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空の涙、心の叫び
 
 
 
 
 久し振りにあの頃の、暗い異界の地に独りで居た頃の夢を見た。
 別に忘れていた訳ではないが、それでも、夢に見た光景は嫌になる程鮮明で、過去に犯した罪に対する罪悪感に押し潰されそうになる。
 
 あんな夢を見た原因は、恐らく昼間見た光景のせい。
 彼女を見た瞬間、胸を締め付けられるような痛みが走った。
 昼間、人型をとっていた勾陣が見知らぬ男と楽しげに話しながら歩いているのを目撃した。
 普段、自分には見せないような笑みを浮かべ、市に並んだ露店を覗き込んでは、楽しげに笑っていた。
 それが、あの人間の男に特別な感情を抱いているようにも見え、それが無性に苦しくて、逃げるようにその場から離れた。
 これ以上、俺の知らない男に笑いかける彼女を見ていたくなかった。
 俺の知らない表情を浮かべる彼女を、見ているのは辛かった。
 
 
 最強の名が聞いて呆れる。
 これ程までに、彼女の事で心を乱しているというのに、皆が己を最強と呼ぶ。
 御する事の出来ないこの心を捨て去れば、その名に相応しい存在になれるのだろうか。
 苦痛ばかりを訴えるこの心を捨て去れば、もう苦しまなくても済むのだろうか。
 
 答えの出ない問い掛けを繰り返す自分に嗤えてくる。
 そんな問い掛けは無意味だと、己自身が一番よく分かっているではないか。
 あの頃、散々繰り返してきた事をまた繰り返して、一体何の意味があるという。
 独りである事を自ら望み、同胞達から距離を置き悲観に明け暮れていた頃と、何も変わらない。
 
「本当に…何も変わらない」
 
 小さな呟きには嘲りの色を宿し、無意識の内に動いていた足を止めて空を仰ぐ。
 普段なら見える筈の月と星が、今は己の心を表すかのように厚い雲に覆われて光さえも遮っている。
 木々が風になびき、葉ずれの音を立てては優しい沈黙を落とす。
 この風が、心を覆う暗い影をも吹き飛ばしてくれればいいのに。
 そうすればきっと、また俺はいつものように笑える。
 彼女を見ても、きっといつもの自分でいられる。
 
 けれど、心が晴れてくれない今のままでは、きっといつものように笑えないし、いつもの自分でいられない。
 こんなにも、自分の心が弱かったなんて知りたくもなかったし、誰にも知られたくない。
 
―――知られたくなければ…
 
 不意に頭に浮かんだ考えを、頭を振って追い出す。
 それだけは嫌だ、光を知ってしまった己には耐えられない。
 再びあの暗い闇が広がる場所には戻りたくないと、叫ぶ己がいる。
 
 だが、闇の触手が囁きかける。
 お前には、闇が似合いだと。
 お前には、光ある場所にいる事は赦されないのだと。
 闇に身を委ねてしまえば、誰もお前を傷付ける事はないのだと、傷付く事はもうないのだと、酷く甘くて優しい声音で囁きかけてくる。
 
 『傷付く事はもうない』という言葉が、やけに重く心に響く。
 この声の誘いに乗れば、この痛みも苦しみも何もかも感じなくなるのだろうか。
 ならば、その誘いに乗ってやってもいいと、再び孤独を求める己がいる。
 けれど、もう独りは嫌だと叫び続ける己もいる。
 心の中で両者が主張する。
 頭に響く二つの声が煩くて、傍にある木に寄り掛かるようにしゃがみ込む。
 力なく座り込み、顔を伏せては堅く目を閉じる。
 
「くそ……」
 
 力なく零された呟きは、常の姿からは想像出来ぬ程に弱々しく、膝を抱えるように座り込んでいる姿はまるで泣いているかのようで。
 ぽつりぽつりと地面を濡らす雫が落ちる。
 それは、泣けない自分の代わりに空が泣いてくれているようで。
 
 
「こんな所に居たのか、騰蛇。探したぞ」
 
 突然聞こえた彼女の声。
 顔を上げれば、呼吸を乱した、今は会えないと思った彼女がいた。
 何故ここに…そう思ったのが伝わったのか、勾陣の端整な面差しに険のある表情が浮かんだ。
 
「昌浩のもとにも居ないし、邸にいる様子もない。それに、雨まで降ってきたというのに帰ってこない。お前が帰ってこないと、昌浩が心配していたぞ」
 
 髪から滴る雫が鬱陶しいのか、前髪を掻き上げながら言う勾陣から、苦々しげに視線を逸らす。
 こいつが心配している訳じゃない。
 こいつが心配するのは、あの人間の男と主だけ。
 主を心配するのは式神として当然だが、あの男はそうじゃない。
 何故あの男なんだ。
 それが無性に腹立たしい。
 
「用件はそれだけか。なら、さっさと行け。…目障りだ」
 
 逸らされた視界に勾陣の表情は見えない。
 見えないが、勾陣の体がぴくりと動いたのを視界の隅でとらえていた。
 彼女がどんな表情を浮かべているかなんて知らない。
 知りたくもない。 
「……お前に、目障りだと言われるような事を、私はしたか?」
 
 微かに強張った声音に視線を戻して見れば、傷付き、泣くのを堪えているような彼女の表情。
 そんな表情は知らない。
 いつも、弱い所を見せない彼女の、そんな顔は、声は、知らない。
 何故そんな反応をする。
 
「分からないか?」
「分からないから聞いている」
「……昼間、市でお前を見た。人間の男と楽しげに歩いている所を」
 
 そうとだけ告げると、再び視線をずらす。
 腹立たしさはあっても、彼女のあんな表情は見ていたくない。
 
「あの男と共にいたのは、妖に命を狙われていたからだ。だから、護衛として傍にいたまでだ。それだけだ」
 
 それだけ?
 本当にか?
 疑心暗鬼に陥ったこの心は、素直に言われた事を受け入れない。
 
「本当にそれだけか?あの男に惚れたんじゃないのか?」
 
 侮蔑したように笑みを口許に浮かべて問えば、頬に衝撃と共に痛みが走る。
 頬を叩かれたのだと頭が理解し、反射的に睨むように勾陣を見れば、雨の雫とは違うものが彼女の頬に流れているのを確かに見た。
 呆然と相手の顔を見ていると、勾陣はきつく手を握り締める。
 
「お前はっ!…お前は私が信じられないのか!?私が心から愛しいと思うのはお前だけだっ!それさえも信じられないと言うのか!?」
 
 絞り出された悲痛な叫びに、嘘偽りなど一切無いというかのような言葉に、頭を殴られたように衝撃を受けた。
 彼女が、これ程までに真っ直ぐに、自らの思いを告げる事など滅多にない。
 だからこそ、その言葉が本当なのだと痛い程分かる。
 
「っ…悪い……」
 
 あの時感じたものとは違う別な痛みが、更なる痛みを伴って襲う。
 そうだ、何を自分は血迷った事を考えていたんだ。
 彼女以上に信じられる者など、他にある訳もないというのに。
 その上、彼女の心をこんなにも傷付けてしまった。
 今更ながらに後悔と自責の念が己を襲う。
 俯いて再び「悪い…」と呟き、唇を血が出る程強く噛む。
 血独特の鉄の味が、口の内に広がる。
 
 その時、柔らかくて暖かい腕に抱き締められたのが分かった。
 雨で冷えきった体には僅かな温もりでも、それが勾陣から伝わる体温ならば尚更暖かく感じる。
 そして不思議な事に、心を覆っていた暗い闇が、段々と薄れて消えていくのが分かる。
 幼い子供をあやすように、勾陣が優しく背中を叩いた。
 今随分と情けない顔をしているのだろうなと思いながら、のろのろと顔を上げると、苦笑気味な笑みを浮かべた彼女の顔。
 
「まったく…なんて顔をしてるんだ。……もう、あんな事を言わないでくれよ?」
「すまない、勾……愛してる」
 
 抱き締め返すと、勾陣の鼓動が僅かにだが早まった事に気付き、更に強く抱き締める。
 触れ合った所から伝わる互いの体温が心地よく、自然と互いの顔が近付き、甘い口付けが交わされる。
 
 いつの間にか降っていた雨は止み、雨空からは月が顔を出していた。
 
 
 
 もう二度と、お前を泣かせたりしない。
 その心を、決して傷付けないし、傷付けさせない。
 もうお前の悲しみに満ちた顔を見たくないから、だから、守り通すとこの命に賭けて誓おう。
 これが単なる自分勝手な誓いだとしても、墜ちそうになる俺を何度も助け出してくれるお前を守ると決めた。
 これ以上、悲しみに涙する姿を見たくないと言う、身勝手故の思いだとしても、必ず―――…
 
 





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