[携帯モード] [URL送信]
W‐A
 



 /1



 四角く縁取られた窓の外を、フローリングの床に腰を下ろしながら眺めていた。窓の位置がちょうど肘をかけて手のひらを顎に添えられる高さだったので、自然とそういう体制で夕暮れの町並みを翡翠の瞳に映す。
 住宅街に設けられた三階立て賃貸物件の二階に位置するこの場所からは、車一台がギリギリ通れる路面を見下ろせ、雨上がりに歓喜する子供と手を繋いで家路に着く親子連れを観察出来た。
 何がそんなに楽しいのやら長靴を履いた子供は水溜まりの中でバシャバシャと跳ね回り、母親はそれに呆れながら叱責するも口端には微笑を湛えている。
 そんな心温まる光景を目で追っていき、やがてその二つの背中も遠くに流れていった。
 通行人のいなくなった路面は、見渡せる町並み同様に橙色と影が織り成すコントラストに彩られ、じき訪れる夜の帳に備えていた。

 そんな、時間の経過さえ希薄になりそうな光景を無言で眺め続けていたその時、視線を背中に受けている事に気付く。
 座ったまま、半身だけ振り向く。いつからこちらに視線をくれていたかは定かでないが、そいつはこの寝室らしき部屋の入口に立っていた。

 名前は――大丈夫だ、覚えている。

「なに人の顔をジロジロ見てるんだよ、バカハムスター」
「……え? あ、ああうん、な、なんでもない。ナギちゃんがぼんやり外を見てたから、つい」

 一人勝手にあたふたし始めたそいつを訝しげに見据えるが、西沢歩という奴は確か昔もこんな感じだったので取り留め気にもしない。
 それよかハムスターという小動物の名称の前にバカとまで付けたのに、それを当たり前のように受け入れてしまっているこの人物の体質が可哀想で仕方ない。
 そんな私の憂いを含んだ視線にも気付かず、そいつは他にまだ言いたい事があるのか、何やら言葉を選んだ様子を見せたのちにようやくそれを口にする。

「えっと……今からご飯作るんだけど、良かったらナギちゃんも食べてく……?」
「――――」

 控えめに、恐る恐る私の顔を窺いながらそう訊いてきた。

 橙よりも影の割合が濃い部屋の入口に佇んだままの昔馴染み。
 記憶の中にある二つの髪留めはもう使っていないようで、下ろした髪は肩口にかかる程度。女性にしてはショートカットの部類で、今も河川敷で釣りをしてそうなあの変人と髪の量は大差ない。
 とはいえ、あの魔法使いと比較してしまうとその風貌から受ける印象は極めて対照的と言える。外見こそ稀代の美貌を欲しいままにしていたあのタヌキだが、その中身はおそらく凛烈なる邪ではなかろうかと、私は勝手な憶測を立てている。会話もそこそこにそんな決めつけをするのは失礼極まりない事だというのは分かっている。だからこれはただの偏見だ。
 対して西沢歩はどうか。見てくれはありふれたものでしかないが、受けるのは飼育箱を無邪気に駆け回る小動物のそれではないか。人にそんな表現を当て嵌めるのもたいへん失礼な事だが、ハムスター相手ならば構わないだろう。だってハムスターだし。
 どうしてあの魔法使いを対比の材料として引き合いに出したのかは……まあなんとなくだ。あの銀髪こそ、西沢歩の対極に位置する人物像かもしれないという、そんな単純なものだ。

 とりあえず今は食事をどうするか、という質問に答えるとする。

「……用意してくれるっていうなら別に断る理由はないが」
「そ、そっか……よおし! やる気が出てきた! 今夜の夕食はいつもより腕を振るっちゃおうかな!?」

 などと言いながら袖をまくり、腕をぶんぶんと高速で回し始めた謎のテンションについていく気は毛頭なく、私は意気揚々と去る背中をただ見つめるだけだった。
 ――その背中におぶられてこの安賃貸に運ばれたのは小一時間前の話だ。
 何処とも知れない道端で倒れた私の体を起こしたのは昔よく話をした間柄の奴で、そいつはこちらの顔を見るやいなやかなり驚いた様子で私の名前を連呼し始め、そしてひとしきり確認が取れた後は何やら嬉しそうなはにかみ顔で一人勝手に再会を喜んでいた。
 私はというと無論そんな余裕はなく、立つ事が出来ない体をどうするかを考えていた。そういう事を感じ取る勘が鋭いのか、西沢歩は「もしかして立てないの?」と途端に真剣な顔で訊き、私は「ああ立てない」と素っ気なく返した。
 大して間も空けずに差し出されたのはそいつの背中。それだけでその意味は推し量れたし、他に手段も思い浮かばない私の頭は割とすんなり西沢歩の背中に身を委ねようという判断に至る。
 屋敷までの道順は知っていたようだが、会話の中で西沢歩の自宅の方が近いという事なのでそっちにしてもらった。聞けば私の倒れていた位置は屋敷から結構離れた場所で、あの川からまるで見当違いの方向に足を向けていたらしい。川から見知らぬ場所までの記憶はごっそりと抜け落ちている。まったく、何を考えて歩いていたのやら。
 そんな愚痴を零す暇もないくらい、苦もなく私をおぶって歩いていくそいつは背中越しに色々な事を訊いてきた。最後に会ったのはいつだったか、とか。相変わらずちっちゃいけど綺麗になったね、とか。口が悪いのは直ってない、とか色々。
 私は嘆息を交えながらも無視する事なく答えていき、その度に新しい話題をそいつは寄越した。その流れが急に途絶えたのは、目的地である自宅が目と鼻の先まで来たからなのか。
 とても自然な流れで訊かれた「ハヤテ君はどうしたの?」というものに「もういない」と簡素に答えたのが原因だったかもしれない。

 立てなかったのは腰が抜けたからだと適当に言っておき、私の体がおかしくなっている事は当然伏せた。言ったところで何がどうなる訳もなし、何より意味がないし理解だって出来ないだろう。そもそも私だってよく解っていないのだから。ならば普通を振る舞うまでと私は決めた。
 腰が抜けているというのを真に受けた歩は、とりあえず私に寝室で休むのが一番だと言い、濡れた髪や体を拭く為のタオルとサイズが合わない替えの衣類を押し付けて――今に至るという訳だ。
 歩き方、立ち上がり方、座り方。忘れるなんて事は本来あり得ないはずのそれらを思い出したのはついさっきの事。なんでこんな簡単な所作が出来なくなっていたのか不思議になるほど、体は思う通りに動いてくれるようになった。
 立ったり座ったりをいくらか繰り返した以外、この部屋でした事は特にない。強いて言うなら窓の外に広がるやけに久しぶりの夕暮れを眺めていただけだ。

 ――と。

「……む」

 歩が夕食を作るだのなんだのと張り切った背中を見送った直後なはずの今。
 窓の方を見やると陽は完全に落ちていた。藍色を間に挟まなければおかしい空は星を映し出す黒空へと、順番を飛ばしたかのように色を変えていた。
 部屋の時計は七時を過ぎている。一瞬で、一時間以上の時がこの世界に刻まれた。

「やれやれ……忘れたりなんだり、随分と難儀な体を与えられたものだ」

 色々な事に対する代償として受け入れはするが正直、辟易としてしまう。
 時間が高速で経過する、ではなく映像が一瞬で切り替わる感覚。
 さて。こちらへの対処法はどうしたものか。夕方から夜へと変わる過程の記憶はない。という事はこれも記憶の欠落と同一と捉えていいのかもしれない。
 気を引き締めればなんとかなるのか。……どうだか知らないが、歩の後ろ姿を見た瞬間に気が緩んだのは確かだな。理由はよく解らないけど。

 知らず溜め息を吐いていたところで、寝室の扉の向こうから私を呼ぶ声が聞こえてきた。



 /2



「……なんだこれ」

 1LDKの一人暮らしとしてはありふれた間取り。そのリビングのテーブルに隙間なく並べられた料理の品々を前に、私は首を傾げる事しか出来ない。
 いやもう、本当に無駄な隙間はなくびっちりと配膳されている。しかも皿一枚当たり、これでもかというぐらいのてんこ盛りときたもんだ。いま視界に捉えた特大オムライス一皿食べただけで満腹になる自信さえある。それと同等かそれ以上の量を盛り付けられた皿が視界を埋め尽くしていた。

「えへへ……ちょっと作り過ぎちゃったかな?」
「ちょっとって……これ五人くらいでようやく食べきれる量じゃないのか……?」
「いやあ……なんてったってここにお客さまを招くのは初めてだし、なんだか張り切っちゃって。つい冷蔵庫の食材を全部使ってしまいました」
「おまえ……もしかしてアホなのか?」

 湯気立つ皿々を呆然と見下ろしていると「ささ、食べよう食べよう」と私に腰を下ろすよう促してきた。
 とりあえず立ち尽くしたままというのも始まらないので、やおら腰を床に落としてゆく。
 俯瞰の位置から視点を下げると料理がより一層巨大化した。……さて、胃袋が破裂するのが先か心を折らずに食べきるのが先か、これはそういう勝負という事で間違いはないのか? と、テーブルとにらめっこしているこっちの気も知らずに「いっただきまーす!!」と元気の良い声で手を合わす怪人物ひとり。

「……いただきます」

 ほとんど勢いに流されるまま、私も両手を合わせる日本の礼儀作法に倣った。
 そうして、覚悟と共に相撲部屋も顔負けの料理を一口。

「――ん!?」

 特に考えなしでとりあえずさっき目についたオムライスの端を崩して口に、そして喉を通った瞬間、衝撃という名の稲妻が脳天に迸った。

「う……うまい……?」

 美食家でもグルメリポーターでもない私はその程度の感想しか口に出来なかったが、思うに料理という代物にああだこうだと理屈をつけて評価するのは時間の無駄ではないのか。美味いか不味いか、口にするのはそれだけで充分に事足りるのだと、このオムライスは悠然たる高山の如き物腰で語っていた。
 それらしい解説を交えるなら、まず舌先を唸らせるのは外装の卵だ。絶妙な半熟で仕上げている点も素晴らしいが、これは牛乳を入れており、何よりもふわふわ感を追求している。卵も一個だけでなく三個以上は使っている。一般の飲食店ではコスト面やら手間やらで無理な行為を惜しげもなく実践してみせるとは西沢歩……恐ろしい奴。
 無論、卵の内側も相当なものだ。いかなる味付けか、私には全くの未知な領域である。いや、味付けなんて大層なものはしていなくて普通にバターとケチャップだけかもしれない。ただ米と具材に対して寸分の狂いもない量バランスなだけやもしれぬ。だが言うは易し、するは難し。それがどれほど料理の味を決定し、かつ困難な業であるかは私でも解る。
 ……と、解説してみたがやはり不要。料理は美味いかそうでないかの感想だけでいい。そしてこの料理は美味い。

 震えたスプーンが、ようやく口から離れた。

「な、なんたる事だ……これは……いやまさか……三流という凡才を嘲笑い、二流に位置するオフクロの味をも凌駕するあの……天才だけが辿り着けるという一流の味……?」

 壮絶なる稲妻や荒々しい津波などといった美食マンガ的なノリはここいらで控えておくにしても、口にした逸品の余韻はいつまでも尾を引いてゆく。
 作り手の腕がすごいのか、味付けの仕方が私の味覚のツボをほどよく刺激したのか……料理に関しては三流以下の知識しか持ち合わせていない私には気持ちいいくらいに判断不能だ。
 いくら勉強しても知識が身につかないのは相性のせいなのか。いつまで経っても料理というものを覚えられない私。きっと骨の髄まで、とことん合わない分野なのだろう。

「むむむ……」
「どうしたの?」
「……何者だ、おまえ。私が知っているハムスターはこんな取り柄は持ってなかったはずだぞ? 普通の中の普通、何をやらせても普通、自分の長所を訊かれた時が一番困り果てるような奴だったのに……!」
「な、何気に傷つく事を……まあ能ある鷹は爪を隠すって事なんじゃないかな? 真の実力者はむやみに己の力量を晒さないものなのだよ」
「ぐぬぬ……生意気な……ハムスターの分際で……」

 えっへん、と胸を張り得意気な顔をこちらにくれる歩。対する私は天地ほどの実力差を見せつけられて悔しさに歯を噛み締めるしかない。
 その悔しさを発散させる手段は目の前にある大量の料理しかなく、私は何かに取り憑かれたかのように手当たり次第、目に映る皿に手を付けていった。……そういえばここ最近まともに食事をとっていなかったので、この食べっぷりはそれも大いに影響しているのかもしれない。

「なんて豪快な食べ方……作法も何もあったものじゃないのに、決して品を損なわない感じなのはさすが良いとこのお嬢さま、か」
「うるさい! こんな屈辱は耐えられん! もうヤケだ! ヤケ食いしてやる!! おまえの料理なんかもう知らん! 私の胃袋で見るも無惨な排泄物に消化し尽くしてくれる……ッ!!」

 わははは!! と、もう何がおかしいのか判らなくなったような大笑いと共に次々と料理を吸引していく。もともと少食な私の胃袋なんて言うまでもなくミクロであるが、そんなのは知らない。限界など余裕で超えてみせて宇宙の外側に辿り着いてみせるのだ。

「おお……なんかすごい」
「げふ……胃がもう……い、いや、こんなけしからん料理はこの世から消し去らねば……うっぷ」

 食べる。どんどん食べる。途中、弱音を挿みながらも手先が休まる事はない。止まらないのは無論、決して自分では作ること叶わないこの美味い料理に対する嫉妬なり憤怒からである。

「ああ……そうだよ、私じゃ逆立ちしてもこんな料理は作れないっていうのだ……くそ……美味いな、これ……う、うぇっぷ」
「あ、ありがとう……そんな素直に褒められたら照れちゃうな」

 褒めてるんじゃなくて怒っているのだが、歩は頬を赤くしながら喜んでいる様子だ。どうでもいい。何を勘違いしてるか知らんが、今は一刻も早くこの腹の立つ料理どもを蹂躙して消し去るのみだ。



 /3



「う、お……も、もうダメ、だ……限界、と……宇宙を超え、て……せぶんせんしず」

 何か変な事を言っちゃうほど今の私は満腹状態であり、リビングの床に仰向けで倒れていた。
 食事はどうやら終わったらしい。激闘の余韻はまだ残っているものの、テーブルの上からは食器が全て片付けられている。
 結局、私は出された料理の七割を平らげたところでギブアップし、歩はといえば普通に一割程度を物静かに食しただけで「ごちそうさま」などと言いやがったのだ。ふざけてる……なに普通の量を食べて普通に終わってるんだあいつは。
 色々ツッコんでやりたかったのだが、そんな気力はとうに枯れ果ててその場にダウン。
 今はこうして満腹という贅沢な苦しみを味わいながら天井を仰いでいる。思い返せばハンバーグだのカレーだの……歩が作ったのは子供が喜ぶ料理ばかりだったような気がする。……たまたまか。そうじゃなかったら頭突きしてやる。誰が子供か。

 寝転がった状態の、後ろ側にあるリビングの壁時計が上下左右を反転させて時を報せる。じき、八時。
 もう少し休めば胃の中も消化されて落ち着く。そうしたら帰ろう。あんまり長くいても迷惑だろうからな。あいつだってもう社会人で明日は月曜。私と違って仕事とかに行かなければならないはずだ。
 偶然、道端で遭遇してからなんやかんやで助けてもらい、色々話とかして、最後には食事まで用意してくれた。私から言わせればとんでもないお人好し。普通はそこまでしない。昔馴染みとはいえ、そこまで仲が良かった訳でもなく、さらには数年振りの邂逅なのだから尚更だ。
 道で昔の知り合いが倒れてたらせいぜいが、救急車を呼んではいサヨナラが普通ではないのか。普通、というのがどんな基準なのかはよく分からないけど、とにかく西沢歩が取ったのは馬鹿でお人好しが過ぎる行動だ。
 ……まあそういう性格なのは知ってるし、特に改めて驚く事でもないのだが。

 馬鹿なお人好しなればこそ、そういう優しさにつけこんで甘えるのは決して褒められた行為ではない。結果として、もう既にそうしてしまったが、これ以上はない。
 立てなくなっていた時に差し出された西沢歩の背中。それに甘えたのは――屋敷じゃなくこの場所に運んでくれと言ったのは怖かったからだろう? 屋敷に帰れば、おそらくそれで終わり。
 この体の期限を迎えるまで、私はもう誰との会話もない無感動な時間を過ごすだけなのだという現実が怖かった。

「……覚悟を決めろよ、三千院ナギ。おまえはもう、独りきりなんだ」

 誰にも聞かれないようにか細く、もう決まっている事を口にした。
 ここは弱い自分がほんの少し立ち寄ってしまっただけの場所。長居は無用である。
 そんな事を考えていたところで――天井を捉えていた視界に歩の顔がひょっこりと覗いた。

「……なんだ?」
「あ……え、えっと……えっとね」

 何やら挙動不審。そういえば食事をどうするかを訊いてきた時もこんな感じではなかったか。

「ナギちゃんさ……もしかしてすごい悩み事とか……抱えたりしてる?」

 ――なんて事を唐突に、口ごもりながら言ってきた。

「すごい悩み事……? なんだそれは」
「そ、その……間違ってたならごめん……ただ、そうなんじゃないかなって思っただけだから」
「――――」

 仰向けのまま、歩の顔をじっと観察してみる。口は一文字に硬く切り結び、緊張した面持ち。向けられた瞳は私を心配しているような色がありありと窺えた。

 ……悩み事はあるが、それは別段すごい悩み事という訳ではない。
 残り一週間。それをどのように使うか、未だ答えが出ないそれを悩んでいるだけだ。魔法使いは別の願いを持てだとか言っていたが、そう都合よく思いつく訳もない。とはいえ、真剣に悩んでいる訳でもないから思いつかないだけかもしれないが。
 体がおかしくなっていく、というのも悩みの種ではあるけどこれはもう考えたってどうにもならない事だから、歩の言う“すごい悩み事”ではないと思う。

「……ナギちゃん?」
「いや、悩み事なんて大層なものはないな」
「……そっか。それじゃ嫌な事とかは? 辛い事とか……ない?」
「……?」

 目を眇め、怪訝な表情で歩を見る。さっきからこいつは何故こんなにも心配げな瞳で迫ってくるのだろうか? 疑問符をぽんと一つ頭上に浮かべ、とりあえず質問に答えてみる。

「まあ……生きてれば嫌な事、辛い事があって当然だろ。人生はそんな繰り返しだと誰かが言っていたぞ?」
「それは、そうなんだけど……でも」
「おまえだってあるだろ? 心が痛くなるような嫌な事。泣きたくなるくらい辛い事。……私にもあったけど、それがどうしたというのだ。誰にでもある普通の事じゃないか」
「……でも、」
「さっきからおまえが何を心配してるかは知らないが、私は至って普通だよ。昔と何も変わらない。仮に私がとんでもない悩み事なりなんなりを抱えているなら、こうやって普通に会話する余裕なんて見せれないだろ。だから――」

 そこで、誰かが息を呑む気配を感じた。今の私の言葉がキッカケだったのだろうか、そいつはここまで流していた感情を、言わずにおいた言葉をここで露わにすると決めたようだった。



「――でも。やっぱり……そんな表情されたら何かあったんじゃないかって、そう思っちゃうよ」



 歩は寝そべった私の傍らに正座し、やはりこちらの顔を控えめに窺いながら不可解な事を言う。

「そんな表情……?」
「……ずっとだよ。外で会ってから、ここに運んでからも、食事をしてる間は少し違ったけど、それでもナギちゃんはほとんど……その表情を変えなかった」

 何を言っているのかはよく解らないが、なんとなく右手で頬をさすってみた。……それで自分の表情が判る訳ではないのだが、近くに鏡がないので確かめようはない。
 それよりも歩の様子の方が気になった。さっきまでの陽気さはどこへ行ったのやら――いや、あれはそういう風に振る舞っていただけではなかったか。そういえば再会してからのこいつはどこかぎこちない反応を見せていたような気がする。
 だとしたら……そうさせていたのは私の表情とやらが原因なのか?

「表情って言われてもなあ……仏頂面なら元々だぞ? 私は」
「……そんなのじゃなくてね。ナギちゃんはずっと」

 伏し目がちに、言いにくそうにしながらも歩は正直に見たままの感想を私にくれる。

「泣いてるみたいな……そういう表情なんだよ」

 言われて、呆けに取られた。今度は意味を携えて自分の頬に触れてみる。涙は伝っておらず、その痕跡もない。当然である。泣いた覚えなんてどこにもないんだから。

「……泣いてないんだけど?」
「うん……そうなんだよね。それは、分かってるんだけど……」
「……おまえ、ふざけてるのか?」
「ご、ごめん……でもふざけてる訳じゃなくて、その、あのね」

 凄みを利かせた眼光に歩は、びくっ、とまるで小動物のような愛嬌たっぷりの反応する。同時に身振り手振りで何かを説明しようとするも、結局私に何をどう伝えたらいいのか分からなくなったかのように挙動を抑えた。

「訳の解らん奴だな……ああ、多分疲れてるんだろ。さっさとベッドに入って寝ろ。……私は帰る。なんだかんだでもう八時だからな」

 思いのほか軽くなった体を上半身だけ起こし、首やら肩やらを回したのちに立ち上がろうとして、

「え? もう九時を過ぎてるけど……」
「――――」

 その言葉に一瞬、体の動きが止まるが、気にせずその後すぐに立ち上がった。

「……遅くまで悪かった。早々に帰るとするよ。乾かしてた私の服はどこに――」

 いま着ているのは濡れた私の服の代わりに寄越された歩の服だ。胸の部分がぶかぶか、手足の裾がだぼだぼなのが実に腹立たしいがそれは夕食の礼として許そう。
 どこかに干してあるはずの自分の服を探すべく辺りを見渡そうとした時――私の手は何者かに握られた。

「……おい?」
「あ……これは」

 触れた手の感触は柔らかく、温かかった。

「これは……なんでもないの」
「……は?」
「ただ、このままナギちゃんを一人で帰したらいけないような気が……して?」
「はあ? なんで語尾に疑問符がついてるんだよ。……とりあえず離せ」

 振り払おうとしたが、歩と私の手は間に接着剤でも混入したかのように離れない。
 ぶんぶんと力強く振り回す。やっぱり離れない。

「「――――」」

 互いに沈黙。私は迷惑そうに睨みつけ、歩はそれに負けじと懸命に眼差しを強くして対抗してくる。
 ……意味不明だ。このやりとり、食事を終えてからのこいつの発言全て。同時にそれらに対する考察は一切無駄だと直感が告げる。

「なあ……離さないと頭突きするけどいいか?」
「……だ、ダメ。痛そうだから」
「なら、何をしたら離してくれるんだ?」
「……分からない」
「殴るぞ?」
「ぼ、暴力はいけないんじゃないかな……?」

 言葉、態度こそ臆病なくせして、その握る手にはどうにも意志が折れる気配を滲ませない。
 視線の圧力をもっと降りかけると折れるかもと思い、冷ややかな睨みを重ねてみる。歩にとっては慣れたはずのそれだが、数年ぶりとあって私に対する耐性が薄れたのであろうか。一瞬、歩の背景に涙目で怯えた様子のハムスターが見えた気がした。

 ……さて、どうするか。どうもこうも“屋敷に帰る”しか選択肢はない訳であり、いま与えられているのは、西沢歩の手をどのようにして引き剥がすのかという課題である。
 力尽く、暴力に訴えるなど論外。口ではそう脅してみたがこいつは一応、今日に限っては私の恩人なのだ。そんな事は間違っても出来ない。
 ならば言葉巧みに説き伏せるか? それこそ論外と言えよう。私は話術に長けている訳でもなし、それに何より、いま向けられている視線を見てみろ。どういう訳かさっぱりだが、必死さと鬼気迫るものを孕んだ瞳を受けて、そんな相手に一体どんな言葉が通用すると? やってみないと判らない事だが、おそらく無駄骨に終わる。

 考えてみては、却下。浮かび上がる提案も悉く不採用。握られた手を離してもらう――ただそれだけの事を、答えの出ない難問に挑むが如く、私の眉間には皺が増えていくばかりであった。



To be continued,

[前へ*][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!