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手のひらの温もり
 
 
 いつも思っていた。
 俺はここに居ても良いのかと。
 お前の隣りに居て、背中を預けて立つ資格があるのかと、ずっと。
 自問しても答えは見えず、心の中に澱となって溜まり続ける。
 最初は自分でも気付かぬ程静かに、けれど今は、ふとした時に痛みを伴う程重く、しこりとなって留まり続ける。
 この疑問が昇華されるまで、心の中に溜まり続けるのだという事は分かっている。
 だが、昇華させる術を知らない己にはどうする事も出来ず、しこりは溜まり、この胸の苦しさを抑える事も出来ない。
 その事が余計に、零れ出てしまう溜め息を重いものとしてしまう。
 
「……何だその重っ苦しい溜め息は。鬱陶しい、今すぐ止めろ」
 
 鬱陶しいの一言で今のこの心情を斬り捨てられた騰蛇は、眉を寄せて隣りに座る勾陣を睨むように見やる。
 しかし、そんな視線など効かぬとでもいうように、薄い微笑と凛とした輝きを持つ瞳を返される。
 
 いつもそうだ。
 この女は、主を殺めかけた己の元に普段通りにやって来ては、何をするでもなくただ傍にいる。
 たまに言葉を投げ掛けてくる時は、いつもその口許に薄い微笑を浮かべて、面白そうにこちらを真っ直ぐに見てくる。
 そこに偽りの姿はなく、真実面白そうに笑うのだ。
 以前、主に命じられたのかと問うと、違うと、主の命など関係なく来ているのだと、こいつ自身が語っていたから真実なのだろう。
 こんな事で嘘を語るような奴ではないと、彼女を見ていれば嫌でも分かる。
 だからこそ、『何故』と『俺はお前の隣りに立てる資格があるのか』という疑問が膨れ上がる。
 何故、お前はいつも余裕な態度を崩さず笑って俺の傍に来るんだ。
 いくら拒絶の言葉を投げ付けても、寂しげに微笑んで「そうか」と呟き去っても、またここへ来るんだ。
 
「……どうしてお前は」
 
 そんなにも俺に優しいんだ…
 小さく苦しげに吐き出された言葉は全てを紡ぐ前に途切れ、再び訪れるはずだった沈黙を、名を呼ぶ声で遮られた。
 
「お前は知っているか、騰蛇」
「何、を…」
 
 視線だけを僅かに勾陣へと向ければ、口角をきゅっと引き上げ、綺麗な三日月をかたどらせて微笑む横顔が見えた。
 真っ直ぐに前を見つめ、見えない何かを見るように、微かに目を細めて微笑む勾陣が、ただただ綺麗だと思った。
 
「…心から孤独を求める者を、決して独りにさせてはいけない。一人でも良い。誰かが傍に居てやらなければ、そいつはそこから抜け出せない。…闇に心を絡めとられてしまう」
 
 静かに紡がれたその言葉は、己自身に向けて言われているようで、思わず目を見張り息を呑んだ。
 何を言っているんだ、この女は――
 その言葉はまるで、俺を助けようとしているのだと、そう言ってるように聞こえるではないか。
 そう錯覚してしまいそうになる程、その言葉は己には優しすぎて。
 心を守る為に必死に否定すればする程、それに縋ろうとする己が顔を出して主張してくる。
 
 孤独な闇は嫌だ、怖がられるのは、憎悪の眼差しを向けられるのは、拒絶されるのはもう嫌だ、と。
 救いを求める己を、孤独を求める己が、無駄な事を、と嘲笑った。
 その声に、あぁ、そうか、無駄なのかと、他人事のようにそう思った。
 己には、何かを求める資格など、元からありはしないのだ。
 当然の事のように浮かんだ思いに、口の端を僅かに持ち上げたそれは、歪んだ笑みを形作った。
 
「……何て顔をしてるんだ、戯けが」
 
 溜め息と共に寄せられた言葉は、呆れたような色を宿していた。
 
「お前は一度考え込むと、どんどん悪い方に思考がいってしまうようだな。改めた方が良いぞ?」
「余計なお世話だ。お前には関係ない」
「関係なくはない。お前の辛気臭い顔は見飽きたんだ。…そうだな、少しは楽しそうに笑ってみたらどうだ?」
「煩い」
 
 表情を消し、戯言を言うなとばかりに告げれば、あっさりと「悪かったな」と返ってくる。
 こちらが踏み込んで欲しくないと思う時、いつも彼女は踏み込んでくるような真似をしない。
 踏み込まれたら、その事を理由に彼女を心の底から拒絶出来るのに、してこないから拒絶しきれない。
 この危うい均衡を崩してしまわぬよう、そうされているみたいに。
 そして、今の関係に満足してしまっている自分がいるのも知っているが、抱えた矛盾を表に出す事はない。
 出してはいけない。
 
「……もう、二度とここへは来るな」
「お前に命令されるいわれはない。私の行動は私が決める」
「他の奴らにどう思われてもか」
「見くびるなよ、騰蛇」
 
 彼女の事を見くびっている訳ではなく、ただ、俺の事など捨て置けば良いと言い返したかったが、何故だか言葉が出なかった。
 それを言ったら、彼女はもうここに来てはくれなのではないかと、重く苦しいものが胸の中に降り積もる。
 自ら望んだ事を自ら拒絶し恐怖する、何という矛盾の塊であるのだろう、己は。
 
「……救いなど…俺には、誰かに気に掛けてもらう程の価値もない」
 
 顔を見られたくないからと膝の間に顔を埋める。
 己を卑下するつもりなど毛頭ないが、淡々とした感情の籠らぬ声音で言葉を紡ぎ出せば、勾陣は沈黙を促しとして返してくる。
 何も言わずにいてくれる彼女に、心の中で礼を言いながら、今まで抱え込んでいた思いを吐露するかのように言葉を重ねる。
 
「血に染まった両手は、いくら拭おうと拭いされない。罪の証しは消えない。だから全てを拒むのに、なのにお前はここにやってくる…っ…お前が来る度に、どうしようもない程心が掻き乱される…痛みが治まらない……」
 
 言葉にしようとすればする程、それ以上の思いが溢れだしそうになり、上手く言葉として紡ぐ事が出来ない。
 それがもどかしくて、ぐしゃりと髪を掻き上げて気を紛らわそうとしてみるけれども、紛れる筈もなく。
 いっその事、この辺り一帯を焦土と化してしまえば、気を紛らわせられるだろうかと物騒な事を考えていると、髪を掻き上げたままの手に、そっと一回り小さな手を重ねられる。
 突然何をするのだと眼光鋭く見やれば、嬉しいようで悲しい、何とも不思議な微笑を浮かべていた。
 だが、それに気付いてやれる程冷静ではなく、その微笑は、今の己を嘲笑うものとしか映らない。
 
「……何が可笑しい」
 
 吐き捨てるように問えば、違うと言うように首をふり返された。
 
「可笑しいんじゃない、嬉しいのさ。初めてだろう?こうして私に、心の内を吐き出してくれたのは」
 
 触れられた手はじんわりと温かさを取り戻し、痛みと苦しさを訴えていた心も和らぐ、そんな錯覚さえ引き起こしてくれる。
 きゅっと握られ、髪に絡ませていた手を下へと下ろされた。
 何をする気だと瞳で訴えながら、けれど何の抵抗もしない。
 抵抗する事さえ酷く億劫で、ここまで来たらどうにでもなれと、酷く投げやりな思いが浮かぶ。
 
「だから、私に言ってくれた事が嬉しかった。…確かに罪は犯したかもしれない。だが、お前は十分苦しんだ。だからもう、良いんだよ」
 
 それは、母親が幼子に言い聞かせるかの如く優しくて、勾陣の手のひらに包み込まれた己の手には温かささえも感じられた。
 犯した罪を、同胞達に一生許される事はないのだと思っていた。
 血塗れたこの手を、こんなにも温かく包み込んでくれる事などないと思っていた。
 けれど、この女は「もう、良いんだよ」と、己に与えられる事などないと思っていた許しの言葉を、手を握る温もりと共に与えてくれた。
 それが、どれだけ嬉しい事か、彼女は知らないだろう。
 永い間自分は独りで、この感情を言い表す言葉など持たず、彼女には伝えられる事が出来ないけれど、今の一言にどれ程救われた事か。
 握られていない方の手を勾陣の手に重ね、蹲るように体を丸め、重ねられた手を額へと押し当てる。
 今はただ、この僅かな温もりにさえも縋りたかった。
 それ程までに、胸の奥深くは冷えきっていた。
 隣りからは、ただただ静かで穏やかな眼差しを向けられているのが分かった。
 
「……礼を、言う」
 
 その言葉を言うだけで、声が震え掠れてしまった。
 隣りから息を飲む音が聞こえたが、すぐにふっと笑った気配がする。
 
「お前から感謝の言葉を聞けるとは思わなかったな。だが、ありがたく受け取っておいてやる」
 
 からかうように言われたが、不思議と不快感はなく、代わりに温かさが満ちてくる。
 
 どうしてこの女は、己の心を軽くさせ、温もりを与えてくれる言葉を、こんなにもくれるのだろう。
 他の者にとっては些細な言葉であったとしても、何故こんなにも意味のある言葉にしてしまえるのだろう。
 どうして俺は、こんなにも掛けられる言葉を嬉しく思ってしまうのだろう。
 どうして彼女は、こんなにも優しいのだろ……
 
 彼女の優しさに、思わず涙が込み上げてくるような気がした。
 あぁ、このまま幼子のように泣く事が出来れば、この胸の苦しみは消えるのだろうか。
 だがそれは、己が矜持が決して許さない。
 
 だから、頼む。
 こんなにも情けない姿を見ないでくれ。
 目を閉じ耳を塞ぎ、五感さえも今だけは閉ざして、今の俺の全てをその記憶に残さないでくれ。
 こんな姿を、誰よりもお前に見られたくないと望む俺がいるから。
 だから―――…
 
「―――本当に戯けだよ、お前は…」
「―――っ」
 
 伝わる筈がないと思っていた懇願の声が、彼女に伝わったのかと、動揺に体が震えた。
 けれどそんな筈はないと心を落ち着かせ、掴んでいた手をゆっくりと下ろす。
 そして、横目に隣りを窺い見れば、視線をわずかにこちらに向けて、仕方がない奴だと言わんばかりに苦笑の表情を浮かべていた。
 
 まただ。
 また俺は、彼女の優しさに救われた。
 このままでは借りが溜まり過ぎて、返せなくなってしまうではないか。
 そう思案しながら盗み見るようにしていた目を閉じ、「勾…」と名を呼べば、何だと言うように首を傾げてくる。
 
「………また、来るか?」
 
 今まで散々、彼女に酷い言葉を投げ付けていたのに、それを今更再び来てくれる事を望むなんて。
 己にそんな資格がある訳ないと思っていると、耳が拾った音は二つ。
 くつくつと笑う微かな音と、先程の問いに対する返答。
 
「愚問だな。言ったろう、私の事は私が決める、と。気が向いたらいつでも来てやるさ」
 
 その言葉に、一瞬息を飲み、見開かれた瞳を細め、一言、「そうか」と呟いた。
 
「―――…。騰蛇、晴明に呼ばれたから私は行くよ」
 
 掴まれていた手をするりと抜き、勾陣は立ち上がり背を向け歩きだし、ちらりとこちらに振り返ったと思ったら、綺麗な微笑を浮かべ音にならぬ言葉を告げ、人界へと降りて行った。
 
「またな…か」
 
 それは先程、綺麗な微笑と共に向けられた言葉。
 問い掛けへの返答、そして、去り際のその言葉に再びがあるのだという事を示され安堵し、肺に溜まった息を吐き出す。
 手のひらへと視線をやれば、まだ彼女の温もりが残っているような気さえして、緩く握りこみ、そんな自分が可笑しくて、微かに口の端を持ち上げて苦笑した。
 そして、彼女が癒してくれた心が、早くも彼女を求めていたが、未だ心の奥にくすぶる闇と向き合わなければならない事に、彼女が気付かせてくれた。
だから、と、彼女を求め逸る心を抑え、落ち着かせる為に一つ息を吐き、手のひらの温もりを支えに目を閉じ、逃げ続けていた闇と向き合うのだった。
 
 
 彼女が苦しさを、辛さを、痛みを和らげてくれた。
 彼女が温もりを、安らぎを、許しを与えてくれた。
 沢山の感謝を、『ありがとう』をお前に返したいと思うから。
 まずはこの闇を断ち切って、お前に逢いに行こう。
 一つ目の『ありがとう』を送る為に。
 
 
 




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