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 すっかり陽の沈んだ夜道を歩く。
 昏い闇を白々しく照らし出す電灯の光は、人工ゆえの不自然と空虚しか生まず、周囲をより一層もの淋しげにしている気がしてならない。
 当てもなしに歩いてゆく。帰り道は分からないが、足取りはやけに軽かった。今夜は星が綺麗だからだろう、先の夕暮れよりもだいぶ久しく感じる星空を見上げながら、足は見知らぬ土地を進む。
 誰もいない屋敷よりも、今はこの空を満喫できるような小高い丘に赴きたい気分である。――私は星が好きだ。遠い日、母と眺めた思い出の輝きでもあるし、何よりも星空を見ていると私は別の世界に埋没できるから。
 怖い夢を見て眠れない時があった。言葉で表せない不安で押し潰されそうな夜があった。そんな日は星を見る。黒く、しかし澄んだ海原を泳ぐ感覚に似ているか。星々は青海に住む回遊魚のようでいて、そんな星空はいつまでも私を飽きさせない。――越えれそうにない不安な夜は、いつもそうして踏み越えてきた。
 今だってそう。独り、消え入りそうな夜を、きっとこの星達は孤独を紛らわせて明日へと連れて行ってくれる。

 この体がどんな状況で果てるかは知らない。けど、あの夜のような星も見えない深海のような空は御免だと、出来たなら今夜みたいに綺麗な空の下がいいなと――そんな益体もない事を思いつつ、私は背後から息を切らしながら駆け寄ってくる誰かを嘆息混じりに振り返った。

「な、ナギちゃん……はあ……やっと、見つけた……は、げほっ」
「……なんのつもりだよ、おまえは。まだなんかあるのか?」

 両膝に手をついて肩で大きく息をしているところを見ると、よほど夜の路地を駆け回ったのだろう。そこまで入り組んだ住宅地でないにしても、一度見失った誰かを見つけ出すのはかなり骨な作業に違いない。
 それを踏まえた上で、私はこの困った奴を静かに見据えた。

「や、やっぱり放っておけなくて……うん。誰がなんて言っても、私はナギちゃんを放っておかない事に決めたの」
「なんだその勝手な決定は……知らないよ、そんなのは。だからさっさと帰れ」
「帰らない。私が帰るのは……心配の種が全部なくなってからだもん」
「だもん、っておまえな……いいか、もう一度よく聞けよバカ。おかしな事言わずに家に帰――と、おお?」

 再度がっちりと手を握られて西沢歩は何処かへと向けて歩き出した。不意の行進に驚いて体がよろめくが、歩の手のおかげでバランスを立て直すのは容易かった。……いや、この手のせいでコケそうになったのだが。
 歩は私の手を引いてどんどん前へと行くものだから、私もその流れに倣うしかない。これでも力一杯に抵抗しているのだが、三千院ナギの筋肉はやはりダンボールよりもスカスカだったようである。

「おい……どこに向かってるんだよ」
「ナギちゃんのお屋敷」
「……なあ、一つ嫌な予感がいま胸に湧き上がってきたんだけど口にしてもいいか?」
「いいよ」
「おまえ、さっき私の事を放っておかないって言ったよな? それでいま私の屋敷に向かっていると言う。それはつまり……私の屋敷に住み着く気……とか?」
「うん」

 まさかの予感的中に私はしばらく憮然とした表情になるが、やがてハッと気を取り直して抗議を上げる。

「あ、アホかおまえは! なんでおまえを屋敷に住ませないといけないのだ!!」
「えっとね……ほら、仲の良い友達同士だったらよくある事だよ。お泊まり会みたいな」
「なっ――」

 お泊まり会なる言葉は初めて耳にしたものだったが、それよりも何よりも恥ずかしげもなく私を友達だと言った事に対して動揺する。
 ……ああ、昔もこれと同じような体験をした。だから驚く事はないのだ。それでも……胸の内に広がるこの不思議な感情の正体は掴めない。まあ、慣れない代物である事は間違いないか。

「だから今日からよろしくね、ナギちゃん」
「――――」

 何がよろしくなのか、手を引いて私の前を先行しながら見せてくる、やけに可愛らしい笑顔をしたこいつは何者なのか。色々と疑問は尽きないが――折れた。たぶん心がカルシウム不足だったのだろう。日頃からもっと牛乳とか飲んでればよかった。
 動揺は既に消え、諦観と疲労の波が打ち寄せては引く。

「……ああ、もう好きにしろ。私はもう知らん。たった今、全てがどうでもよくなった」
「な、なんか急に投げやりになったね」
「省エネと言え。私はもう無駄な事に労力は使わん。おまえが屋敷に寄生するのなんて、広い目で見れば実にどうでもいい些事だ。いちいち鼻息を荒くしたり溜め息をつくのは愚かしい事だった。やめよう、余計な二酸化炭素を吐き出すのはもうやめよう。ハムスターの奇行を許す事から地球温暖化防止は始まるのだ」
「そっか……ナギちゃんは地球を愛してるんだ。よおし! 私も負けずにエコ活動しようかな?」

 アホなやりとりであった。こんな感じの会話はしばらく続いて、私と歩は静謐な路地を抜けてゆく。
 随分と歩いただろうか。聞けば私の屋敷にはもうすぐで着くらしく、いま歩いている路地の突き当たりに見える壁が屋敷の外壁との事。
 あとはその壁を辿っていけば正門に――

「……?」

 外壁に到達する手前、路地の傍らに一台の黒い小型トラックが停車していた。運転席はマジックミラーなのか、周囲が暗いだけなのかその中身は見えない。
 ……とりわけ足を止めるほどの事ではない。前を行く歩は少しも気にしていない様子。私もそれに倣う形で通り過ぎた。

 ただ、こんな時間帯の住宅地にしては不自然だなと、そう思っただけだ。



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 正門に着く。無駄に大きな鉄格子の門の天辺を見上げて、歩は嘆息しながら一人で頷きを繰り返している。

「久しぶりに来たけど……やっぱりおっきいね……」
「金持ちの意味もない誇示だよ。中身もそうだが、門に至っても見かけが小さけりゃプライドが許さないんだろ。見栄だの威厳だの、そういうのを飾らないと生きていけないんじゃないか?」

 まるで他人事のように淡々とした口調で、自らとその住まいの在り方を批判する。
 ここにはもう誰もいない――それはつまり私だけの家になったという事だ。故に、こうも遠慮なく言える。ここが別の誰かにとっての家でもあるならまた違っていただろうが。
 首を振る。浮かび上がってきてしまった、少し前までここにいた住人の顔を振り払う。

 門の脇にある電子盤に暗証番号を入れ、静脈センサーに手を添えると閉じられていた門の開く音を聞いた。
 「おお……」と無駄に感心している歩は放って、半日ぶりに屋敷の敷地内へと足を踏み入れた瞬間。

「……さむ。なんだこれ、いま一気に寒くなったような」

 もともと今日の夜気は肌寒く、春のそれとは遠く離れたものだったが、屋敷の門をくぐるとそれがもう一段階くらい下がった気がした。
 錯覚でないならおそらく広大な屋敷の敷地が関係しているのだろう。今の今まで建物同士が密集した住宅地にいたものだから、目立った遮蔽物が樹木ぐらいしかなく風の通りが良いこの敷地内に入った瞬間、急激な寒気を感じたのだ。

 寒さに腕を抱きながら、屋敷のエントランスに続く入口の扉を押しのけて中へと進む。同時に、主の帰還を感知したかのように消灯していた光源が空間を照らし出す。

「おおーっ! 一体どんな仕組みなのかな!?」
「……うるさいな。興味ないよ、そんな事には。っていうかおまえ、ここに来るの初めてじゃないだろ」
「そうなんだけどさ。久しぶりだし、それにこういうお屋敷は何度来たって気圧されるよ。……おっ? あれは相当価値のある絵画なんじゃないかな?」

 とても気圧されているように見えない歩は、入口だった扉の真上に設置された仰々しい絵画をしたり顔で眺めている。
 外の敷地同様、極めて無意味な広大さを誇るエントランスには華美に過ぎるシャンデリアが天井から吊されていたり、景観を中世風にしたいのか無骨な甲冑やら骨董品やらが置かれているなどまさに金持ちの典型と言える装飾の数々であった。
 歩は顎に手を添えて唸り始め、「うーむ、西沢画伯に言わせればこれは億は下らない価値ですな」とか馬鹿な事を言っている。ちなみにそれは一円の価値もないゴミ。昔、暇を持て余した私が遊び心で本物を真似て描いた下手くそ極まりない贋作だ。これだから物の価値が判らないハムスターは困る。
 そんな歩を無視し、靴を脱ぎ捨てて内履きに変える。西沢歩は特に私が招いた客人という訳でもないので、どこかに案内したりもせずに私は一人居間へと向かう。ついてくるなら好きにしろ、居間に来たならお茶請けくらいは出してやる、寝泊まりするなら勝手にしてくれ――という実に適当な態度である。
 私が離れていく事に遅れて気付いたようで、絵画に食いついていた歩は慌てて靴を履き替えて私のそばに駆け寄る。

 高級ホテルのように大理石で誂われた豪奢で幅の長い階段を登ると、二階の踊り場に出る。居間はこの階にある訳だが、ここからが遠い。踊り場の左右に広がるとてつもなく長い廊下の北側、一番突き当たりが居間である。
 片側を窓で敷き詰められた廊下を歩いてゆく。庭の風景を見下ろせる窓からは月がさらに私を見下ろしていた。蒼く玲瓏とした三日月は外の空気を時間をかけて凍結させ、微笑むが如く空に浮かんでいる。
 風も強いのか、庭先の木々の葉が揺らいでおり、擦れ合う音が窓越しにも聞こえてきた。

「……誰もいないんだね、このお屋敷」

 正門からエントランスに至るまでの高揚は既に冷めたような声で、歩はそんな言葉を零す。
 豪奢さを感じさせる華美な装飾品が多ければ多いほど、この場所の無機質さを浮き彫りにしてゆく。それを誤魔化すのが住人の役割である。人の温度を一切感じさせないここまでの道のり、それを歩がどう思ったかはその声色で大体の察しがつく。

「ああ。少し前までは違ってたんだけどな。今はもう誰もいないよ」
「……そっか」

 先を進む私の後ろで歩がどんな表情をしていたかは知らない。ただ、沈んだような空気が漂っている辺りを見るとあまりいい顔はしていなさそうだ。
 ……辛気くさい雰囲気も嫌なので、こちらから話題を変えてみる。

「そんな事よりさ。おまえ、大丈夫なのか?」
「……へ? 何が?」
「何がって……明日は月曜だろ? 日本のお父さん達は家族の為に働かなきゃならん日じゃないか。……おまえは別にお父さんじゃないけどさ」
「あ……それは……う、うん。大丈夫かな」

 だそうだ。まあ別に気にする事でもなかったか。ハムスターとはいえ今や責任ある大人のハムスターだ。自分で大丈夫だと思ったからこそ、ここに住み着くなどという妄言を吐けたのだろうから。

「つい最近ね、仕事クビになっちゃったから……今、求職活動中なんだ」
「……なんだって?」

 廊下を進めていた足が不意に止まる。振り向くと照れくさそうに頬を掻いている歩が、言葉を詰まらせた様子で同じように立ち止まっていた。

「えへへ……だからね、明日も明後日も休日みたいなものだったり」
「クビ、ね。……おまえ、一体なにをやらかしたんだ?」
「ま、まあ大した事はやらかしてないんじゃないかな? ちょっとしたハプニングというやつですよ!」
「嘘くさい……今おまえの体から異臭が放たれているぞ」
「えっ!? うそっ!? お、おかしいな……臭い対策は万全なのに……」

 口臭を手で確認したり脇の下に鼻を近付けて嗅いだりするこいつは、きっと究極の馬鹿なんだと思う。
 それはいいとして、だ。私の眉間には例によって皺が集まり、怪訝な表情を濃くしてゆく。そんな私を見てようやく色々な間違いに気付いたのか、歩は臭いチェックをやめて事の説明にかかり始めた。

「ええと……学生時代に私とナギちゃん、喫茶店でアルバイトしてたよね? その時のマスター覚えてるかな?」
「悪いが記憶にない。きっと私は過去と寝ない女なのだ」
「そ、そう……まあとにかくそのマスターのコネで、私は高校を卒業した後にそこそこ一流のレストランに就職した訳なんだけど」

 その言葉に目を見開く私をよそに、説明は続いてゆく。
 西沢歩の手がけた夕食を思い返す。取り柄がないはずの歩にしては不可解きわまりなかった一つの謎が明かされる。蓋を開けてみればなんて事もない。あれは趣味ではなく仕事として身に付いた一流の腕だったと、私みたいなただの思いつきではない、生きる為に身につけた能力であったのだと、いま誰かに言われたような気さえする。
 ……納得した。私では適うべくもない相手だったか。

「大体その頃なのかな……ナギちゃんやヒナさんと会わなくなっていったのって」
「今はクビになった説明をしてるんじゃなかったのか?」
「……? あ、うん。そうだったね」

 途端に硬質なものになった私の声を、しかし歩は僅かに首を傾げるだけだった。
 狂気はもう跡形もない。だが一滴ほどの殺意が湧かないかといえばそれは嘘だ。振り払ったし、もう会う事もあるまい。だけどその名は、出来る事ならもう耳に入れたくなかった。
 赤毛の長髪をたなびかせた遠い背中。その姿を世界から消し去ろうとする行為は、誓って、二度としない。
 だが――どんなに心を抑えても、どこまで行っても、私にとっての桂ヒナギクとは殺意の対象でしかない。
 それくらいはいいだろう? それくらいは許して欲しい。その許可は一体誰に請うているのか、狂気を二度と持たないという誓いは一体どこの誰に――そんな知れた事は自問さえしない。
 こちらはもう遥か彼方にまで遠ざかってしまった、世界で一番大切だと思えた誰かの背中へと。

「――って事でクビになっちゃったんだ……酷い話だよね」
「なるほど。つまりおまえという奴は厨房の冷蔵庫に隠していたニンジンソードを取り出して前々から気に入らなかった料理長を襲い、追い詰め、しまいには予め周到に設置しておいたバナナの皮で料理長の足を滑らして気絶させた訳だな。なんて自業自得……同情の余地はないな」
「違うよ!? ナギちゃん、どっから私の話を聞いてなかったのかな!?」
「まあなんでもいいさ、おまえのクビになった理由なんて本当にどうでもよさげ。それよか現実を見ろよ、ハムスター。おまえはいまニートとなんら変わらない地球の産業廃棄物なのだから」
「酷いっ!! ナギちゃんだって似たようなものなのに……ッ!!」

 わあわあと、涙まじりに私の背中をポカポカ叩いてくるが無視して居間へと進み、やがて辿り着く。入口から実に十五分の時間を要した居間の大きな扉の前まで来た時、涙目の歩は何かに気付いた様子をみせた。

「ぐすっ……あれ……? 電話の音が鳴ってるよ?」
「何? ……ほんとだ」

 扉越しに聞こえてくる規則的な電子音は間違いなく電話による呼び出しであった。……しかし、もう時刻は夜も更けた十時である。こんな時間にかけてくる不謹慎な知り合いに心当たりはなかった。

“――何か、大事なことを、忘れているような”

 居間の扉を開ける。電話は止まずにいつまでも鳴り響いている。一体いつからこの電子音は鳴っていたのか。
 電話機の前まで近寄り、しばらく立ち尽くす。だが決して止む気配を見せない。きっと、呼び出し相手が受話器を取るまでこの音は止まないのだと、そう感じた。

「ナギちゃん……? 電話、取らないの?」
「――――」



“思い出せ。――今の状況が、どれほど危険なのかという事を”



「もしもし」

 受話器を取る。耳に当て、同時に聞こえてきたのは誰かが息を呑む音と――



『な、ナギお嬢さま……ッ! 良かった、ご無事でしたか……』



 嗄れた老人の声だった。聞き覚えのないその声には明らかな焦燥と安堵が滲み出ている。

「……誰だ?」
『は……? クラウスですが……ああ、定時連絡の時間ではないからですか……申し訳ありません。今は急を要しますゆえ』
「クラ、ウ、ス……?」

 どこかで聞いた事があるような名だった。急いで記憶を探る。――検索失敗。

 再検索開始――

『お嬢さま、時間がありません。綾崎ハヤテは近くにいますか?』
「ハヤテ……? ハヤテは……いないけど」
『なっ――それでは彼は今どこにいるのですか!?』
「さあ……知らないけど。なんでそんな事を訊く?」
『何故とは……そんな事はあなたが一番よく分かっているはずではないですか……! い、いえ……今はこんなやりとりをしている場合ではありませんでした。――よろしいですか、ナギお嬢さま。監視対象に動きがありました』

 ――検索失敗。

『今まで成りを潜めていた対象がどういう訳かここにきて急に沈黙を破りまして……手に入れた情報によると対象はほんの数刻前に非正規部隊を秘密裏に雇ったとの事。莫大な報酬でしか動かない暗殺と後処理に長けた連中を、です。――申し上げるまでもなくその屋敷は既に危険です。早急に綾崎ハヤテを呼び戻して逃げ――』
「ああ、今ちょうどハヤテが帰ってきた。だから安心しろクラウス。すぐにここから逃げるからさ」

 ――検索成功。
 倉臼征史郎。役職は執事長。三千院ナギの命により辞職を偽装し、監視の任に就いていた男。

『そ、そうですか、良かった……それでは急いでください。本宅への船は手配させました。あの男と一緒ならば取り決めてある港までは安心でしょう』
「……なあクラウス、猫二匹はそっちで元気にやってるか?」
『え……はい、まあ……元気ですが……?』
「そうか。私も元気だと伝えといてくれ。――じゃあな」

 受話器を置いて通話を切る。同時に、電話機ごと床に投げつけた。

「な、ナギちゃん……!?」
「くそ……あの黒いトラックか……? なんでこんな大事なことを忘れて……くそっ!!」

 痛恨のミスであった。これ以上はないくらいの失態だ。怒りは全て自分の馬鹿さ加減に対して。
 連れてきてはいけなかった。よりにもよってこの死地も同然の場所に西沢歩を入れてはいけなかった。拒絶するべきだったのだ。どんな手を使ってでも、歩の優しさを拒むのが正解だった。
 唇を強く噛み締める。血が出た。知らない。今は己の失態がただ恨めしい。また誰かに迷惑をかけるのかおまえは。また誰かの幸福を奪うような真似をするのか三千院ナギは――!

 ……いや、冷静になれ。今は落ち着いて状況に対処しなければ。頭の中を整理しろ。取るべき最良の退路を選び出せ。
 正門は駄目だ。おそらく裏門も、外堀は全て埋められてしまっている。陸路はあり得ない。
 空路はどうか? 多少、時間は要するが小型機を呼び寄せる事は可能だ。着陸に必要な敷地なら無駄にある。……やめた方がいい。クラウスはなんと言った? 非正規部隊と言っていただろう。空路は危険だ。嫌な予感が当たればまず確実に撃墜される。
 陸も空も駄目。ならば籠城か? 敷地内の広さを利用してずっと隠れてみるか? ……これが最も愚策だ。それでは袋のネズミ、殺してくださいと大手を振っているようなものではないか。

 他にはないのか? 無傷で、西沢歩を無事に家に送り返せる退路は――

「――そうだ。地下……白皇に繋がっているあの道なら……!」
「わ、わわ!? どうしたの!?」
「いいから来い!! ぐずぐずするなバカハムスター!!」

 有無を言わさず、強引に歩の手を引いて駆け出す。一刻の猶予もない。だが、僅かにでも可能性が残っていて助かった。クラウスの電話がなかったら最後まで私は思い出せずに歩を道連れにしていた事だろう。やる時はやってくれた老執事長に今だけは惜しみない感謝の念を抱く。

 地下道への道を思い出す作業は走りながら行われた。記憶は曖昧というか、あの場所には偶然迷いこんだようなものなので確かな道筋は最初から知らなかった訳だが、幸い、いま階段を駆け降りた先には見覚えのある貼り紙と行き止まりの壁があってくれた。

「よし……これは確か横に動かせばいいんだったな」
「――――」

 掴むところはないので、両手をついてそのまま横へ流すような形に力を込める。
 歩は窓の外をぽかんと、何やら呆けた様子で眺めているようだったが今は気にしてられない。

「あ、あれ……? 動かない……なんでだ!?」
「――――」

 ここにきてなんの冗談か、隠し扉はびくとも開く様子を見せなかった。気合いを入れてもう一度。……駄目だ。まるで最初からただの壁であるかのように佇むばかり。
 歩はまだ外を見ていた。

「こ、このっ……! まさかこの土壇場で壊れたのか!? 誰だこの壁を作った奴は!! 今すぐここに責任者を――」

 苛立ちと切迫した状況から壁に蹴りを数発いれた瞬間、壁がぼんやりとした光を帯びたのを私は確かに見た。
 その直後に壁に浮かび上がったのはまず円だった。それからその円に沿って数式みたいな不可解な暗号が敷き詰められていき、最後に六亡星が描かれた。――それはなんなのかと訊かれたら私は間違いなく、漫画とかでよく目にする魔法陣だと答えるだろう。

「ナギちゃん……あれ」

 なんらかの原因で感情の色をなくしたような声は、西沢歩の口から。

「――――」

 窓の外へ視線を向ける。ソレを視界に収めても驚きはあまりなかった。視線がまだ壁を捉えていた時から、きっとそこにいるのだと予感していた。
 窓の外。庭の草花が強い風に煽られて悲鳴を上げている。
 ――私の予感はどうやら的中したらしい。しかし歩が茫然自失となった原因は私の目が捉えているものとは別の何か。多分、空に浮かんでいるアレだろう。

 パッと見、それは未確認飛行物体のようでもあった。

「ゆー……ふぉー……?」

 だがそうではない。夜空に描かれ、白い光を放っているそれはこの行き止まりの壁に刻まれているものと同じ。ただ、規模が段違いに異なる極大の魔法陣だということ以外は。
 私はいつも通り、不機嫌そうに目を細めてその下方、屋敷の別棟の屋上に佇む黒衣を見据えている。
 銀髪の女はさも愉快そうに口元を歪めて、



「せっかくの手間暇かけた演出だよ。主役には今、この瞬間にぜひ立ち会って頂かないと」



 まるで耳元で囁かれたように、遠く離れた位置から届かないはずの言葉を私にくれる。
 ……ああ。何をしでかそうとしてるかはさっぱりだが、そっちがその気なら付き合ってやろうじゃないか。
 私達の退路を絶ったからには、魔法使いのおねーさんが全ての責任を取ってくれるんだろうからな。

 交差する互いの視線。
 見上げる聖緑の瞳と、見下ろす真紅の瞳。
 星の大海に煌々と刻まれた光の模様が、どくん、と心臓のように鳴動した気がした。



To be continued,

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あきゅろす。
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