T‐B /0 ――その夜、また夢を見た。 時間を凍結させるほどに冷たい雪が、星の亡い夜空から深々と降り注ぐ。 目の前にあるのは少し古びた自動販売機。灯りが不気味に明滅しているそれは、例えるなら壊れた玩具といった感じだろうか。 その更に向こう、視界の遠方に桜の樹が見えた。これ以上は無いくらい満開に、繚乱に咲き乱れている。 先ほどまでは確かに吹いていた風は、いつからか止まっていた。 どれくらいの間、泣いただろう。 涙は既に枯れ果て、嗚咽を零す喉は潰れ、感情は全て死んだ。 人形――今の自分はまさにそれだ。 何も感じなければ、何もしない。ただそこにいるだけの、人形。 そんな人形の瞳に映る光景は皆、ひび割れて見えた。 まるで、ガラス窓に固い金属でも打ちつけた時のように。 亀裂は亀裂を生み、あとは崩壊する時が来るのをを静かに待つのみだ。 世界が壊れるのか、それとも自分だけが壊れてゆくのか。 どちらでも良かった。失ってしまった自分にはもう、関係ない。 大切な何かを失った――それがなんだったのかを思い出そうとする心も、自分は失ってしまったらしい。 金砂の髪が、腕の中で儚げに揺れた。 雪の白に反射して輝いているその髪色は、どこかで見覚えがあった。 だがやはり、人形にはそれを思い出せるだけの心が、残っていない。 『――――』 途端、声らしきモノが聞こえた気がした。 『――こんばんは』 透き通ったその声は、色で表現するなら文字通り、透明だ。中身が希薄という意味ではない。むしろ、何者にも負けないような綺麗さがその色には宿っていたように思う。 声がした方に顔を向けた訳でもないが、その色はとても綺麗な女性の姿を連想させた。 『これは――あなたが――未来――?』 しかし言葉がつぎはぎだ。不連続な言葉は文章として機能せず、その断片からは何一つとして意味を見い出せない。 それを残念だと感じたのは、おそらくは気のせいなのだろう。 人形に、感情は無いのだから。 ピクリと、しかし人形はその言葉に音も無く反応した。 意味は解らない。――いや、知らないだけなのだ。 ただ、知らないだけ。 それだけの事が、虚ろな人形――綾崎ハヤテという名前だった自分を酷く苦しめる。 だから逃げるようにして、人形はその瞳を声のした方へと向ける。 これを夢と、そう呼称するのであれば、悪夢というのが正しい。 /1 ――あの夢の始まりがいつだったのか。今ではもう、思い出す事叶わない。 「また、あの夢か……」 重い溜め息と共に、呟きが空間に浸透してゆく。 部屋の中は黒という黒に塗りつぶされていた。時刻がまだ月明かり冴え渡る深夜という事なのだろう。 寝室のベッドの上で気だるそうな表情を浮かべながら、僕は夢から醒めた。 身体はまるで鉛みたいに重い。気分も最悪な感じだ。 “あの夢”を見た後は、決まっていつもこんな調子である。 どれほどの時を重ねても、慣れる事は無い。 何回見ても、あの夢は自分にとって悪夢でしかないのだ。 悪夢と称するからにはそれなりの理由がある。 夢の中で強制的に植え付けられる感情――恐怖。 恐怖とは、結果だ。その感情が芽生えるまでの過程もしくは原因が、普通であるならば存在する。 だというのに、アレにそんなものは無い。 何か原因が起きて、あらゆる過程を経て、それから初めて恐怖などといった感情が出来上がる筈なのに、あの夢はその順番を無視している。 ホラー映画を例とするなら、一番怖いラストシーンを最初に見てしまった感じか。 視聴者には理不尽な恐怖だけが植え付けられる。そこに至るまでの過程を知らないのだから、当然のごとく意味は解らないし、感動もしない。 あの夢はまさにそれだから、僕はアレを悪夢と呼んでいる。 「二日連続で見るなんて……しかも昨日は起きてる間にも……」 その悪夢には、訪れる周期みたいなものが一応あった。 大体一週間に一回、そのくらいの間隔だったから、二日で三回も見るなんていうのはどこか異常めいている。 ……それは違うか。あの夢自体がそもそも異常なのだ。周期や間隔がどうこうと考えるのはおかしい。 夢の異常さを説明するのに、言葉では多少限界があるかもしれない。 それでも説明しなければいけないのなら、さっきのホラー映画の例をそのまま引用する。 あの夢において最も異常な点は、僕の“立ち位置”。 夢はホラー映画の“ビデオテープ”として、それを再生してテレビ画面の中にいるのが“自分”。 そして、それを真っ暗な部屋で灯りも付けずに眺めている視聴者が、“僕”だ。 どういう意味か――つまり、自分が自分を第三者に思ってしまうような感覚なのだ。 そんな訳はない。テレビに映っているのは紛れもなく自分で、それを見ているのも間違いなく自分。 それなのに、何も感じない。 液晶画面の中で“自分”が泣いていても、何も感じない。 人形みたいに色を失った瞳を見ても、何も感じない。ただ、怖いだけ。 あれは赤の他人だと、そう思ってしまう。加え、過程を全て取り除いた結果だけの映像を見せつけられているようなものだから、感動出来ない。 夢の中の風景――自動販売機や凪ぐ夜空、そして桜と雪。 やはり、そのどれもが悲しげな色を放って、恐怖でしかない。 恐怖以外の感情があったとするなら、あの女性の声―― 「――ぶっ!?」 意味もなく寝返りを打とうとしたのが運のツキだったのだろう。 仰向けの姿勢からうつ伏せへと移行したと同時に、ベッドから落ちる自分。 その、床に顔面を強打して痛みに悶える姿は昨日と全く同じような気がした。 「……」 例のごとく思考は中断され、痛みが地味に残る鼻をさすりながら、ゆっくりと床から無言で立ち上がる。 「……トイレ行こ」 そうして、静寂が立ちこめる昏い廊下へと歩み出た。 洗面所に向かう為には長い廊下を抜けなければならない。 この屋敷は良く言えばしっかりと区域が分けられた造りだが、悪く言えば実際に住む人にとってかなり迷惑な造りをしている。 自分と、その主人が寝息を立てる居住の区域。居間やトイレなどといったものがあるその他の区域。 それらを繋ぐ連絡橋みたいな用途で使われるのが、僕が今歩いている廊下だ。 渡り廊下ではなく連絡橋という表現の仕方が、普通の長さではない事を物語っていたりする。 「外、暗いな……」 廊下の右手に張り巡らされている窓の外には、一切の光も無かった。 こちらは太陽が昇る方角であって、月が堕ちる方角ではない為だろう。 見えるのは、気分が陰るだけの闇ばかりだ。 よって、廊下にも光は無い。これでは先が見えないから歩くのは無理だろう――なんて事はない。 この廊下の数少ない利点として、横幅も広いというのがある。その広さ故、明かりに頼らず適当に歩いても問題なく進めるのだ。 「……?」 洗面所があるのは、廊下の突き当たりにある居間を左に曲がった所。 しかし左に曲がる事なく立ち止まったのは、その居間の扉が半開きになっていたからだ。 「お嬢さま……?」 その扉を開ける前に自分が仕える主人の顔が頭をよぎったのは、屋敷に自分と彼女の二人しかいないからか。 ――いや、仮に今この屋敷にたくさんの人がいたとしても変わらなかったかもしれない。 この扉の向こうに彼女がいると、根拠も無く、そう確信していた気がする。 扉が開けたと同時に感じたのは春らしい、涼しげな夜風だった。 風が吹いたのは居間の奥にある窓が開いていたからだ。 その窓の先には簡易式のテーブルやイス……とはいっても高級品であるのには違いないが、そういったものが設置されている。 ――ほんの一瞬、風が強く吹いた。 その刹那の合間に、視界が金色に染まる。 流れるように輝くそれは、例えるなら金砂だろうか。 雲間から覗く月の光と同調したそれは、人間の髪なのが不思議なくらいに美しかったと言っても、おそらくは過言ではない。 ――風は止み、その、いつもの髪留めを使用せずに腰まで下ろした長髪は、持ち主の背中へと舞い戻った。 「……」 声は口から出ず、言葉は喉で止まる。 最初から、声をかけるつもりはなかった。 今、自分が立っているのは居間の扉付近。彼女がいるのは少し離れた場所。 この距離でも、月明かりの下にいる彼女の表情は見て取れる。 その横顔はぼんやりとしているようでいて、何かを真剣に考えている風だった。 三千院ナギという少女は、たまにああいう表情をする。 出逢った頃はそんな表情を見る事は無かったと思う。確か、マリアさんが屋敷を出て行った辺りからだろうか? 昨日だってそうだ、買い出しの終わりに飲み物を遅れて持っていった時もあんな顔をしていた。 この時は大抵、僕が言葉をかけても彼女は反応しない。 耳から耳へとすり抜けて、完全に上の空と化すのだ。 何か悩み事でもあるのかと、そう訊いた事もあるのだが、返答はいつも決まって「そんなものはない」だった。 本人がそう言っている以上、本当に悩み事は無いのか、それか僕には相談出来ないかのどちらかだろう。 なんにせよ、自分の出る幕では無いように思えた。 だから、僕がこのまま声もかけずに身を翻して居間を離れるのは、別に不思議な事でもなんでもない。 踵を返す。 半開きの扉を静かに閉める間際、金髪の少女が少し悲しげな表情を見せたのは気のせいだったのか。 僕はそれを確かめようとはせず、扉は完全に閉められた。 「あっ……休暇の件、今言えば良かったんじゃ……」 閉じた扉を振り返りかけるが、足は本来の目的地である洗面所へと向けられた。 あの少女に言わなければいけない事があったのだが、明日にしようという結論でまとめる。今言ったとしても、例の考え事か何かで聞いてくれそうになかったからだ。 「明日はヒナギクさんと……」 不意にその名前が口から出てしまい、どうしてだか赤面する。 今の今まで頭の中で思い浮かべていた三千院ナギという少女の姿は、彼女以外の人物の姿に上書きされた。 軽く上気した頬に笑みを乗せて、居間の扉から遠ざかってゆく。 ―――――――――――― ―――――――――――― この時――いや、下手をしたらあの冬の夜からずっと。 僕は、三千院ナギの事を何一つ理解出来ていなかったのかもしれない。 扉を境界線として、かたや、もの思いに耽る少女。 そして、彼女とは対照的な笑みを浮かべる自分。 僕はこの時、気付けていなかったのだ。 少女を護るという、あの誓い。 それはもうとっくの昔に、他の誰でもない自分自身で破っていた事を。 To be continued, [前へ*][次へ#] [戻る] |