鬼畜オオカミと蜂蜜ハニー(鈴編) ・ 隼人は息を呑み込んだ。 「只の夢よ。…ふふ」 隼人は、あずさに握られた右手を振り払う事が出来ずに、背筋に悪寒が走るのを感じていた。 「もう直ぐ素敵な事が起きるわ」 ベビーカーに乗せた子供をあやす夫人を遠くで見詰め、歌うようにあずさが話す。 「とても素敵な事よ?」 山野井あずさが行きたいと望んだのは、母校の大学だった。卒業してから一度も脚を運んで居なかったから、隼人は懐かしくて頬が緩んでしまう。 「ねえ、覚えている?」 今は授業中のせいか、周りにあまり学生が居ない。チラホラと木陰のベンチで、次の抗議を待つ者が読書や雑談をしている。 「何をです?」 あずさは中庭の階段を見下ろしながら、後方の隼人を一瞥する。悪戯を考え、種明かしをするように。 「前に研究で精子の凍結して、レポート書いたの覚えている?」 そういえばと、私はあぁと頷いて見せた。 「凍結させた物は、廃棄にしましたね。それが…」 そこまで云ってハッとなった。あずさが幸せそうに自身の腹を摩っていたからだ。 「……先輩?」 「私ね、欲しい物は何でも手に入っていたわ。でも…ひとつだけ手に入らなかった物が在る。あなたに抱かれて、あなたに恋する他の女性達に優越感を感じて、なのにひとつだけ手に入らなかった」 あずさがゆっくりと身体をこちらへ向ける。背後は階段だ。 「先輩、危ないからこちらへ。喫茶店へ行きますか? 美味しいパスタでも…」 気を逸らせようと、昔よく通った喫茶店へ誘う。 でも、それよりも知りたい事がある。耳の奥でドクドクと脈を打つ。腹の子は、もしかして。 「あなたの『心』が手に入らなかったの、どんなに望んでも」 「…先輩」 「それが、『あの子』を見るあなたを見て震えたわ。どうしてなの? 男の子でしょう? 弟なのよ?」 「先輩」 「汚らわしい、あの子が居るからあなたは間違った方向へ行ったのね。私があなたを助けてあげるわ。この子の為に」 あずさが隼人から腹の子に目線を移す。 「凍結させた『精子』は、私がこっそり持ち帰ったの」 「!?」 「あなたを諦めようとも考えたわ。でも駄目なの。夜の街中でタクシーに乗り込むあなた達を、偶然見てから。隼人はあぁ、この人しか居ないと思ったの。私も後を追ったわ。タクシーで。そしたら」 まさかと記憶を辿る。夜タクシーに乗ったのは、家族の顔合わせの夜の日だ。鈴が隼人の酒を飲んで酔っ払った日…。 「ラブホテルだなんて」 キッとあずさが隼人を見る。 「許さないわ、私あなたを待っていたのに」 「先輩?」 「復讐してあげる。永遠にあなたが苦しむ方法を考えたの。『凍結した精子』で上手く妊娠して、それからあなたの記憶に刻まれる方法を。ねぇ教えてあげるわ。お腹の子の父親。お腹の子供はあなたの子供よ隼人さん」 ふわりとあずさが後方の階段へ飛んだ。 「馬鹿な事は止めろ!」 隼人は手を差し伸べる。間に合わないっ! 遠くで何人もの悲鳴が聞こえる。 隼人の脳裏に過ぎった恋人の笑顔を最後に、隼人の意識がブラックアウトした。 小早川春臣から連絡を受けた疾風は、放課後慌てて里桜を生徒会へ呼びに走り、話を聞いて真っ青になった里桜が、今度は部活に出ていた鈴を放送室から呼び出した。その間、疾風が車の鍵を手に校庭に向かって叫んでた。 「りーーーーーんっ、車出すから早く来い!」 生徒達が驚いて振り返り、顧問も何事かと仰天する。 「なんだ?」 「…さあ」 剛が鈴に訊くが、鈴は不安になって疾風へ駆け寄る。もしかして薫に何かあったとか? 「隼人が病院に救急搬送された」 「えっ!?」 「よく解らんが親父が急いで来いと云ってるから、お前は里桜と俺の車まで急げ」 「わ、解った…」 [*前へ][次へ#] [戻る] |