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T-A



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 カチカチと、時計の針の進む音がする。静寂の支配する部屋の中、規則正しいそれは乾いた音を刻み込んでいく。
 その音はあまり好きではなかった。融通の利かなさ、空気の読めないところが特に。この音はどんな状況下においても変わる事のない不変の象徴である。例えば明日、学校の給食が大嫌いな野菜で敷き詰められると事前に理解していてもこの音はお構いなしに水平線の底から明日ってやつを引き連れてくる。その名無しの権兵衛くんは何度だって布団の中で願った筈なのだ、時間よ止まれと。だが彼は魔法使いではないので翌日には「食べ終わるまで昼休みはナシです」と担任教師に宣告され、クラスメイトから嘲笑混じりに後ろ指を刺されるという公開処刑の中で涙を堪える事しか出来ないのだ。可哀想な権兵衛くん。
 兎にも角にも時計の針というものは止まる事を知らない。速くも遅くもならない。向きを逆さにする事もなく、ただ前へと進むのみ。楽しい事や辛い事があっても融通は利かない。ただただ一定のリズムで、たとえ明日この世界が滅びると知ったとしても刻み続けるだろう。そこになんの感情も無く、神さまの創ったシステムに従ったその音が私は嫌いだった。
 大切な人を亡くした時、戻れと願った。涙が止まらなかった夜、忘れるほど早く進めと願った。恋した人の隣に立った時、このまま止まれと願った。その、ただの一度も願いを叶えてくれなかった時計の針が今、目の前にある。

「────くそ、寝坊か。私とした事が」

 ベッドにうつ伏せのまま、毛布を頭まで被った状態の私はアラームをセットし忘れた目覚まし時計を睨み続ける。時刻は朝の七時を少し過ぎた辺りを示していた。
 はあ、と深いため息を吐き終えてから身体を起こす。眠気は不思議と無い。寝坊という事態を言い換えれば限界まで睡眠を堪能した、となるので不思議でもなんでもないのだけれど。

「寒すぎるだろ・・・春とはいったい。うごごご」

 謎の力に飲み込まれそうになるが、別に光の戦士達に追い詰められた訳ではない。寒いのだ。
 寝起きというのもあるが、寝室の気温はお世辞にも春とはかけ離れた冬のそれだ。気怠くもベッドから抜け出す。髪は崩れてボサボサ、上下ジャージ姿の私は悲しいくらいに色気がなく、部屋の片隅にある姿見に映る自分にもう一度ため息が出た。透けているネグリジェでも着てたら少しは違うのだろうかと思案しかけるが首を振って終わりにした。

「二十歳になっても昔と容姿が変わらないお前に色気など不要。これからもジャージを愛し続けてみせよう」

 鏡の自分にそう言われて酷く虚しい気分に陥るのだが、決して現実から逃げてはならないという強い意志も芽生えているような、そうでもないような。
 全く変わらない容姿、というのもいささか言い過ぎのきらいもあるのだが適当な表現である事も確かなのだ。とうに成長期の終焉を迎えた身体はおそらく年相応というにはあまりにも無理がある程に貧相な具合である。身長は大方の予想通りに伸び悩み、発育の良い中学生には負けてしまうだろう。胸は多少の膨らみをみせた程度で肩こりとは一生無縁である事はもはや疑いようもない。顔は相変わらず無愛想なまま、社会に対して何か不満を募らせているような目つきも成人を迎えたとて変化は見られなかった。
 悲しい。簡潔に一言で自分を言い表すのならそれが妥当な言葉だ。一言だけで表せてしまう事がまた更に悲しい。
 私────三千院ナギにはおそらく身体の成長を止める魔法でもかかっているのだろう。毒リンゴを手にした魔法使いに恨みを買われるような憶えは無いのだが。

「普通なら得難いアドバンテージを手にしている、とも言えなくもないが。・・・まあ、あいつが救いようのない重度のロリコンな場合に限るけども」

 姿見から離れ、慣れた手つきで早々と髪を櫛でとくと腰まで伸びた髪を二つの髪留めで左右に分ける。
 身支度を終えて部屋を出ようとした矢先、控えめな大きさのノック音が二回響いた。

「お嬢さま。朝ごはんの用意が出来ましたよ」

 七年。なんの変哲もない寂れた公園で出逢ってから流れた歳月。七年間、毎日聞いてきたその優しい声色に私は今日も自然と頬が緩む。

「ああ、分かった」

 緩んだ表情を急いで仏頂面に戻し、寝坊した言い訳を考えながら部屋の扉を開けた。



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 長い廊下を歩いている。歩く左側は全てガラス張りで太陽の登る方角と同じという事から私の横顔は朝陽に照らされ、反対側の壁に影を灯す。動く影は二つ、私ともう一人分。

「お嬢さまが寝坊なんて久しぶりですね」
「ん・・・まあそうだな、そんな日もある」

 執事────綾崎ハヤテは私の右隣に並んで歩いている。

「少し前までは毎日のように飽きもせず、寝坊するのが自分の仕事だとでも言わんばかりな寝坊っぷりだったんですけどね。いつからか全くと言っていい程しなくなりましたから凄く新鮮で」

 酷い言い草が混ぜられた気もするが流しておく。

「いつからか、じゃないだろ。料理をおまえに習い始めた時からだ」
「あっ、そう言われてみればそうですね」

 料理。主に包丁や鍋を用いて食材を加工、熱処理などを経てみなさんの食卓の皿の上に乗せるまでの行程および作業を指す言葉な訳だが、私はここ数年、毎朝欠かさず朝食を作っている。

「天変地異というか、アルマゲドンというか。お嬢さまが僕に料理を習いたいって言い出した時はこの世の終末がついに訪れたのかなって思いましたよ。一瞬窓の外を見ましたもん、光の巨人が七日かけて世界を焼き尽くそうとしてないか」

 右ストレートが綺麗に決まった。

「・・・痛いです、お嬢さま」
「痛いか? 殴られたらそりゃ痛いだろうがな、ハヤテ。殴る方はそれ以上に痛いのだ。拳がじゃない、心がだ。それでもやらなければならない時ってのがあるんだよ。それが今で、だから私はおまえを殴る」
「せ、青春ってやつですか・・・?」
「そう、青春だな」

 熱苦しいやりとりを外気温が十度以下の早朝にこなしてみるが、やはり寒いものは寒いままでなんの変化も見られなかった。
 執事は涙目で頬をさすりながらも私の歩調に合わせて隣を歩き続ける。
 出逢ってから七年。十三歳だった私は成人を迎え、この隣にいる男は二十三歳になった。横顔を見る。中性的な顔立ちは変わらずだが背丈などの体つきは充分に大人のそれで、口調などの雰囲気も出逢った頃のものと比べると落ち着きを感じさせるところがある。
 成長の振り幅の大きさが私とあまりにも違い過ぎて、今もこうして横顔を眺めてみる度に不機嫌顔になってしまう自分がいるのだけれど──────

「? どうかしました?」

 視線に気付き、首を少し傾げた後に頬を緩めて「えへへ」と可愛らしく微笑んでくる執事。

「──────っ、なんでもない」

 その笑顔は私の好みなんです、などという背中が痒くなってきそうな台詞をさらりと言えるはずもなく、しかし本音である事は疑いようもないその心情は私の顔を紅潮させるに至り、幸いにも朝の日差しのおかげで隣の男には気付かれていない。
 七年。それは私と彼が出逢ってから過ごしてきた時間であると同時、三千院ナギの初恋が継続している期間でもあった。我ながら、奥手にも程があると思う。一つ屋根の下で健康な男女が衣食住を共に、そんな状況が何年も続いているというのに何一つ関係性に進展が皆無というのはいかがなものだろう。
 あれか、あれなのか三千院ナギ。おまえは格闘家が対戦前の記者会見でよくやる、パフォーマンスというかその・・・対戦相手を煽る時に握りしめて喰われるあれなんだろう?

「誰がチキンだ。黙れ、心の中の私」
「えぇっ!? 急に独り言を・・・お嬢さま、気を確かに」

 などと心配してくる執事を無視して溜息を吐かざるを得ない。
 進展が無い。それは行動を起こさない私の気持ちだけが問題ではなく、何も間違いが起こらないほどに魅力を持たない三千院ナギという人間そのものに問題があるのだろう。悲しい事だが。

「ああ・・・駄目だ。なんというか、今日はもう駄目な気がする。うん、寝よう」
「あっ、ちょっと、お嬢さまっ」

 思い立ち、歩みを急停止した後に来た道を戻ろうと身体の向きを反転させたところで、手を掴まれてしまう。

「・・・ぁ、手」
「ほらほら、せっかく作った朝食が台無しになってしまいますから」

 どうしようもない子供のわがままを制する時の親のような表情で、ハヤテは私の手を握って引いてゆく。
 昔はよく繋いでいたように思うがある程度の年月が経ってからはそんな事は無くなり、その温もりに対する免疫はとうに消えたというのに、これである。
 頭の先から蒸気が出ているのが判る。何かしら訴えかけようとするも、唇はぱくぱくと上下運動を行うのみで声が挙がる気配が見られない。胸の動悸は非常に煩く、繋がっている掌からは汗が滲んでいた。まるっきり行き遅れた童貞の反応そのものである。いや間違えた、処─────

「朝食を作るの本当に久しぶりでしたからね─、今朝はとっても気合いを入れたんですよ?」
「そ、そっか・・・えっと、その・・・手がな、ハヤテ」
「きっとお嬢さまは満足してくれるかなって、だから」
「・・・・・・う、うん」

 味噌汁の出汁が絶妙なバランスで取れただの、魚の味付けが奇跡の塩加減だのと、朝食の出来具合を語り私を二度寝させまいと奮闘しているのは分かる。・・・分かるのだが私は今、正直それどころではない。蒸気は出るわ、顔は赤になるわ、手は微かに震え出すわで今すぐにでもベッドに潜り直したい気分まっしぐらだというのに。
 握られた手が、今朝の肌寒さとはあまりにも対照的なその温度が私の逃避行を制する。
 七年間、募らせ続けているこの恋は、どういう訳なのか日を追うごとにその耐性を失っていっているように感じてならない。少なくとも、最初の頃は手を繋いだ程度でここまで酷い有様にはならなかったはずなのだ。
 もう二十歳だというのに。酒や煙草を飲んでも吸っても法律的になんら問題のない年齢に達したというのにも関わらず、何故に今更こんな、花も恥じらうような乙女みたいに成り下がる自分がいるのか。
 ──────そんな事を悶々と、延々と考えながら温かい手に引かれている間に、長い廊下は終わりを告げていた。

 扉の前に立つ。
 自分の背丈の倍以上、重量のある扉が開け放たれる。その向う側に、私達二人以外の誰かがいない事は開ける前から既に知っている。
 親代わりのメイドも、影の薄い老執事も、可愛いペット達も誰もいないその場所。使用人さえ一人も残っていないこの屋敷、三千院邸。
 音の消えた家。人が住まなくなれば家というものは温度が抜けていくと、誰かが言っていた。確かにそうなのだと思う。今朝の季節外れの寒さを抜きにしても、この屋敷にはもうかつての温度は無いように感じる。考えてしまえば寂しさを感じるし、気分も落ち込んだりしてしまう。
 ──────ただ、それでも。

「・・・うぅ、主人をこんなにも辱めるとは・・・・・・いけない執事だ」

 この手の温もりがあればそれで充分なのだと、手を握り返しながら私は思う。
 廊下のガラス窓の縁に小鳥が数羽止まり、口ばしで小突いてくる。今年も訪れた四季の始めの春。
 特に語るべき事もない、変哲のない日常。明日もその次も、変わらぬ朝がやって来る事になんの疑いも持たない。
 私と彼との間には絶対不変の約束があるのだから──────そんな言葉を胸に、私はうっかり緩んだ頬を不機嫌顔に戻すのを忘れてしまっていた。



to be contained,

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