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 もう何年も前の出来事。僕が両親に捨てられた日を思い出す。
 特に何か素行が悪かった訳ではなく、彼らに嫌われるような事をしでかしたのでもない。求められている何かをこなせなかったからなのだろうか、あるいは世間一般の家族という価値観を始めから持ち合わせていなかったのかもしれない。とにかくそこに人らしいまともな感情は無かっただろう。僕という使い古した粗大ゴミを、収集日も守る事なく路上に放っていっただけ。きっとそれが全てで、そういう人種は確かに在るんだという話。語るに長くはかからず、思い出というにも味気ないものだ。彼らに感情が無かったように、その受けた行為に対する僕の感情も同様で今更何か文句を吐きたいつもりはない。
 でも不思議と、かつて親であったモノ達にもう一度会ってみたいという気持ちが今はある。一つだけ言っておきたい言葉が出来たからだ。「貴方達の息子は人を殺してしまいました」と、返ってくるのはおそらく無関心の類に違いはないのだろうが、別に何かの反応を期待しているのではなくてこれはあくまで報告なのだ。僕はただの屑でしたと。ゴミは所詮ゴミしか産みだす事が叶わないというごく普通の、当たり前過ぎる当たり前を。

"ハヤテはほんとに凄いな"

 こんな言葉を何回も聞いた。

"ピンチに必ず来てくれる。おまえは私のヒーローだ"

 こうも言われた気がする。違うんだ。僕は何一つ凄くない。確かにそう思われるような行動を見せた事はある。それが仕事だったからそうしたに過ぎなくて、でも彼女の目に僕はとても輝いて見えたのかもしれない。そんな僕の事を自慢気に誰かに話している時は、恥ずかしさよりも嬉しさが勝っていたようにも思う。"次も頑張ろう"と、ロクでも無い人間なりに普通の、普通以上の人間で在り続けようと思えたのは他ならない、三千院ナギという少女の笑顔の為。
 その信念を支えていたのが彼女の笑顔なら、それを崩したのはなんだという話になる。何故、こんな事になってしまったのか。この右手はどんな経緯があって彼女の未来を全て奪えてしまったのか、その原因。結論から先に言えば僕は何も知らない。自分で殺しておいて何を言うのかと、他人からしてみればそう思われるかもしれない。別にとぼけている訳でも、罪を棚上げにするつもりもない。ただ一つ、嘘偽りのない事実として僕は述べるしかない。何も知らない、と。
 知らないからこそ、こんな事になった。きっとそれが全ての原因。僕は三千院ナギの事を何も知らなかったんだ。知ろうともせずに、ただただ自分の事だけが大切だった。

「ごめん。ここにきてまだ・・・君の事、何も解ってないよ」

 冷たい土の温度を背に感じながら、ぼやけた視界が晴天の色に染まっていく。急激な光の強さに手で遮ると、昨夜の傷が光の温度でじわりと痛んだ。
 どうやら自分は昨夜の気絶から今まで眠りこけていたようだ。少しだけ昔の事を思い出していたように思うが、痛む箇所を無視して身体を起こす。瓦礫の撤去作業の続きをしなければならない。この廃墟と化した三千院邸、その瓦礫の下で彼女が助けを求めているという可能性。それが僅かでもある限り休む事は許されない。

「・・・でも、会えたら僕は」

 瓦礫の山の上に登ろうと、屋敷の破片に手を置いたところで手が止まる。開いた傷口が無機物の上で赤黒い染みを作っていた。
 ────人殺しが、殺した相手に再び会う。そのあまりに矛盾にまみれた、気持ちの悪い響きが頭の中へとどろりと流れ込み、否応なく僕の動かそうとする手を縛る。

「はは・・・あはは・・・結局僕は、自分の事しか考えられないんだな」

 一瞬手を止めた。どうやら僕は"助けた後"の心配を心の何処かでしているようだ。どうしようもない屑だ。
 壊れたような小さな笑いが滲み出てくる。今しがたどけた瓦礫に混ざっていたガラス片に手を盛大に刻まれるが、もう既に感覚が失せてしまっていた。全ての瓦礫の下を確認し終わるまで、果たして僕の身体は保つのだろうか。瓦礫の量と出血量の割がとても合わないように思うけれど。

「あの親達の方がマシな人間だったのかも・・・しれないな」

 そう吐き捨てて、また一つ瓦礫の塊を両手で掴んで放り投げたその時。不安定な足場の一部が崩れ、視界が反転した。どうやら自分は頭から瓦礫の下部へ落下しているらしい。もともと体は頑丈な方だから衝撃に備えていれば良いと思ったけれど、なにやら落下地点には剥き出しの鉄骨が槍のような刃先をこちらに向けている。
 ああこれは死んだなと、あまりのあっけなさに感情さえついてこれない中で僕はもう一度「ごめん」と言っていたように思う。

「死ぬのはまあ勝手なんだけどね、その死に方は流石にセンスが無いと思うんだ」

 槍状の鉄骨が脳天に突き刺さるまさに一歩手前で、僕の体は文字通りに空中で静止していた。逆さまの視界に映るのは瓦礫の頂上に立つ銀髪の女性。使い古されたジーンズに白無地のTシャツ、そんな服装からはごく普通の女性にしか見えないがその紅い眼から放たれる強烈な威圧は普通のそれではない。
 彼女は気怠そうに煙草を咥えながら、呆れを含んだ深い溜息を僕に向けて言う。

「せめてさ、あのちびっ子にもう一度会って何かしら話してから死になさいよ。そうする事が君の役割ってやつなんだ。分かる?」

 静止していた体が物理法則に反して真横に吹き飛び、受け身を許さないまま瓦礫の中腹に背中から叩きつけられる。

「ぅあ・・・ッ!」
「三千院ナギなら今、西沢歩の家に居候している。ここで何ヶ月撤去作業を続けようが会えはしない」

 身体を縛っていた見えない拘束具が解かれ、引力に従って瓦礫の傾斜を転げ落ちながら魔法使いの言葉に目を見開いた。

「それは・・・本当、ですか・・・?」
「ああ。特別大サービスで私が殺し屋共から守ってやった。無傷でピンピンしているよ」

 本来なら信じるべき相手ではない。その言葉をすぐさま鵜呑みにするほど単純な性格でもないはずなのに。
 何よりも欲していた言葉を自分以外の誰かが口にした。その誰かが何者かではない、絶望しかないこの瓦礫の山々を前に連想してしまう最悪の事態。それを否定する言葉だけで信じてしまえる。今の僕なら子供の簡単な嘘にすら騙される自信さえあった。

「ありがとう・・・ございます」

 嘘偽りのない、心からの感謝の言葉。魔法使いは特に反応も示さず、咥えた煙草を瓦礫の下に捨てる。この場を立ち去る意図が見えたのでその前に、

「あの、」
「なんだ」
「殺し屋って言ってましたけど、雇ったのが何処の誰かは分かりますか?」

 地面に尻餅をついた姿勢から発した僕の言葉に魔法使いは少し怪訝そうに首を傾げてみせた。

「分かるが、だったらどうする?」
「教えてください」
「何故?」
「殺しにいきますから」

 殺す、とあまりにも自然に口から飛び出したその言葉に、言った後で少し戸惑いを覚えたがすぐに消える。その異常性さえ、僕にはもう関心の無い些末な事だった。
 魔法使いが少し呆けた表情をしてこちらを見る。それも束の間、徐々に口端が緩み始めて面白いものを見つけでもしたかのような表情へ。

「ふーん? ちょっと興味あるなぁ」

 瓦礫の頂上から僕のいる地面へと、3階建ての建造物の高さはあろうかという差分を軽く跳躍してみせる魔法使い。着地に不自然なほど音を含ませない。

「結論からいうと三千院ナギに殺し屋を差し向けた奴は私が殺っちゃったんだ。ごめんね」

 槍で何度も突いたとか最終的には燃えただとか要らない詳細を織り交ぜつつ、彼女は本題を持ちかける。

「それはそれとして、だ。君は今、そいつを殺すと言ったな。それってさ、つまり三千院ナギの為って事なの?」

 僕は黙って頷き、魔法使いは続ける。

「それじゃ"憎しみ"は消えたんだ。うーん、案外早かったなぁ・・・そういうものなんだろうか?」

 その言葉で僕はある事を理解する。この魔法使いはおそらく"全て"を知っているのだと。僕はきっと"全て"の一歩手前止まり────ならばこの魔法使いから引き出せるかもと、僕は上手く動かせない四肢を半ば強引に立たせて、一つの答え合わせをしてみる事にした。

「消えるも何も、全部嘘だったんだ」

 そう、全部。あらゆる全て、その何もかもが。
 顎に手を当て、何かしら考えこんでいた魔法使いが僕の言葉を聞いた途端、こちらを凝視する。驚いていたのだろう、何も知らないと思い込んでいた僕が唐突に"答え"を口にしたのだ。必然と言える。

「お嬢さまの自作自演、そして僕がまんまとそれに引っかかった。・・・難しい事なんてない。終わって振り返れば、これはそれだけの話なんだ」

 後に残ったのは表現し尽くせないほど激しい後悔の念と、自己嫌悪の嵐。そこに、偽物の憎しみなど残る余地が無いんだ。

「あはっ」

 その表情からはとても楽しそうだなという印象しか受けない。何より場違いな拍手喝采を僕は受けているから。

「これは予想外だ! ただの頭の悪い朴念仁かなんかだと思っていたのに! なんだよもう、おねーさん一本取られちゃったなぁ」

 予想外。そう口にしたという事はこの展開が魔法使いの意にそぐわないものである────事にはならないのかもしれない。根拠は何よりもその楽しそうな笑顔だ。きっとこれは彼女にとって嬉しい誤算なのだろう。

「そうか、君はそこに気付くのか。なるほどなるほど・・・でもどの時点でだ? ナギお嬢さまはアレはアレで用意周到だったから気付くのは至難、というか途中でバレてたらそもそも刺しはしないのか。つまり」

 途中から独り言と化していたが、それでも魔法使いは勝手に疑問を解決へと導いていた。

「刺した後だな」

 正解かどうかを僕の顔を窺う形で問いかけられたが、僕は俯いて目を合わせないようにする。それが肯定を表す動作だという事に気付いて顔を戻した時には、彼女はもう納得済みという表情に変わっていた。

「その後に、」
「笑ってたんだ。とても、安心したように」

 魔法使いの回答を遮る形で、答えを自分で言ってしまう事にした。彼女は少し不満気な顔をしていたが気にはしない。

「刺した後はもちろん動揺してた。憎しみがその瞬間に消えた訳でもない。────でも、その笑顔でなんとなく気付いたよ。お嬢さまがヒナギクさんをどうにかする気なんて始めから無かったんだって事は」

 右手を見る。いつの間にか震えていた。もう二度と忘れる事はないだろう、身体ではなく魂に深く刻まれた命を潰す感触が今でも鮮明に。

「僕に、殺されに来たんだ」

 これが僕の辿り着いた一つの答え。きっと間違えてはいない。もしも間違えているのなら今頃僕は盛大に笑われているはずなんだ。笑い声は起きず、魔法使いは二本目の煙草に火を灯す。

「驚いたな。その口振りだと"プレゼント"の件も片付いているのか」

 プレゼント。その微妙な言い回しに数瞬遅れて思い至る。僕は無言で返した。

「・・・でも、今になってもまだ解らないんだ。肝心な事を何も」
「殺されにきた理由ってやつ? まあそりゃ君には解らないだろうさ」

 薄ら笑いを浮かべながら、当然だと断言するような物言いで魔法使いは首を横に振る。

「愛が無ければ視えない。君の言う理由ってのはそういう類いの代物だったからね」

 愛。おそらく自分が持ち合わせていない、あまりにも難しくて遠い言葉のように思えた。だがそれが無ければ届かないと魔法使いは言う。

「まあ今更知ったところでどうにかなる訳でもない。もう終わった事さ。────最愛の人に殺されてあの子の心ってやつは見るも無惨にぶっ壊れた。本人に自覚は無いみたいだけどね」

 ・・・目眩がする。眼前の風景が全て、熱した金属のようにぐにゃりと溶けて歪んだ気がした。
 "そう"じゃなければ良かった。でもやっぱり"そう"なのだと、まるでどうでもいいとでも言わんばかりの口調で魔法使いは告げる。最悪を通り越して残酷。彼女が味わったであろう痛みは、既に僕の理解の外に位置していた。

「ああ、つい口が滑っちゃった。ごめんね、ナギお嬢さま」

 言葉とは裏腹に決して悪びれる事なく、

「君が初恋だったみたいよ? まあ失恋ってのは何処にでも転がってる話ではあるんだけども。想いを相手に伝えるどころか刺し殺される初恋なんて衝撃を通り越してさ、なんかもう笑っちゃうよね。馬鹿と不器用もここまで来ると国宝級か」

 おそらくは三千院ナギが一生胸の内に秘めておくと決めていたであろう事を、軽い笑いと共に目の前の女は僕に晒け出してくる。
 一体どこの何がそんなに面白いのかと、下げた両手は自然と握り拳を作っていたが反論が出来ない。許されない。彼女を馬鹿にするなと、喉元までせり上がったその言葉は、彼女の想いを一番コケにしたお前がそれを言うのかという言葉にせき止められてしまう。
 ただただ情けなくて、彼女が馬鹿にされるのを眺めている事しか出来ない現実。だけどそれでも僕の身体は反射的に、傍観を決め込む事を拒絶したのだった。

「────おいおい。こんな美人をつかまえておいていきなり殴りかかるなんて悪い冗談だよ?」
「・・・お嬢さまを生き返らせてくれた事、色々と助けてくれた事、とても感謝してます。でも」

 相手が女性だからという常識を完全に無視した全力の拳は魔法使いの頬に届く事はなく、透明な金属の壁のような何かの前に沈黙する。続いて当然のごとく右拳の皮膚が破裂し、微量の血飛沫が見えない壁に沿って空中に張り付いていた。

「今すぐ、僕の前から消えろ」

 嘘偽りない感謝とその上に被せたありったけの敵意と殺意を込めた視線を、突き出したままの拳の先にいる女に向けて吐き捨てる。
 三千院ナギが何故に一年前の夜、ひいてはそこに至る過程で"あんな行動"を取ったのか。僕には解らない。魔法使いの言葉をそのまま鵜呑みにするのならそれは愛が無いから、綾崎ハヤテは愛という感情を持たないからそこに辿り着けなかったのだと。
 だけど一つだけ解る事があった。彼女は昔からよく物事を一人で抱え込む癖がある。それは意地っ張りな性格からか、他人に迷惑をかけるのを嫌う優しい性格からなのか、もしくはその両方か。なんにせよ、彼女はとても考えたはずなんだ。考え無しで何かの行動を起こす人では決してない。
 一所懸命に考えて、悩んで、きっと"何か"と闘った上で彼女なりに精一杯絞り出した答えが"綾崎ハヤテに殺される事"だったのではないか。
 これは勝手な僕の妄想に過ぎないのかもしれない。でもそうなのだとしたら────そう思うからこそ魔法使いの言葉が、彼女の行動を馬鹿と一笑に伏したのがどうしても我慢ならない。

 それと、

「言われなくても消えてあげるよ。っていうかそろそろ離さないとその右手、一生使い物にならなくなるかも」

 魔法使いの言う通りに僕の右拳、その透明な壁との接触面から肉の焦げた臭いがする。人知を超えた不思議な力によって造られた壁は、触れたものを破壊する機能でも備わっているようだ。

「構わない。お嬢さまの全部を奪った右手、無い方がマシだ」

 それと、どうしようもないこんな僕をあの人は長い間ずっと想い、慕ってくれていたらしい。そんな彼女を馬鹿にしたこいつを許せる筈がないだろう────そう口にする権利も、その感情を浮かべる事すら僕はしちゃいけないのだと思う。それ程の過ちを僕は犯した。三千院ナギを最も否定し、命まで踏みにじったのは他ならぬ僕自身だ。その僕による矛盾に塗れた感情と行動は滑稽というよりも、やはり悪という言葉がお似合いなのだけれど。

「・・・悪なら悪らしく、これから色んな物を失っていくさ。矛盾だらけで、正しい事なんて何も出来ない。そうだ、僕は始めからそういう人間だった」

 軸足に力を込め、血濡れの拳を更に握る。迸る電光。吹き出す血はその瞬間に沸騰し、蒸発しているように見える。裂傷は拳から腕へと拡大し、魔法使いの言葉通りに右手は確実に死へと向かっていた。

「だけど今のこの気持ちは──────あの人を悪く言ったあなたを許せないって気持ちだけは本物なんだ!!」

 幸か不幸か、瓦礫の撤去作業で既に感覚が失せている右手は痛みを感じる事なく、回転するミキサーに手を突っ込むのと同等の行為をなおも続けていられる。その先で支払う代償は五体の一部の機能を永遠に失うというもの。それを天秤にかけてみても、今の僕には紙切れ以上の重さを感じる事が出来なかった。
 本当に、僕はこれから色々と失っていくのだと思う。この右腕のように自分自身に価値を見出せなくなって、そして三千院ナギの存在が何よりも重いものと化していく。
 本当に大切なものが何か気付いた時、人は多分、それ以外の全てを簡単に投げ捨てる事が出来てしまう。そんな、何処かで聞いた風な事が頭をよぎったような気がした。

「熱くなっちゃってまあ・・・償いのつもりなのかね? なんにせよあのお嬢さまが五月蝿そうだからそういうのは一人で勝手にやってくれ。でもそうだな、君のその小さな頑張りに免じて撤回してあげるよ。うん、三千院ナギは決して馬鹿じゃない」

 壁は魔法使いの意思によってか消え失せ、張りついていた血飛沫が地面へと雨粒のような音を立てて落ちた。
 結局、僕の拳が魔法使いに届く事は叶わずに腕はだらりと地に下がり、指一本さえ動かせなくなった右腕には刃物で無数に切り刻まれたかのような裂傷。痛覚は無い。それなのにどうしてだろう、視界がぐらついている。両脚を支える力と思考がおぼつかなくなってきていた。

「彼女はただ君の事が大切だった。あのお嬢さまの行動原理はその一点のみ、昔も今もそれは変わらない。私から見て、彼女の選択は間違ってはいないよ。今の君と同じさ、彼女は大切なものの為ならなんだって捨てる事の出来る人間だ。支払ったのは命だったが一年前のあの夜、確かに三千院ナギはある目的を果たした上で死んだ。あれはあの時点で、あの状況下において極めて最良の決断といえる」

 事の詳細を語ろうとしているようで、肝心な部分を伏せた物言いだった。更に続ける。

「だがそれは普通じゃない。いかに大切なものがあろうと最も優先させるべきは自分の命であり、それこそが人が人たりえる人間の定義だ。結果として、事故的に命を落としたというならまだ普通の域の話だが彼女は違う。命を棄てる行為になんの躊躇いもない。勘定に入ってないんだ、自らの命が。結果に至る為の過程で必要とあらば喜んで差し出してしまう。それはもう秤にかけてすらいない、命の重さを理解した上で冷静に切り捨てる事の出来る類稀なとびきりの異常者────馬鹿呼ばわりは撤回する。こっちの方が相応しいからな」

 撤回云々と言っておきながら舌の根も乾かぬうちに再び彼女を悪く言う魔法使い。
 右は潰れたがまだ左が残っている。だが不思議なほど拳に力が入らない。穴の空いた袋のように空気が抜けていく感覚。

「・・・いい加減にしろ。まだ、言うか」
「事実なんだから仕方ない。私、君、そして彼女は仲良く三者三様に異常なんだ。敢えて私達と彼女とを区別するなら悪と正義っていう風に仕切りを設ける事が出来るが、さてどうだろう? 違いなんて、人殺しかそうでないかぐらいしかない」
「・・・人殺しでないなら充分普通だ。僕とは違う」
「普通なもんかい。正しい事を正しいままに、正しいと信じ抜いた先で自己犠牲さえ厭わない。そんな存在が普通だと? そういうヒロイック的なのはマンガやアニメの中でのみ映えるものだろう。それにこの地球上にそんな奴がどれほどいるっていうんだ。それとも君の家の近所には正義の味方が腐るほど住んでいるのか?」
「誰がなんて言ってもお嬢さまは普通だ。どこにでもいる普通の、優しい人だ」
「ふはっ! 優しい、か。なるほど、見解の相違もここまで来るとかえって気持ちが良い。同じものを見ているようで、通す眼が違えばこうも景色が異なるものかな。喜ばしい事にどうやら私達は永遠に理解し合えない仲のようだよ、青年」

 首を軽く横に振り、溜息混じりに魔法使いは僕の近くまで歩み寄る。
 今一度殴りかかる準備は出来ている、にもかかわらず額には異様な量の汗。ふらついていた脚はついに片膝を地に付けてしまった。

「傷口から障壁の魔力が流れ込んだか。意識が飛ばないのは大した精神力、とでも言うべきなのだろうが────」

 僕の目の前まで来たところで、片膝をついた状態の僕の肩を軽く足蹴にされた。本来なら微動だにしないはずのその力でさえ、様子のおかしい僕の身体は空を仰いでしまった。

「所詮はこの程度。元ご主人さまを侮辱されたまま、私に一発の拳も届かせる事すら叶わない。どれだけ吠えてみたところでこれが現実だろう。私が魔法使いだから、君がただの人間だから────仕方のない事なんだと好きなように自分の中で片付けてしまうといい」

 手にした煙草が一瞬だけ小さな炎に包まれて跡形もなく消滅した。魔法使いは哀れみを含んだ表情で僕を見下ろす。

「結局、君はまた三千院ナギを護れなかったな。一年前は想いと未来を、つい先日はこの屋敷跡で再び命を、そしてここに至ってはその誇りさえも。ふふっ、君は一体、なんだったら護る事が出来るんだろうね」

 意地悪く歪んだ口から囁くように放たれたその一言に、ぷつんと。

「本当に哀れなナギお嬢さま。誰一人として護ってくれないなんて! 誰からも愛してもらえず、必要ともされなくて! ああ大変っ! せっかく生き返れたのに、これじゃまた気付いちゃう。自分の人生が、なんの意味も持たない無価値なものなんだって!」

 僕の中の何かが切れたようだった。
 最速。仰向けの体勢からの前傾姿勢へと、可能な限り最短の動作で移行。魔法使い自身が詰めてきた距離、既に腕を振るえば必中の間合い。
 殺意によって加速させた左拳は魔法使いに壁を造らせる暇を与えず、腹部へと直撃させたつもりだった。

「うわー、やられたー。ナギお嬢さまを馬鹿にしてごめんなさーい! ────なんて、気はもう済んだかい?」

 拳は体に届いているようだったが軽口を叩いているところを見ると薄皮一枚ほどの間隔で止められている。先程と同じ、電光が左拳を焼いたところを見る限りまた見えない壁がそこにあるのだろう。違いがあるとすれば、さっきのはあからさまに壁という感じで、今のは身に纏った鎧。おそらく形状、範囲は魔法使いの意思によって変幻自在と思われる。
 冷静になれ。考えろ。決して勝とうとしなくていい。目の前にいる女は今の自分が敵う相手じゃない。一撃。それだけでいい。
 ここで一矢報いる事も出来ないまま彼女の誇りすら護れない程度の人間なら、綾崎ハヤテはここで死んだ方がいい。────そうだ、この命を極限まで軽くしろ。道端に転がっているゴミ屑同然にまで蔑ろに出来るなら、あるいはこの絶望的な実力差を埋められるかもしれないのだから。
 ────三秒。

「済むかよ・・・ッ!!」

 壁────魔法使いが障壁と言っていたものから左拳を引き離す。大丈夫だ、問題ない。せいぜい小指の骨にヒビが入ったくらいか、まだ撃てる。
 ────七秒。

「それにしてもワンパターンの極みだな。殴ろうが何しようが無駄だって事はそのイカれた右腕が証明しただろうに」

 違う。証明したのは無駄ではないという事。右腕を犠牲にして得られたのは、この女の魔法とやらは完璧な代物ではないという事実。少なくとも、この透明な壁には弱点がある。
 そして地の利。見る影も無くなったとはいえここは長い間住んでいた場所、三千院邸。崩壊しようと"何処に何があったか"など周囲の景色から推測は容易い。
 ────十秒。

「またか・・・もう防ぐのも馬鹿らしいな」

 再び殴りかかろうとする僕に対し呆れ顔で溜め息混じりの魔法使い。僕の攻撃を壁ではなく、回避によって凌ごうとしている。

「いいや、防がないんじゃない。もう"防げない"んだ!」
「────────ッ!」

 魔法使いの表情が変わる。僕から何か危険な考えを読み取ったのか、余裕から警戒へと認識を改めている。
 障壁の弱点は二つ。一つ目は持続時間。おそらく一度の展開で維持出来るのは十秒弱。一回目の攻撃時に拳と壁が接触してから解けるまでがその位だった。魔法使いの意思で解いたものと思ったが、気になったのは彼女の足の配置。壁の展開中と解除後で違って見えていた。後者が"攻撃に備える"という意思を含んだ配置だった。障壁の持続時間が無限なのだとしたら備える必要なんて無い。常に壁を張り続けていればいい。備えた、という事はつまり無限ではなく有限。
 二つ目は確証と呼べる程のものは無く、賭けに近い。それは障壁解除後、再展開までのインターバル。壁を瞬間的に連続して張る事は出来ないのではないかという仮定。一つ目の理由と被るが、やはりこちらの攻撃に備えたというのが大きい。もし仮に極僅かな時間で再展開が可能であるなら一度目の展開は自身から少し離れた位置に壁を展開し、時間切れになったなら二度目を鎧のように展開し直せば擬似的に連続使用が可能となる。なのにそれをしない────つまり出来ない程の時間的猶予が必要。
 防御は剥ぎ取った。あとはこちらの攻撃を成功させるだけ。だけど成功させた後、僕が生き残る可能性は一割にも満たないかもしれない。
 ここで死ぬ訳にはいかない筈だった。もう一度お嬢さまに会って償いをしなければならない。どうやって、なんていくら考えても思いつかないままだけど、とにかく死ねないんだ。でもここで逃げたら償いの権利すら失くしてしまいそうだから。
 ────だから僕はここで命を賭ける。償う為に、君を馬鹿にした奴に背中は絶対に向けない。
 殴ると見せかけ、左手の中に隠してあったモノをありったけの全力で投げつける。瓦礫の中に落ちていたなんの変哲もない手の平に収まる程度の金属片。

「・・・? なんだ? 一体どこを狙って────」

 金属片は魔法使いに掠りもせず、彼女の真上を通り過ぎ、

「────────ッ、ちっ」

 舌打ちする魔法使い。金属片はその背後にある瓦礫の山の上部から突き出ている同様の金属物めがけて風を切っていく。
 その山になっている場所はかつて調理場だったところ。規格外の広大さをもつその区画には当然、配管が無数に密集している。そこが崩れて破裂し、瓦礫から何本も剥き出しのガス管が見て取れる。ここからでは臭いも何も感じ取れないが、おそらく瓦礫内部は大量のガスで充満しきっているだろう。そして僕が狙ったのはガス管らしき金属の筒。金属同士が擦れれば微量の火花が発生する。どれだけ小さな火花だろうと関係無い、この風船のようにガスを内包した場所にそんなものが加わればどうなるかは自明。
 魔法使いの足下に紅い光が灯る。幾何学模様が描かれていく陣には見覚えがある。お嬢さまを連れ去った時と同様のもの────だがそうする事は想定内だ。

「逃が・・・すかぁ!!」

 持てる残りの力を全て込めて魔法使いに体当たりをする。

「ぐっ!? 正気か、君は!」

 化け物じみた力を使うとはいえその身体は細身の女性。よろめいた身体は紅い魔法陣から外れた位置へ。その陣の内側にいる者を瞬間的に別の異なる場所へと移動させる魔法。それならその外に追い出せばいい。
 防御と退路を絶った。そうして僕の投げた金属片は無事に火花を起こす事に成功し、

「・・・正気? そんなもの、お嬢さまを殺したあの日からとうに失くしてる」

 死の光が炎を纏いながら、僕達二人を包みこんだところで記憶は途切れた。



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 隕石の雨によって瓦礫の山と化した三千院邸。その一部の山が消失していた。煙草の火にも満たない、金属が擦れた程度の極小の火花は瓦礫の周囲と内部に溢れていたガスに引火。誘爆は誘爆を呼び、連鎖的に大爆発を巻き起こした。瓦礫は粉々に破砕し、爆発の中心部は平地になり離れたところでは収まった今でも小さな爆発を繰り返している。
 白昼の爆発事故、と新聞沙汰になる事はないだろう。三千院邸全域に張られた結界は音を遮断する。これだけの爆発が起ころうとも周囲の住民がここの異変に気付く事は無い。崩壊後に追加した結界で風景の偽装も行っている。外からは無傷の三千院邸が見えている筈だ。

「────まさか、生身の人間からダメージを貰うなんてな」

 爆発地点から数キロ先、三千院邸敷地内の森の中。季節にそぐわない枯れた葉と木々に囲まれた薄暗い場所に二人はいた。
 一人は頭から血を流しながらも平然と近くの木に背中を預けて煙草を吸っており、もう一人は意識を失っているのか地面に横たわっている。
 魔法使いが綾崎ハヤテを助けた訳ではない。これは彼女にとっても想定外の事故だった。
 転移の術式。それは描いた陣の中の対象物を別の場所へと移動させる────のではない。陣は出入口に過ぎず、対象物はその内側に入らずとも移動させる事が出来る。その対象物とは"術式に使用した魔力を体内に宿す者"である。術者である魔法使い本人は言わずもがな、彼女の魔法によって作成された肉体を有する三千院ナギ。そして障壁の魔力が右腕に残留した状態の綾崎ハヤテ。いずれも転移の対象物となる。
 爆発の間際、成った転移は魔法使いとハヤテをこの森まで移動させて今に至る。間際という事もあり両者とも爆発の衝撃を僅かに受けたものの、命に関わるものでは無かった。

「油断か、それともこの男の力なのか────まあ仕方ない、認めてやる」

 はあ、と溜め息を吐き終わる頃には頭の傷は治癒の術式により完治していた。

「きちんと護れるじゃないか。ナギお嬢さまが知ったら物凄く喜ぶだろうよ」

 頬に伝う血を拭いながら、魔法使いは薄暗い森とは対照的な晴天の空を見上げる。

「だけどもう手遅れ。君も私も、護れる力を手にするのがあまりにも遅すぎた。────君のその手は、もう一度あの子の死体を抱く事になる」

 ちぎれ雲が緩やかな速度で流れていた。暖かで平和な色合いの空に春の到来を感じるものの、死んだ森に漂うのは無機物のような冷たさだけ。

「揃いも揃って執事失格。とても良く似ているよ、吐き気を催すほどにね。まるで古い鏡でも見せられている気分だ」



to be contained,

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