綾崎ハヤテの日常
「それじゃハヤテ君、お買い物よろしくお願いしますね?」
メイドさんはそう言い、食材や日用品などが箇条書きされたメモと、それを購入する為のお金を僕に手渡した。
燦々とした太陽の光が頭上に降り注ぐ。
青々とした空には一点の淀みも無く、見る者の心が洗われるかのよう。
そんな快晴の天気。メイドさんは屋敷の玄関先から、笑顔でこちらに手を振っている。行ってらっしゃいと。
はい、行ってきます。
――おつかいの道中、その一。
綾崎ハヤテの日課、それは主に三つ。屋敷内の清掃、主人の給仕、それらに必要な買い出し。
三千院の屋敷は広い。その全てを一人でこなすのはとても無理だ。なので、普段はメイドさんと手分けして仕事をしている。
片方が掃除に専念している間に、もう片方がご飯を作ったり買い出しに行ったりと、そんな具合に。
今日は僕が買い出しの当番という訳だ。
「あのもしもし、お兄さん、ちょっと道を尋ねたいんだけどもねぇ」
屋敷を出てから五分程度だろうか。唐突に、道端でお婆さんに声をかけられた。
見ると、そのお婆さんの腰はそれはまあ見事に折れ曲がっており、右手に持っている杖はプルプル震えている。
優しそうで、人畜無害そうなお婆さんである。
僕は「分かりました、どこですか?」と言い、お婆さんの言葉に耳を傾けたのだが。
「輝ける明日っていうのは、一体どこにあるんだろうねぇ」
……。
陽光が眩しい。風も気持ちよくて、春だなあと思う。
とりあえず僕は「知りません」とだけ答えておく事にした。本当、力になれそうになくて自身の無力さを恥じるばかりだ。
僕は謝罪の意を込めてお婆さんに頭を下げる。
するとどういう訳だか、
「愚か者め。考える事を放棄したゴミはゴミらしく消えなさい。……これだからゆとりは。そんなんで理想郷にたどり着けると思ってるのかねぇ、最近の若いのは。ああ、ゆとりだから思っているんだろうさ。はああ……週休二日制に毒された世界のゴミクズが。恥を知れ恥を」
僕の耳がおかしいのだろうか? 幻聴が聞こえる。
そういえば昨日はあまり寝ていない。
体調は良好だと思っていたが、体は正直みたいだ。今日は無理しないで早めに寝よう。
下げていた頭を上げると、そこには本当に優しそうなお婆さんの笑顔が。
僕も笑顔で返し、買い出しの途中で止まっていた足を動かす。
――おつかいの道中、その二。
川沿いの通りに出た。
辺りには主婦らしき風貌が目立つ。もう少し歩けば商店街が姿を現す。皆、僕と同じようにそこに向かっているのだろう。
気候が春になって温暖な為か、河川敷では子供達が無邪気に走り回っている。
その光景を見てふと思う。平和とは、きっとこういう事なのだと。
「あーっ!? 見て見て! あれカッパだよ!」
「ほんとだ! すげー! しかも背泳ぎしてるぜ、気持ち悪っ!」
子供達が何事かを騒ぎ出した。下方の河川敷によく目を凝らすと、子供達が川を指差している。
その指先をたどって川の中心部を見てみた。
緑色ノナニカガ浮カンデイタ。
――否。泳いでいた。背泳ぎで。
その鮮やかなフォームは見る者の心を鷲掴みにし、その息を呑む速度は観客を総立ちにさせるかのよう。
だっていうのに、河川敷の子供達は嬉々とした表情で、その緑色の物体に石を投げつけ始めた。
やめてやめてと、緑色が泣いている。
「ねえねえ? あれ捕まえてさ、某大手のオークションサイトに出品しようよ! きっと高値が付くよ!」
「よっしゃ! だったらこの釣り竿で捕獲しようぜ!」
平和か……これでは仮初めの、と前置きせねばなるまい。まったく、今の日本は荒れてるぜっ。
いや、そんな事はどうでもいいのだ。
そろそろ急がないと屋敷に帰るのが遅くなってしまう。
メイドさんにお叱りを受けるのは好ましくはない。
視線はとっくに河川敷から外れていた。
――近所のスーパー、その一。
屋敷から十五分ほどで着いたスーパーの中は人でごった返していた。
時間帯がお昼という事もあり、建物内の人波に絶えは無い。
その隙間を縫うように進む。左手に買い物カゴ、右手に買い出し用のメモ。
必要な物を見つけては陳列棚からカゴへと商品を移していく。
メモに書かれた商品の半分を入れ終えた頃だろうか、陳列棚を挟んだ向こう側から店員の困惑したような声が。
「あ、あの、お客さん……? レジを通す前のお酒をここで飲むのはやめてくれませんか? ……他のお客さんの迷惑になりますから……」
「ぬぁにぃ!? 私の楽しい飲酒タイムを邪魔するとは貴様……どこの秘密結社だ!? けしからん! 私が貴様を退治してやる! ――説明しよう。桂雪路はアルコール度数の高い酒を過剰に摂取する事によって、アル中戦士カツーラに変身出来るのだ。くらえ、酒臭い息! ――説明しよう。酒臭い息とは、相手に様々なステータス異常を与える恐ろしい技で、」
……向こう側の陳列棚は確か酒類コーナーだったと思う。
誰かはもちろん知る由も無いが、そこにきっと、ダメな大人がいるのだろう。
僕は軽い溜め息をついて、残りの買い出しを終わらせようとこの場から移動する。
「どうだ、臭くて近寄れまい? くくく、この息はやがてスーパーの隅々にまで広まって主に新鮮な食材を傷めるだろう! 苦しむがいい……嘆くがいい……! これがアル中戦士カツーラの恐ろしさ……なの、だ? ……あ、あれ? なんでヒナがここにいるの? わ、私? いやいやいや! 誰にも迷惑なんかかけてないって! ほ、ほんとよ? お姉ちゃんの事信じられ――ぎゃああああああああああああああっ!?」
去り際、断末魔が聞こえた気がした。
――近所のスーパー、その二。
必要な物を全て買い揃え、レジの向こうで商品をビニール袋に詰める。
結構な重量になったそれを両手に下げる。
スーパーから出ると、道の片隅で誰かが口論していた。
「お客さん……いい加減認めてくださいよ。店の商品、盗ったでしょ?」
「だから知らないと言っています。私は神に仕える者、そんな浅ましい真似をする訳無いでしょう?」
丸眼鏡をかけた黒服の女性が、スーパーの男性店員と何やらもめている。
あれは……いつかのシスターじゃないか。
「あのね……私見てたんですよ? あなたが服の中に商品を隠すのを」
「それなら確かめてみればどうですか? ここで、この路上で、私の服を無惨に引き裂いて。さあさあ!」
「な、何を訳の解らない事を……いいからとりあえず事務所に、」
「いやああああああああ!? だ、誰か! この人チカンです! 私の修道服をビリビリに引き裂いて裾の長さをスカートみたいにしました!」
……なんて外道。あんたの修道服は最初からスカートみたいな裾でしょうが。それが僕の素直な感想だった。
この人通りの多い時間帯、周囲の目は彼女らへと一斉に集まる。
突然の出来事に狼狽するスーパーの店員と、まるで暴漢にでも襲われた素振りで地面に座りこむシスター。
一部始終を見ていない者なら抱く感想はおそらく皆、同じだろう。
まったく、どこまで堕ちれば気が済むのか、ソニア・シャフルナーズ。
――屋敷への帰り道。
治安の悪いスーパーを後にして、来た道を遡っていく。
川沿いの通りを同じように歩く。河川敷に子供達の姿は見られず、緑色の物体も無かった。
通りを抜ける。あともう少しで屋敷だ。
そこで、道の先に人影が見えた。あのお婆さんである。
お婆さんは先刻と変わらない位置で佇んでおり、こちらを凝視している。
……なんだろう? そう思いつつ、一応会釈をして通り過ぎた。
もう屋敷は目と鼻の先。
――ふと、後ろが気になって振り返ってみた。何故気になったのか、理由はよく解らない。
お婆さんは相変わらず、こちらをじいぃ……と凝視している。
すると突然、眩い光がお婆さんを包み始めた。
ご老人の十メートルくらい上空に、謎の円盤が出現。
その浮遊物はフォンフォンと音を立てて、光に包まれたお婆さんを吸い上げてゆく。
……ああ。ほんと疲れているんだな、僕。
――おつかい終了、屋敷へ帰還。
「お? やっと帰ったかハヤテ! 今、某大手のオークションサイトを見てたんだけどさ、これまたすごいのが出品されてるんだ! ぜひ落札したいのだが、ハヤテはどう思う?」
僕は一言、やめてくださいとだけ言う。
綾崎ハヤテの日常、こんな感じです。
END.
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