文 未明の雫 パン!と乾いた音がした。 一瞬、何が起きたのか分からず、那岐は呆気にとられたが、左頬に熱を感じて理解した。 千尋が、那岐の頬を叩いたのだ。 那岐が、ゆっくりと千尋を振り返った時には、その顔は伏せられ、稲穂のような黄金の髪だけが未明の風に揺らいでいた。 「何するんだよ」 怒りをおさえた不機嫌な声が、千尋にかけられる。 いつもの千尋なら、それを受け止めて那岐をなだめようとする。 だが、今日は違った。 「バカ!!!」 那岐の言葉にかぶせるように、千尋が叫んだのだ。 「『消えてもよかった』なんて言わないで!!」 「千尋………?」 服の裾をつかんでいる手が、ぎゅっと握りしめられていた。 「訳がわから……」 「『消えてもいい』なんて、勝手に思わないで!」 「ちひ……っ?!」 「千尋」と呼ぶはずの言葉は、不意に胸倉を掴まれたせいで、言葉とならなかった。 胸倉をつかむ千尋の手は、強く握りしめているせいか真っ白くなっている。 「私のためなんかじゃない……。そんなの、全然私のためなんかじゃないよっ!!!」 言い捨てるように叫んで、千尋は那岐の胸倉をつかむ両手の上に顔を伏せた。 その手の上で、稲穂のような金の髪が、ふるふると小刻みに震えていた。 「千尋………」 「………うっ……」 那岐の困った声に答えるのは、泣きそうになるのを必死で堪える震えた声。 「千尋………」 「…………な…いで………」 「泣くなよ」 「な………な……い……っ」 掴む力は一層強く、震える髪は未明の灯りの中で、日のようにきらきらと輝いている。 それはまるで、泣くのを我慢する千尋の代わりに零れる涙のようだった。 悲しませたのは自分だ。 慰めることができるのも自分なのだろう。 その髪を撫で、震える肩を抱きしめてしまえば、どんなに楽だろうか。 震える腕が、そろそろと上がっていくのを、那岐は遠く感じていた。 この手で、この腕で、千尋を抱いてしまえば―――。 『あなたには、あなたにしかできない役割があります』 老婦人の水底のように静かな声が、那岐の耳奥で響いた。 そろそろと上がっていった腕は動きを止め、その手は千尋を抱くことなく、自らの髪をやるせなくかき上げて握りしめた。 「それなら、………僕はどうしたらいいんだよ」 苦しそうに吐き出されたのは、紛れもない那岐の真実。 君のために死ぬのも悪くない、と思えたのに。 「あんなこと、思わないで」 「思ってないよ」 「嘘吐き……」 「………………」 どうして、僕の心を乱すんだ。 これは、僕にしかできない役割だ。 有り余る力を君に捧げる。 それが、僕のすべて。 きっと、それで終わり。 それが、僕の生まれてきた理由。 だから、千尋が望む言葉はあげられない。 このまま、僕に絶望したらいい。嫌ってくれたらいい。憎んでくれたらいい。 そして、僕から離れてほしい。 「那岐……――」 涙交じりの声が、僕の名を呼ぶ。 僕は、答えられない。 それが、僕の答え。 FIN. 那岐ルートの玉座簒奪前 青灰の夜明けを聴いたら 2009/09/06 ≪ブラウザバック [*前へ][次へ#] |