Interlude /0 少し古びたアパートの一室。 殺風景な部屋。最低限の生活器具が置いてあるだけで、飾り気というものを全く感じさせない場所。 白い壁は生活感のなさにより一層拍車をかけているが、その色はこの部屋に合っていると思う。 白は始まりの色。何者にも染まっていない色だからこそ、新しい生活を始めた彼に合っていると思ったのだ。 そこが大好きだった。でも今はきっと、この地球上のどこにもない場所。消えてしまった一つの世界と、決して叶えてはいけなかった幻想。 その場所に、ヒナギクは立ち尽くしていた。 これは夢というよりは記憶だろう。 誰かが――いや、自分自身で封印してしまった光景なのかもしれない。 大切な思い出だけど、忘れなければ罪の意識で心を保てなくなってしまうから。 一人の少女が、玄関の扉を開け放ち、こちらを見据えていた。 吹きこむ外気はとても冷たかった。まるで、過ぎ去ったはずの冬が舞い戻ってきたかのような風。 少女は靴も脱がずに土足で踏みこんできた。手にはナイフ。 呆然とする事しか出来なかった。遅れて気付いた見覚えのある少女の顔に、心が壊れてしまったように見えるその人形めいた表情にも、自分が床に組み伏されて少女がナイフを逆手に振り上げている事にだって。 お互いなんの言葉も交わさないまま、振り下ろされる凶器。しかし、それはヒナギクの胸の僅か上でピタリと止まった。 だから、悲劇なんて起きなかったはずなのだ。自分は死を免れたようだし、少女も殺人者になる事はなかった。 だというのに、朱い血がボタボタと垂れている。 ごほっ、とヒナギクの上に馬乗り姿勢の少女がどうしてか咳きこむ。それと同時にその小さな口元から血が溢れてくるのだ。 ――桂ヒナギクの罪は、気付けなかった事。 どうして気付けなかった? 考えればすぐ解る事だったのに。その答えは簡単で、考えもしなかっただけの話だろう。 自分の幸福の影で、誰かが不幸になっていたという可能性を。 上方から零れ落ちる自分のものではない血は、ヒナギクの頬を赤黒く濡らしてゆく。 見れば少女は声もなく笑っていた。 その表情には生気が戻っており、先ほどの人形みたいな顔がまるで嘘だったかのよう。 ただ静かに、何かを安堵したような含みさえ見せるその微笑。 だけど、ヒナギクにはそれがどうしても泣いているようにしか見えなくて、この少女にこんな表情をさせたのは一体誰なのかと罪の所在を自身に問い始める。 だが考えるまでもない、罪は自分にある。そして、あともう一人。 二人がかりで、一人の少女をここまで追いこんだのだ。 自分の罪も計り知れないが、彼はきっとそれを上回る。 おそらくは、彼がその残りの生涯を全て捧げたとしても到底償いきれない罪。 この世界に神さまなんていなかった。それはこの悲劇を目の当たりにしてようやく解った事。 だから罪を科すのは神さまではなくて自分自身。罰を与えるのもまた同じで自分でしかないのだ。 もしも彼――綾崎ハヤテがこの少女の悲しげな笑みを見てしまったら、その瞬間に彼は自身に罪と罰を下すだろう。 人の命が地球よりも重いなら、心を引き裂く事が何よりも痛みを感じさせる行為なら、彼はこれから一生、死ぬまでその重みと痛みの理解に努めなければならない。 そうやって生きて、歩き続けて、いつか彼が許される日はやってくるのだろうか? ヒナギクは考える。だが、それはきっとこないなと答えは割とすぐに出た。 神さまなんていない、罪も罰も与えるのは自分だけ。 ならば、罪を許すのも自分だけなのだ。 彼はきっと、人生最期の瞬間まで自分の事を許そうとはしない。 綾崎ハヤテは、真に守るべきだった大切なものを自らの手で壊してしまった。いつか少女と交わしたはずの約束さえ忘れてしまっていたから、彼が自分を許す日は絶対にやってこない。 そうして時間をかけて、彼はようやく思い出してゆくのだろう。 昔、二人はずっと一緒だと約束したあの日の光景と。 何よりも大切だったはずの、太陽みたいな少女の笑顔を。 人間なんて本当に愚かしい生物だ。失くしてみてからじゃないと、それに価値があった事すら知り得ないのだから。 「――――」 凶器を振るいきれず、腕を静止させたままの少女が一際多量に吐血する。 その血は少女が組み伏せたままのヒナギクの頬だけではなく、彼女の目の中にまで飛び散り、見える景色を血色に染め上げてゆく。 ――赤い部屋で、ふと思った。 いつだったか、悪い敵をやっつける勇者という存在に憧れていた時期があったなと。 本当に馬鹿馬鹿しい、これでは一人の少女を不幸にしただけの悪者ではないか。 そんなものになりたかった訳ではない、こんな悲劇を求めてなどいなかったはずなのに。 しかし現実は非情だ。桂ヒナギクは勇者として酷く不適格だという烙印を押されてしまった。 それならと、せめて願う。 本物の勇者が世界のどこかにいるのなら、どうかこの少女を救ってください。 自分を含めた悪者を全部蹴散らして、彼女に両手いっぱいの幸福を。 解っている。もう、何もかもが手遅れなんだっていう事くらいは。 この悲劇をなかった事にするとしたら、それこそ魔法のようなとんでもない奇跡が必要で、そんな愚考がただの夢物語な現実逃避だというのも充分に理解出来ている。 けれどそう願うしか贖罪にならないと思った、今はもう遠い春の夜―― /1 雨粒が銀色の髪と黒衣を濡らしていく。 少し強くなってきた雨を気にも留めずに、魔法使いは眼下の光景に見入っていた。 「――驚いた。ほとんど無傷じゃないか」 衣類が焼け焦げてはいるものの、目立った外傷が一つも見られない桂ヒナギクが、剥き出しの地面に気を失って倒れている。 その周りには敵を寄せつけまいとする、青白く光る結界めいた壁が展開していた。 「魔法障壁、か。いやはや、油断とはきっとこういう事を言うのだろうね」 ポリポリと頬を掻いた後、外人のように肩を竦めて両手を広げてみせる。 ――魔法障壁。 先刻、魔法使いがヒナギクの攻撃をことごとく弾き返していた、高純度の魔力で編まれた防壁である。 それが今はヒナギクを守護している。原因は明らかで、気を失ってもなお握り続けている木刀の残骸によるものだろう。 これは先の戦いを観た上で至った魔法使いの考察だが、ヒナギクが木刀正宗の正しい使用方法を知っていたとは思えない。 よって、魔法障壁をあの爆発に合わせて展開した訳ではなく、単なる偶然か、正宗自身が破壊された時に自動的に発動するようなプログラムでも仕組まれていたのか、それとも主人を守るという意思でも宿っていたのか。 真実は魔法使いにも解らなかったが、考えても仕方ないと片付ける事にした。 耳を澄ませば、遠くに救急車のサイレンが聞こえる。 生命力の吸引作業から少し時間が経ってしまった。大方、位置的な関係で意識を保てた誰かが電話で助けを呼んだのだろう。 「もう少し吸引していきたかったのだが、そろそろ潮時だな。まあこれだけ集まれば充分だろうからさっさと退散……と。さて、彼女の処遇はどうしたものか」 ヒナギクを見下ろす魔法使い。その視線からは殺意が消えている。 気を失った相手にトドメを刺すのは彼女の趣味ではないからだ。 それに、今は感心すらしている。どのような偶然がここで起きたのだとしても、魔法使いはヒナギクを殺し、中途半端に終えた生命力の吸引作業を再開すると決めていた。 だが結果としてヒナギクは気を失う事で死を免れ、魔法使いは吸引作業を諦めてこの場を離脱しようとしている。 だから魔法使いは感心している。二人の勝敗が己の目的を遂行する事で決定するのならば、此度の勝者は桂ヒナギクなのだから。 「やれやれ……という事はこの場合、私が敗者になるのかね。ああまったく、この世界の理不尽さには呆れを通り越して笑えてくるよ。――なあ、桂ヒナギク?」 答えが返ってくるはずがないのに問いかけるのは魔法使いの癖なのか、気を失ったままのヒナギクは当然答える事はない。 水滴がヒナギクの頬を伝ってゆく。その中の一筋が、この雨とは全く関係ないものだという事に気付いていたのか、魔法使いは肩を竦めて溜め息をついた。 /2 「ん……ぅ……?」 まどろみの中で目を覚ました。 薄らぼんやりと視界に映るのは見慣れた天井。多分、自分の部屋だなとヒナギクはベッドの上でこれまたぼんやりと考えていた。 「あっ!? おーい! 二人ともー! ヒナちゃんが目を覚ましたよー!!」 「なにぃ!? おお、本当だ! 喜べ美希、愛しのヒナが息を吹き返したぞ!!」 「ふおおおお!? い、愛しのマイエンジェル……ふおおおおおおおお」 「い、いかん! 今度は美希が死んだ! 泉、タンカだ! 今すぐ集中治療室に運ぶぞ!!」 「うん、空き部屋だね! 緊急搬送!!」 ……騒がしい声で頭が痛い。ドタドタと足音が遠ざかっていき、少し間を置いてまた誰かが近づいてきた。 「ヒナちゃん、大丈夫……?」 「う……泉? ここは……私の、部屋……?」 ようやくぼやけた視界と意識が定まり始め、心配そうにこちらの顔を覗きこんでいる人物が瀬川泉だと理解した。 そしてここは自宅マンションの一室、そこのベッドの上で寝ている事も。 自分は何をしているのだろう? 今日は仕事を休んだのだったか……いや違う、仕事はもう終わってその後まっすぐ家に帰って……いやいやこれも違う、確か白皇学院に忘れ物を取りに行ったんだ。それで―― 「――――ッ!?」 ガバッと、ベッドから上体を跳ね起こす。 体のあちこちから打ち身のような鈍い痛みが走るが、そんなものはどうでもいいとばかりに。 「あ、まだ寝てた方がいいよ!」 「な、なんで……私、ここにいるの……?」 フラッシュバックのように、先ほどまでの光景が頭の中で再生されてゆく。 自称、魔法使いだという黒衣の女性。 それに戦いを挑んで、全然歯が立たなくて最後には――そう、最後には空中に投げ飛ばされて、黒い炎が視界を埋め尽くしたところで意識は途切れた。 ……死んだはずではなかったか? そうでなくともここに自分がいるのはおかしすぎる。 いやそれよりもやっぱり、自分は死んだのではないのか? どんな奇跡が重なったってあの絶望的な状況から逃れる術なんか持っていなかったはずだ。 「……?」 ふと、右手に違和感を覚えた。 何も手にしていないと思っていたそこには固く、何かを強く握り締めていた。 「……正宗?」 それは魔法使いに破壊された木刀の変わり果てた姿だった。 残った柄の部分をどれだけ強く握ろうとも、かつての能力は二度と発動しない。 ……どうしてだろう? なんとなく、本当になんとなくだが、この木刀が自分をあの絶望から守ってくれたような気がしたのは。 「ヒナちゃんさ、それ握ったまま玄関の前で気を失ってたんだよ」 「え……?」 「ほんとにびっくりしたよー、ピンポーンってチャイムが鳴ったと思ってドアを開けたら誰もいなくて、下の方を見ればヒナちゃんが服ボロボロにして倒れてるんだもん」 その後の事を泉は語っていく。美希がパニクって救急車を呼ぼうと電話を手にするも時報や天気予報にしか繋がらないと涙目になりつつ叫んだ事とか、理沙が何故だか全速力で近所のコンビニからプリンを大量に買いこんできた事とか、泉がボロボロに焼け焦げている服を着替えさせようとしてもヒナギクが握って離さない木刀の破片が邪魔で苦戦、その後ろで美希が鼻血を流していた事とか。 「そう……なんだか色々心配かけちゃったみたいね。……まあ、プリンとか美希のくだりは意味不明だけど」 とりあえずありがとうと、泉に頭を下げる。お礼を言われた相手はえへへ、と何やら照れている様子。 残りの二人にも心配かけた事を謝らねばなるまい。 謝るのはいいとして、状況の説明はどうしたものだろうか。 実はさっきまで魔法使いと戦っていたんです、とか? ……やめておこう。それを口に出すのはなんだかとても嫌だし、頭のネジをタンスの裏あたりに落としてしまった人みたいに思われてしまう。でも三人ともバカだから案外これで納得したりするかもと、ヒナギクは小さく笑ってみたりもする。 「まあとりあえず美希と理沙のところに行かなきゃね。泉、あの二人は今空き部屋に――」 ベッドから立とうとするが、その前に軽い目眩がヒナギクを襲う。 「だ、大丈夫!? や、やっぱり寝てなきゃダメだよ、いやそれよりやっぱりお医者さんを、」 「……大丈夫よ、起きたばかりで少し目眩がしただけだから」 あたふたする泉を安心させようとしたのだがヒナギクの顔色は相当悪く、声もかなり弱々しかった。 その様子を見た泉が「やっぱりお医者さんー!!」と叫びながら部屋を走り去っていく姿を止める間も逃してしまい、ヒナギクは短い溜め息をつく。 「はあ……大丈夫だって言ってるのに。目眩はもう消えたし、体調だって特に悪い感じはしないんだから」 その言葉に嘘はなかった。体が痛むとはいっても少し休めば回復する程度だろうし、頭痛も吐き気もないから問題はないと思う。 強いて言うなら、今も額に浮かぶ汗の量が少し多いくらいだろう。 体調は万全で室温もどちらかといえば寒いくらいだから、そこに若干の不自然さを覚えるものの気に留めるほどの事でもないはずだ。 手のひらで額の汗を拭う。 べちょり、と嫌な音がしたのはただの気のせいだったのか。 「――――」 拭った手のひらを見て一瞬、心臓が止まった。 結論から言うと、そこにあったのはただの汗でしかなかった。当たり前だ、汗を拭ったのだから手のひらに付着するのは汗でしかあり得ない。 だから錯覚だったのだ。 その汗が、大量の血に見えたのは。 「やっぱり……お医者さんに診てもらった方がいいかもしれないわね……」 本人が気付かないだけでどこか頭でも打ったのかもしれない。そう後に続ける言葉と汗が残留した右手が、微かに震えている事にヒナギク自身が気付けていなかった。 ――雨がほんの少しだけ強くなってきている。 それでも小雨には違いないが、窓から覗く黒雲はより一層の厚みを増しているように思えた。 Interlude out. 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