犬を抱き上げた時雨の親指は、痛々しく包帯が巻かれていた。
ソラ、と犬の名前を呼ぶ時雨の表情が優しかった。
「何もないとこだけど上がって」
時雨に連れてこられたのは、いま時雨が住んでいるというマンションの一室。中に入ると、時雨とは違う誰かの感じがした。
「昨日、総長君が家に来てて、なんだか家の中に総長君の匂いが残ってるみたいなんだ。いくら換気しても取れないから困ってるんだよ」
総長君というのは萩原のことか。いつかシメる。
「ふーん、そんなことより」
ここで何をしていたかは気になるが、どうせはぐらかされるのは分かっている。聞くだけ無駄だ。
「このマンション、ペット大丈夫なのか?」
「え、しらない」
やっぱりこいつ馬鹿だ。馬鹿は死なないと直らない、って時雨が死ぬのは嫌だ。やっぱり馬鹿なままでいい。
時雨は、抱いていた犬をそっとベッドに置く。何を考えているのか、多分何も考えていない犬は、誰かさんに似ているようなのん気な顔でそこにちょこんと座っている。
そしてその横に、のん気な顔で座る時雨。愛しそうに犬を撫でている。
俺は時雨の目の前、机の上に座る。
「ちゃんと下に座りなさい」
時雨の言うことは聞かない。
「それか私の隣に座る?」
そこで俺の中の何かが、ぷつんと切れた。
次の瞬間には時雨を押し倒していた。
「ベ、ベツヤク?」
時雨はなんとも思っていないような顔をしている。いつまでも俺が何もしないとでも思っているのだろうか。なんなら、今すぐここで犯してやってもいい。
どうせそんなことしても、時雨は何も思わないのだから。
前科があるからわかる。
「…シグレ」
強引に唇を奪って、時雨の舌を探る。息をしようとする時雨に対して、俺はそれを許さずに唇を塞いだ。
時雨の息が上がり、俺と時雨の口との間に銀の糸が引くまでそれを続けた。
「…ベツヤク、どうしたの」
と、言い終わる前に時雨の首に噛み付いた。
「いっ!」
その声を聞いて、あることを思い出してしまった。思い出したくもない、忌々しい記憶。誰もが耳を塞いだあの日。
『こうでもしないと、あいつは止まらないらしい』
そう言った時雨。その時の表情が、とても悲しかったから。
絶対に泣かなかった時雨が、とても痛々しかったから。
だからやめた。
時雨の首から口を離して、時雨を見下ろす。ふうと息を吐いている時雨。
「シグレ…お前」
何かを言おうとして止めた。言いたいことがありすぎて、頭の中がグチャグチャだ。口を閉ざして、ただ時雨を見下ろしていた。
「ベツヤク、相変わらずだよね」
時雨が苦笑ぎみでそう言う。
「まあ、それがベツヤクなんだけど」
でもどこか楽しそうだ。
さっき俺に何されそうになったかわっているのだろうかコイツは。
こういうところは昔から変わっていない。少しは危機感を持ったほうがいい。
もしくは、それほど安心してくれているということか。
…自惚れだ。
「ベツヤクー、重いから」
「いやだ」
「最後まで言わせ」
「だまれ」
黙った時雨に、軽くキスをする。
今日はこれくらいで許してやろうと思う。
「なあ、シグレ…夏休みが楽しみだよな?」
本人が知らないところで物事は進んでいるものだ。
今年の夏休み、とても楽しいことが始まる。でも、それはもう少し先の話。
「覚悟しとけ」
時雨の顔が引き攣った気がした。
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