MOON PRINCESS
月夜に濡れた風が吹く。
音の無い部屋は静寂を飛び越えて、一種の神域と見紛う程に。
音もそうだが、その部屋には色が無かった。
それも当然で、そこは灯りも付いていなければ時刻も深夜を指していたのだから。
だというのに、音と色が存在し得ないその世界は一瞬で変貌した。
――いや、そこは最初からそういった世界だった。
無音無色の世界であると、ただ自分が勘違いしていただけ。
音ならば風があった、色ならば眩い程の月明かりがそこにはあった。
月光色の、金砂のような髪が揺れる。
その様に見惚れた。
時間は凍結し、思考は切り取られ、ひたすらに何かを待ち望んでいる自分がそこにいた。
――きっと、あの少女は魔法の類でも使ったのだろう。
――――――――――――――
とある日のとある夜、僕こと綾崎ハヤテは勉強に勤しんでいた。
問一 以下の設問を解け。
[P≠NP予想とは計算複雑性理論におけるクラスPとクラスNPが等しくならないという予想である。これは現代数学上の未解決問題の一つだが、制限時間五分以内で証明せよ]
「………………………………………………あれ、なんだろこれ」
机の上にある一枚の紙。
自分が通っている高校から勉強用に貰った過去のテスト問題用紙。教科は数学。
その問題文の最初から最後に至るまで、その全てが意味不明であるが、しかし一つだけ理解出来たのが自身のキャパシティを大幅に超越している問題だという事。
――っていうか、それ以前に“現代数学上の未解決問題”とか言っちゃってるし。
そんなの、何かの拍子で解けちゃったら偉業だよ。ノーベルなんとか賞だよ
まったく、天才数学者でも輩出させようとしているのか白皇学院。
「……今日はこのくらいにして休もうかな」
どことなく投げやりな感じの呟きを漏らしてしまう。
ついさっきまでの勉強に対する集中力は大気圏辺りまで吹き飛んでしまったようだ。
現在時刻はとうに日付が変わって、深夜へと短針を刻んでいた。
あまり遅くまで勉強するのも明日の仕事に差し支えてしまうし、早めに寝た方が望ましいか。
そんな訳で、ペンを机に置いて勉強終了の合図。
イスから立って背伸びをしたら「ぬあぁ……」とか「うあぁ……」とかいう呻き声が出てしまった。
思ったよりも疲れているみたいだ。
「……お手洗い済ませて、早く寝よう」
言って、自室をあとにした。
――――――――――――――
お手洗いで早々に用を済ませ、ほんの少しだけ肌寒さを感じる廊下を歩いて自室へと向かっている。
夏も終わり、十月にさしかかった今日この頃。
最近になると、熱死するような暑さはほとんど消え失せ、季節の移り変わりを示す涼しさが肌で感じとれるようになってきた。
それは夜、まして深夜ともなれば一層涼しさは増す。
部屋への帰還途中、冷涼な廊下を歩いてたらそんな一夏の終わりを感じて、心中でしみじみと思った事がある。
秋だなあ、と。……若干、年寄り思考な気がしないでもないが、そこはまあなんて言うか軽く右か左に流してくれると嬉しい。
――話は少し変わるけど、この時期は月見をする季節で有名とされている。
それというのも、一年を通して月が最も綺麗に見える時期だからという事らしい。
確か、仲秋の名月って言ったような――まあ、どうでもいい話なんだけど。
「それはそうと、来週のテスト大丈夫かな……」
そう、そんな悠長に秋を語ってる場合ではないのだ自分は。
明日は土曜日、その次は日曜日、そのまた次は魔の白皇学院中間考査が待ち構えているのである。
「うん……ベストは尽くしてる筈だ」
――筈なのだが、やはり世の中にはどうしようもない事もある訳でして。
「結果よりも過程が大切だよ、いやホント」
良い言葉を言ってるようで、その実言い訳の塊に過ぎない。
結果をきちんと出してこその、光輝く過程だというのに。
「…………」
それなら自分はどうすればいいというのだろうか。
誰かに教えてもらう、は既に実行済みだし。
誠に申し訳ないとは分かっていながらも、年上で美人なメイドさんに家庭教師をしてもらっている。
……しかし、屋敷での仕事の合間にしか僕に教えるのは無理という事から、結果として勉強の効果は薄くなりがちに。
それは仕方ない。メイドさんにはヒマの二文字などなく、とても忙しいのだ。
ああ、どこかに頭が良くて普段は特にする事もなく部屋でゴロゴロしててヒマというヒマを持て余している奇跡な人はいないものか。
「……一人だけ、いるにはいるけど」
そうだ、奇跡な人が屋敷に一人いたんだった。
いやまて、何を考えてるんだ自分は。
それはプライドというものが跡形もなく崩壊する所業と知っての事かっ。
「プライドは大事だよ……プライドは」
誇りは大切にしなければ。
でもそれ以上に、テストで赤点を取らないようにする事の方を大切にすべきではないだろうか。
人としてのプライドを保つか、プライドをゴミ箱に廃棄して三つ年下の女の子に勉強を教え願うか。
「………………………………………………………早く部屋に戻ろう」
とりあえず究極の二択から逃げ出した。
どちらを選択しても大切な何かを失ってしまう気がする。故に究極。
そんな選択が出来る程の勇気が足りないチキン野郎こと僕、綾崎ハヤテは部屋へと向かう歩を速めた。
「……?」
しかし、次の瞬間に歩む足が止まってしまう。
「……居間の扉が、開いてる……?」
位置的には、自室とお手洗いの中間辺り。
居間の中へ通じる扉が半開きの状態になっていた。
誰かが閉め忘れただけの事に、わざわざ足を止める事もないのだけど。
……。
早いところ部屋に戻って寝ようと、気になった半開きの扉を閉める為にドアノブに手をかけた時、
「……誰か、居間の中に……」
自身に備わった気配感知能力が告げた。
ドア越しでもそれは判った、居間から人の気配がすると。
それが誰かなんて、考えるのは時間の無駄だ。
屋敷には自分以外に二人しか住んでないし、泥棒とかの第三者が外部からこの居間に到達するなど不可能に近い。
「……誰だろ、こんな時間に……」
閉じようとしたドア、力を籠める方向を逆転させ、開け放った。
――――――――――――――
今思えばあの時、頭のどこか奥底に予感があったんじゃないかと思う。
あの扉は開くべきではない、と。
その理由が解らないから、自分は開いてしまった。
今なら解る、何故開いてはいけなかったのかが。
――ただ、時間をあの直前にまで巻き戻せるとしても、自分は懲りもせずにあの扉の向こうへと足を運ぶだろう。
矛盾している。開いてはいけないのだろう? ならどうして開く。
決まっている、そんなの――
――――――――――――――
扉を開いた瞬間、文字通り時間が凍りついた。
音も色も無い世界に閉じ込められた感覚が自分を襲う。
静寂の無音も音として感じず、暗闇の黒さえ色として感じれなかった。
最初は周りの世界がおかしいのだと思った。
だけど違った、おかしいのは自分の方だ。
居間に張られた大きな窓は開いており、風が吹いていた。
その窓からは丸い月が部屋の中を灯していた。
音も色だってある、この世界は普通の筈だ。
それなら何故、自分はおかしくなっているのか、時間の流れの感覚が止まっているのだろうか。
――何故、どうして、なんで、原因は、理由は、根拠は――
そんな解りきった事を考えようとする辺り、自分は相当おかしくなってしまったようだ。
――何故? 綺麗だったからだろう。
――どうして? 見惚れていたからだろう。
――なんで? このまま時間が止まればいいと、お前自身が望んだからだろう。
見た事もない人がそこにいた。
窓から降り注ぐ月光を浴びた後ろ姿。
月明かりを飲み込んだ、流れるような金砂の髪。
ただ、綺麗だった。
「……………………ハヤテ?」
「っ――――!?」
名前を呼ばれた気がした。
「やっぱりハヤテだ。声くらいかけろよな、いきなり後ろにいたから心臓が飛び出るかと思ったぞ」
……誰だ。
…………知らない、自分はこの人とは会った事もない。
なのに何故、自分の名を知っている。
どうして、自分の名を呼ぶのだろう。
「……おい? どうした?」
近づいてくる。
「まさかお前……寝ぼけてるのか?」
何か、言っている。
「ハヤテに夢遊病のケがあったとはな。むふふ……これでもくらえっ」
……痛い。
何だか頬がとても痛い。
指で思いっきりつねられているような感じがする。
誰が、つねっている? 知らない……いや、知っているだろう。
そんな事をする人は一人しかいない筈だ。
思い出せ、お前は知っている。
――凍結した時間が、再び動き出した。
「い、いひゃいれす……お嬢さま……」
「あっ、起きたか?」
眼前の人物の名は三千院ナギ、自分が仕えるこの屋敷の主人。
確認するように、頭の中でそう繰り返した。
「ダメだぞハヤテ、寝ぼけて屋敷を徘徊するのは」
「…………」
「ん? その無反応さ……まだ寝ぼけているのか?」
「え……あ、いえ、そんな事はない、です」
「そうか? なんか目が虚ろだぞ?」
なるだけいつもの調子に戻そうとするも、それは少し無理みたいだ。
――そこにいたのは、紛れもなくいつも通りの少女だった。
窓から零れる月明かりに照らされて確認出来るそれは、毎日顔を合わせている屋敷の主人。
数時間前にも会ったその少女はなんて事もない、本当にいつも通りだった。
あれは、幻だったのか。
一瞬のようで永遠にも感じた時間の中で見た、あの幻想的な後ろ姿は――
「ふぇっ!? な、なんだよ……」
「……いつも通り、ですよね」
少女の顔をすぐ間近で見て確信する。
あれは幻だったと、深夜まで勉強したせいで疲れきった頭が見せた幻覚だったのだと。
「だ、大胆な奴めっ! こんな暗がりで顔を急接近させるなんて……ま、まあハヤテがその気なら私は別に構わないけど……」
「? あの、その気って何ですか?」
「そそそんなコト女の口から言わせるんじゃないっ! まったく、ハヤテはこれだから……」
ぶつぶつと、少女はよく分からない事を呟き出した。
まあ、それはいつもの事なので今更気にしても仕方がないけども。
「っていうか、お嬢さまはどうしてこんな夜遅くにこんな場所にいるんですか?」
「……へ? どうしてってそれは……」
自分から訊いておいてなんだけど、少女が口にする前にその理由が分かってしまった。
そういえば今日、この少女は学校から屋敷へと帰ってくるやいなや、それこそリニアモ―タ―カ―ばりのスピードでベッドインしていたのを思い出す。
それを思い出せればその後の展開など容易に想像出来る。
そう、少女は早寝をしたが為に深夜に目が冴えてしまったのだっ。
「ああ、なるほど……いつものパターンですね」
「い、いつものって言うな! ってか、分かってるなら最初から訊くな!」
「あはは、すみません。でも困りましたね、なんだか眠気とか全然無さそうですし」
「うむ、ベッドで毛布をかぶっても全く寝れなくてな。だからヒマ潰しにと思って月でも眺めに来たのだ」
今日は月が綺麗だからと、少女は言って、
「こうして月明かりを浴びてると、なんだか気持ちいいしな」
こちらを向いていた少女は反転して、窓の方へときびすを返した。
――途端、今まで雲でも陰っていたのか、月明かりが少女の行動に合わせるかのように輝きを増した。
「へえ、そうなん――」
――ですか。言葉は最後まで紡げず、途切れた。
ドクン。心臓の音が一度、大きく波打つ。
そこに、幻として消えた筈の光が舞い戻った。
まるで月の加護でも受けたような、そう思わせる程に綺麗な少女が、月を浴びている。
時間はもう一度、自分を置き去りにして固まってしまった――
「聞いた話じゃ月には不思議な力があるとかなんとか。そういえば昔話にもそんな感じのやつあったよな、えっと……かぐや姫だったか?」
少女は何か言っているようだが、全く聞こえない。
というより、自分自身聞こうとしていない。
耳を殺して、思考を消して、その分の全てを視覚に回そうとしている。
その、幻のような、怖いくらいに綺麗な月光色の後ろ姿を視界に留めようと――
「どっかの国では月の光は魔力と呼んでるらしいぞ。はは、それじゃ月からやって来たかぐや姫は魔法使いかなんかだったのかもな」
もう、幻かどうかなんて判らない。
そんな事、どうでもよくなってきた。
この部屋に入ってからおかしくなった自分。
夢か現実かの境界すら曖昧になりだす、この異常さを異常と思わなくなっている自分。
「なあ、ハヤテはどう思う?」
どうも思わない。おかしくなった自分など、どうにも思うものか。
ただこの光景がずっと続くなら、それでいい。
――そこから先の記憶は、頭から消え失せていた。
――――――――――――――
――そして、翌日。
「ハヤテ―、お腹減ったのだ―」
台所にエプロン姿で立つ自分の後ろに、腹部を押さえながらフラフラしている少女の姿が。
「…………………………え?」
少し、ぼ―っとしていた。
おかげで、少女が今何を言ったのか聞き取れない。
だけどなんとか理解する。その、お腹を押さえたいかにも空腹ですよ的な仕草をヒントにして。
「あ……もう少しで……出来ますよ?」
「もう少しってどれくらいだ?」
「二十分……くらいですね」
「ぬあああっ! に、二十分もこの激しい空腹の波と戦わねばならんのかっ……」
フラフラな佇まいをしていた少女は、近くの壁にへなへなともたれかかってゆく。
そこまでお腹が減っているのか。
……ん、そういえば冷蔵庫に昨日の残りのポテトサラダがあったような。
台所にある冷蔵庫を開けてみると記憶通りそこにはラップで包まれた、少女が望む完成された食べ物があった。
「ふおっ! な、なんだ、いいものがあるではないか!」
少女は落ち込んだ表情を一転させ、輝かせる。
それは良かったと、その食べ物が入っている皿を少女に差しだそうとして、
「………………ぁ」
ガチャン。
何かが落ちて割れた音。
足元を見やると、そこには粉々に砕け散った皿の破片、ぐちゃりと床と結合してしまったポテトサラダの無惨な姿。
「うわあああっ!? は、ハヤテっ! お前なに床に落としちゃってるのだ!!」
「……すみません」
「わ、私の……ポテトサラダがっ」
少女は絶句したのち、絶叫した。
それはそうだろう、空腹を満たすものが目の前で消えたら誰だって叫ぶ。
――それより、皿を落とすなんて何年ぶりだろう。
おかしいな、普段通りなら落とすなんて絶対にしないのに。
――ああ、そうか。僕は今、普段通りじゃないのか。
「……すみません、お嬢さま。急いでご飯作りますので……」
「……………………ハヤテ?」
「……はい?」
「どこか具合でも悪いのか? ……その、なんか元気が無いというか、ほけっとしてるというか」
「いえ……僕は、元気ですよ」
「むぅ……本当か〜?」
少女は心配そうな口調で、僕の顔を覗きこむ。
その距離というのが吐息を感じる程に近くて、
「――――っ! ほ、本当に大丈夫です! あの、ですから心配は無用ですっ」
言って、なかば無理やりに元気な仕草をしたりして少女を安心させようとする。
「まあ……なんだな、あまり無理とかはするなよ」
「……はい」
そうして、少女は台所から去っていった。
空腹はおさまったのだろうか。
――いや、そんな事より少女の顔が近づいたあの一瞬……。
――ダメだ、やっぱり自分は何かがおかしくなってる。
――――――――――――――
また、夜が来た。
自分の部屋から見た外の月は、昨日と同じで綺麗だ。
部屋を出て、廊下を歩いてゆく。
自分はどこを目指しているのか、自分は何を考えているのか。
知らなくても、解らなくてもこの先に行けば教えてくれるだろう。
――扉があった。
開いてはいけない扉が目の前に。
それなのに、自分はなんの躊躇いもなく眼前の扉を開け放とうとしていた。
開いてはいけないと解っている、ならばどうして開くのか。
決まっている、そんなの――
「おっ、また夢遊病にでもなったのか? ハヤテ」
逢いたいから、それだけ。
「今日も月、綺麗だぞ」
――ああ、綺麗だ。
「綺麗って……月、全然見てないじゃないかハヤテ」
――月なら、見ている。
「ん……? 月明かりしか無いからよく判らないけど、なんだか顔赤くないか? 風邪でもひいたか?」
とある、月夜が美しかった日の事。
――キミは魔法使いで、僕はワケの解らない魔法にかけられた。
―――――― END ――――――
あとがき
柚季さまのリクエスト小説
さて……管理人の迷走っぷりが実に顕著に出た作品となりましたが、読んでくれた皆さんはどう思ったでしょうか。
本当なら、これの五倍くらいの長さが必要なお話で、そこをなんとかコンパクトに短くした結果がこのザマです。
ハヤテ君がテストに悩んでいた件は一体どこにいったのかしら!? などなど、ツッコミ所が複数出現……。
分かってるなら直せよって話ですけどね、どうにも上手く書けないものです。
内容については、またもやハヤテ君がロリコンになっちゃうお話。
月の加護を受けたお嬢さまがハヤテ君にお仕置きします。
……マジメに説明すると、とある夜に居間を偶然通りかかったハヤテ君が、月光に照らされたお嬢さまの後ろ姿にホレてしまうという、なんとも日本の将来を憂うようなお話。
ちなみに、設定としてはこの先ハヤテ君の変化にお嬢さまは全然気がつきません。
ハヤテ君はハヤテ君でロリコン野郎になった事に苦悩する日々が続いて……なんて風に、そこからまたお話が進んでいく予定でしたが、とても長くなりそうなのであえなくボツに。
とまあ、そんなところです。
感想とかあったらよろしく!
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