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T‐A
 



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 ――目の前に、分かれ道がある。

 その分岐点に私は立っていて、そこにある立て札を眺めていた。
 書いてある文字はこうだ。

『右に進めばあなたは幸せになれます。でも左に進めばあなたは不幸になってしまいます』

 私はそれを見て、その場から一歩も動こうとはしなかった。
 迷っているのだろうか? どちらの道を選ぶべきかを。
 だとしたら、おかしな話だ。百人いたら百人中全員が迷う事なく幸せになれる右を選ぶというのに、何を迷う事があるというのか。
 そう思い、私は右へと足を運ぼうとして、ピタリと動きを止めた。
 そしてまた立て札を眺める。また右に行こうとして、また止める。
 その繰り返しを、私は今まで何回してきただろう? 分からない。数えていないから。
 いつまでもそんな事を繰り返しているから、忘れてしまう。見失ってしまうのだ。自分が、本当に選ぶべき道を。
 視線を左の道へと移した。道の先は暗く、果てしない闇が続いているようだった。進めば間違いなく不幸になってしまうだろう。
 今度は右の道を見てみる。眩いほどに輝いている光がそこにはあった。幸せというものが、私の望んだ世界がその先にあるのだろう。
 後ろを振り返ると、そこは光も闇も存在しない。
 “無”だけが在った。もう後戻りは出来ない。目の前の道を進むしかないのだ。

 幸せになれる右と、不幸になる左。
 私は、どちらを選べばいいのだろうか?

 分かりきっているくせに、悩む。
 どちらが正解なのか知っているくせに、悩むフリをする。

 ――左に向けようとした足を止めて、私はまたその分かれ道の前で立ち尽くす。



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「……」

 閉じていた目をゆっくりと開き、ベッドの上で横になりながら手の甲を額にあてた。
 寝室に響いている時計の秒針を刻む音だけが、この部屋の静寂を微かに破っていた。
 窓の外にそれらしい明かりは見当たらず、黒一色の世界が広がっている。時刻がまだ深夜である事を示していた。

 眠りはだいぶ前から醒めていた。
 寝つけなかった訳ではない。昨日はいつもより早く寝床についた為、起床する時間帯が早まっただけの話だ。
 早く寝たのは疲れていたというのもある。だが今日は昨日と違い、寝坊出来ない理由があった。

 今日は“連絡の日”だ。

「……そろそろ時間だな。さっさと着替えるか」

 誰もいない部屋で呟き、ベッドから出て着替えをしたのちに部屋をあとにして、静寂だけが支配する屋敷の廊下を歩いてゆく。
 現在時刻は深夜の午前二時。



 例の長い廊下を抜けて居間にたどり着くと、その部屋に電子音が鳴り響いていた。
 電話だ。こんな時間に一体どこの誰がかけてくるのか? という疑問を抱く事もせずに私は受話器を手にとった。

「私だ。――ああ、何かおかしな動きはあったか?」

 その電話の主が誰か、話の内容、この時間にかかってくる事、事前に全部知っていたから私は今ここにいる。
 淡々とした口調で私は電話の相手と会話を続けた。

「……そうか。それじゃ引き続き頼む。――ハヤテ? あいつは……大丈夫だ、心配要らない」

 受話器の向こうにいる人物の口から、次に屋敷へ電話をかけてくる日付と時間を聞いたところで私は電話を切った。

「今のところ動きは無い、か……やはり警戒しているのか?」

 独り言を口にしながら居間にある窓へと近づく。
 窓を開くとそこは欧風な造りのテラスになっており、足を踏み入れた私の眼下には夜風に花が揺れている庭園があった。
 空に浮かぶ月が、暗雲を払うように光輝いている。

 テラスにある椅子に腰掛け、朝を報せる青白い光が視界を埋め尽くすまで、私はぼんやりと何かを考えていた。



 /2



「休暇が欲しい?」

 居間のテーブルには高価そうな食器類が並べられており、その上には見栄えが良いとは言えないながらも私の力作である料理達が盛られている。
 そんな朝食風景の中、私は驚きの表情を浮かべて、それまで動かしていた箸を止めた。

「は、はい……えっと……」

 何やら気まずそうにしながら言葉を言い淀む執事が目の前にいた。

「昨日の内に言おうとしたんですけど……お嬢さま、早く寝てしまったので……あ、でもやっぱりこんないきなりじゃ――」
「いいよ、別に」

 私の即答にハヤテが口をポカンと開けてしばらく沈黙した後、「え? い、いいんですか!?」と思い出したように困惑し出した。
 私の方は既に驚きの表情を消して、普通の表情に戻っている。
 止めた箸を再び動かして料理を口に運ぶ。自分で作った朝食故にあまり美味しくない。むしろマズい。

 ――今日一日、執事の仕事を休みたい。
 その言葉に驚いたのは、初めてだったからだ。
 ハヤテの口から休暇なんていう単語が飛び出た瞬間を、私は今初めて目にした。
 だからそれに驚いたのは必然で、それを承諾する事もまた必然だった。
 休む理由を特に訊いたりはしない。外せない用事でもあるのか、それともたまには思いっきりサボりたいのか。
 なんでもいい、ハヤテには休む資格が充分過ぎるほどにあるのだから。
 執事という仕事の性質上、休日は無い。加えて体力も使うしなかなかハードだ。
 たまにくらい、休んだっていい。
 言ってくれさえすれば何日だって休んでもいいのだ。

 私は別に、執事だからという理由でハヤテを縛るつもりはないから――

「――はどうしたら……お嬢さま?」
「ん? どうした?」

 朝食を食べる為、右手に握った箸は変わらず動かしていたがハヤテの話は聞いていなかった。
 最近は少し、意識が別の場所に行く傾向が見られる。

「悪い、なんか言ってたか?」
「……? あ、はい。僕、午前中に出かけるのでお昼ご飯はどうしようかと……」
「なんだそんな事か。昼食くらい自分で作るから気にしないでいいよ。なんなら夜食も作ったって構わない」
「え!? いや、さすがにそれは……」
「せっかくの休みなんだ、時間なんて気にせずに羽根をのばしてくればいい」

 私がそう言うと、またもや口をポカンと開けているハヤテの姿が瞳に映り、

「あ、ありがとうございます! お嬢さま!!」

 大げさに涙を目に滲ませながら、太陽も顔負けの笑顔が咲いた。
 なんだか、そういう反応をされると私もつられて笑顔になってしまう。
 良い事をした、そんな気分だった。
 その幸せそうな表情を作ったのが他の誰でもない自分であるという事が、嬉しかった。

 ――偽善者。

 自分の心の奥底にいる誰かが、何かを否定するような言葉を呟いた気がした。



To be continued,

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あきゅろす。
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