文 天綻 「いいよ。行っていいんだよ」 ハトが豆鉄砲を食らったような顔ってきっとこんな顔だ。 普段感情を出さない柊が、ぽかんとしている。 「我が君…?」 私の言葉が、彼の知らない言葉だからだ。 彼は知らない。彼の知っているのは、ここで涙にくれる私の姿。 でも、私は知ってる。柊は、私を置いて運命を繰り返そうとしている。 禍津日神を倒しても、望みはかなわないから。 あなたが、心の底からほしいものは、また手に入らなかったから。 また運命を繰り返すのでしょう? 「やるべきことがあるんでしょう?」 この運命は、姉様と布都彦のお兄さんがいたから得た世界。 二人と出会って、柊は黒龍と対峙する運命を進めた。 二人を失って、柊は私を待っていた。 運命が動き出すあの日をずっと待ってた。 夕暮れの橿原で、私に会うことを。 私が、柊の運命の標だから。 姉様と布都彦のお兄さんが、柊の運命の標であるように変えることのできない標。 「これも既定伝承のひとつなのでしょうか…。いえ、そんなはずは――」 呟くように漏れた言葉に柊の本心が漏れている。 「私と柊が、二人で禍津日神を倒したように、まだ目にしていない既定伝承なのかもしれないよ」 星の数ほどある選択肢の中からどれかを選び、選んだ答えの組合せで未来が変わる。 流れはほとんど変わらないかもしれないけれど、こんなあなたの知らないやりとりだって起こるんだよ。 あなたが選んだ結果、姉様が選んだ結果、布都彦のお兄さんが選んだ結果。 そして、私が選んだ結果。 想いも言葉も行動も、何かが噛み合えば、今度は違う未来があなたを待っているかもしれないじゃない。 「変わることは瑣末なことです」 「それだけじゃないことも知ってるでしょ?」 「……そうですね」 あなたは気づいたはずだ。 見たことのない道筋を見たこの運命が、あなたに確信(希望)を持たせた。 既定伝承には、自分のまだ知らない道がある。 その中に、求める未来があるのかもしれない。 だから、あなたは私を置いていく。 絶望の中で見つけた望みが、運命を繰り返す道(痛みの中)へあなたを駆り立てる。 傷つきながら、あなたは何度もあの世界へ帰っていく――。 「我が君、名残惜しいですが御前を失礼いたします。叶うならば、あなたのおそばにずっといたかった」 うそつき。 いつも甘い言葉で私を困らせて、こんな時も私を突き落していくのね。 だから、泣かない。 私もうそつきだから。 「柊、約束してくれる?また、会いに来てくれるって」 「ええ。…我が君のお望みのままに」 差し出した指に絡められた柊の指が、掬いあげるように私の指を唇まで運んで口づけた。 甘い言葉を紡ぐ唇は、何も語らなくても私の胸を詰まらせた。 「確かに、お約束いたしました」 「約束だよ」 ふっと笑った柊は、春の風に吹かれた桜と共に、目の前から消えていった。 「―――約束だよ」 柊のいた虚空に、私はもう一度呟いた。 姉様と布都彦のお兄さんの幸せな運命を今度こそ探して――。 それがあなたの望み。 叶えば、あなたはきっとあの日の夕暮につながらない。 私を待っていてくれない。 姉様たちの運命が変わったら、あなたに私を待つ理由はないもの。 閉じた瞳の奥で、再会した日の夕焼けが胸に染みて行く。 舞い散る桜の中で、何かを堪えるように佇んでいた柊の姿は、一枚の絵のように美しく切なかった。 姉様たちを喪ったから、あなたは時空を超えて私に会いにきた。 もう一度、姉様たちを救うために。 誤ってしまった運命から二人を生かすために、 あなたは何度も何度も数えきれないくらいの二人との時間を超えて、私に出会って、帰っていく。 気の遠くなるような繰り返しの中、この時空で見つけた答えは神様の暗点かもしれない。 それでも、彼には十分だった。 きっと今頃は、足音も軽く黄泉路を進んでいるだろう。 二人の幸せな運命――。 それがあなたの望みなら、私も叶えたい。 虚空を見つめたままの私の頬に、吹かれてきた桜の花びらが、気まぐれに当たっては滑り落ちていった。 それはまるで、流れる涙のようだった。 遠くで、私を呼ぶ声が聞こえた。 官人たちが、私を探している。もう、宮に戻らなくてはいけない。 少しずつ近づいてくる足音を聞きながら、私は指切りをした指をそっと唇に押しあてた。 柊の温もりはすでにない。感じるのは自分の体温。 閉じた瞼に、初めて見た柊の顔が浮かんだ。 ねえ、柊。 夕暮れにつながらなくても、また会いに来てくれる?いつか、きっと。 20090607 ≪ブラウザバック。 [次へ#] |