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国主の館、白香城をぐるりと取り囲む城壁の突端にある鐘楼から、九つ半を知らせる鐘の音が聞こえてきた。



―――あ、もう?



ぼんやりと。
昼餉を済ませた後、窓の外、四角く切り取られた青い空を眺めていた煌は、いつまでも未練たらしく視線をさ迷わせる瞳をそこから引き剥がし、大きな書物卓へと向き直った。

もう下午の執務を始めなければならなかった。
のんびりゆったりしている暇などどこにもない、皆、軍の最高指揮官である自分の批准を待っている。
でなければ、軍は通常の訓練どころか兵糧すら糧倉から出ず、遠く国境を守る砦の兵達が餓える。


けれども。
そうと解っていても、煌の手も瞳も、卓に広げられた書の上を意味もなく行き来するだけで、心はまだ、春霞みの空の彼方にあるあの場所から戻ってこれそうにもなかった。


いけないいけない…といくら自分を律しても、最近、煌の心はあの場所をさ迷うようになっていた。


時は春。

いつもこの時期、風に春の匂いが混じり始める頃に。
先を競うように咲き乱れる華々の姿が煌の脳裏に蘇り、溢れて零れれば、心捕われ戻ることが出来なくなる。



―――もう、花蘇芳は咲いたかな…



匂い、色、姿はそれぞれで、どの花もいつだって煌を愉しませてくれたけれど、小さな蝶のような濃桃の花弁で樹木全体を覆いつくす花蘇芳が中でも煌の一番のお気に入りだった。


その花蘇芳は、おそらく今が盛りであろう。

あの花はいつだって煌の生まれた日の近くで満開になったのだから。

それをいつも楽しみにして、この時期だけは彼との約束がなくともあの場所を訪れたりしていた。


滝壷のすぐ傍、大きく枝葉を広げた花蘇芳を見に。



―――でもセイはいっつもいたっけ。



思い出して、煌は柔らかく相好を崩した。


今、思えば。
満開の花蘇芳を見に行くと、何故か間違いなくいつもセイも居た。

おそらく煌の単純な行動を推測するなど、頭の良いセイにとっては簡単だったに違いない。

だから最初のすれ違いが嘘のように、親しくなればなる程、約束の日以外でも煌が訪れればセイは必ず居てくれた。


*



※九つ半→午後1時


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