…」
「そして千鶴は渡さん!」
「なんか違う話になってない?…ほら凜、次移動でしょ、行くよ」
「あっ、そうだった。千鶴、行こっ」
「うん!」
なにはともあれ、むかつく土方先生の元で、剣道部のマネージャーをすることになりました。
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