X‐B
午後六時。
外はもう陽が沈んで、夜の様相になりつつある。
夕食の準備は既に済ませたので、僕はそれを報せる為に主人の寝室に向かっていた。
「お嬢さま? 夕食の準備が出来ましたよ?」
部屋の前まで来て立ち止まり、ノックする。
……返事は無い。もう一度ノックを試みたが返事は返ってこなかった。
いつものように寝ているのだろうか? だがそれは無いと頭が否定する。
扉越しの気配で理解した。この部屋の中には今、誰もいないと。
それでも一応、口で断ってから扉を開けて中に入る。
「……書斎の方かな」
明かりの無い寝室は、窓から漏れる薄い藍色が差しこんでいるだけで、人の気配はまるで無かった。
今度は書斎へ。三千院ナギは一日を通して、その場所にいる事が最も多い。
部屋の前に着くと、さっきと同様にノックをする。
「ここにもいない、か」
光が届かないほどに難しい書籍で埋め尽くされた空間にも、彼女の姿は無かった。
机の上に今朝渡した小説がある事から、しばらくの間この場所にいた事はうかがえるが、その先の行方は知れない。
順当に行って次はゲーム部屋。だが、そこに足を運んでみても彼女の姿を確認出来なかった。
「……おかしいな。どこにもいない」
他にも屋敷内でいそうな場所を全て回ってみたが、これも結果は同じ。
もしかしたら探している間に入れ違いになったのかもしれない。
そう思い立って、もう一度寝室に向かおうとしたところでふと、遠くで何か物音が聞こえた気がした。
「今の音は……?」
常人ではおそらく聞き取れないほど小さな音。
あまり自信は無いが、何かが割れる音だったように思う。
音のした正確な場所はさすがに分からない。けれど方角は分かる。
僕は足早にそこへ向かった。
そして、ほどなくして足を止める。
書斎の扉が開いていた。ほんの少し前にここを調べた後はきちんと閉めたはずだ。
それなら、僕の屋敷巡りはここで終わりだろう。
「……」
――しかし、そこには誰もいなかった。
その代わり、さっきは無かった物が床に落ちていた。
「これは……」
一枚の写真が収められた、木製の額縁が特徴的な置物。
劣化を防ぐ為のガラス部分はしかし、何か強い衝撃でも受けたのかひび割れていた。
写真の中の住人は二人。この屋敷の主人と執事。
どちらも幼さが残った顔立ちだ。それも当然で、撮影した時期が何年も前なのだ。今とは、違う。
……何故だか、しばらくその写真から目を離せないでいた。
二人とも、笑っていた。
何かが楽しかったのか、それとも何かが嬉しかったのだろうか。
写真の二人は見ているこっちが恥ずかしくなってしまうくらい、幸せそうに笑っていた。
不思議だった。この二人のうちの一人は紛れもなく、自分なんだっていう事に。
……まるで別人だ。何がどういう風に、なんて分からない。ただ、それが素直な感想だっただけ。
写真の中の綾崎ハヤテはどうしてそんなに幸せそうなんだろう?
――そんな事を考えていた。
「……っと、何をしてるんだ僕は」
我に返る。今はこんな事している場合じゃないだろう。
ここに彼女はいないんだ。早くしないと、いい加減夕食も冷めてしまう。
ひび割れた写真立てを机の上に置いて、部屋をあとにする。
向かう場所――三千院ナギがいる場所はかなり絞られた。
さっき聞こえた音は多分、書斎にあった写真立てが割れた音。
つまり、彼女はあの部屋にいて僕と入れ違いに書斎を出た。僕が書斎に行くまでに出会わなかったという事は、彼女はこの先、居間の方角に向かったのだろう。
そうして、居間の扉の前まで来た。
――いる。
扉越しに誰かの気配。
誰かなんて、考えるまでもない。
この屋敷には僕と、あと一人しかいないんだから――
「……ふぅ」
思わず零れる息。
結構本格的に屋敷を探し回ったが故の疲れからか。
居間には三千院ナギの後ろ姿が在った。
部屋のテーブルには今夜の夕食が並べられている。
「探しましたよ、お嬢――」
不意に。
「――え?」
居間に響く大きな音。
一瞬のうちにテーブルの料理は消えていた。
否。それらを乗せた食器ごと、床に無惨な姿で散らばっている。
大きな音は食器が割れた音。
そしてそれは、彼女がした行為であると、だいぶ遅れて理解した。
「あ、の……お嬢、さま……?」
声が上手く出せない。
理解しても、頭は混乱していた。
どうして彼女がこんな事をするのか? 思考が現実に、まるでついていかない。
僕が知っている三千院ナギは、地球がひっくり返ったって、こんな事はしないはずだ。どう間違っても、決して。
いや、その事自体は別にいいんだ。料理がダメになったのなら、また新しいのを作り直せばいいだけ。ああそうだ急いで作り直そう。そうすればきっと全部元通りなんだから。けどその前に床が汚くなったから片付けよう。まずは割れた食器の破片を集めてその後は、
「まずそうな料理だ。食べる気が起きない」
ぐちゃり、と。
夕食の残骸を足で踏みにじる音。
――それだけ。ここにあるのは疑いようもない、明確な悪意のみ。
床の片付けをしようと膝をついた体制で、視界がぐらついた。
――どうしてだか、あの悪夢と同じ嫌悪感を覚えた。
麻酔でもうたれたかのように意識が朦朧とする中、かろうじて視線を上げてソレを視界に捉えた。
「……ぁ」
凍りつく。体も、心も、何もかも全て。
そこにいたのは誰だったのか。
感情の宿らない瞳。その奥はどこまでも真っ黒で底が無く。
色の亡い顔。それは作られた人形のようにあまりにも無機質で。
見下ろすその視線。
一瞬。ほんの刹那。
僕は、三千院ナギという名前を、忘れた。
To be continued,
[前へ*][次へ#]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!