V‐B
三千院の屋敷の周辺は人気が少ない閑静な住宅街となっている。
数分も歩けばそれなりに人通りが多い商店街の一角が姿を現すが、やはりここら一帯は住宅街という感じが色濃いと思う。
とはいえ、交通の便が無いという訳でもない。バス停はそこらかしこに存在し、タクシーも何故かよく頻繁に通る。駅までの道のりに徒歩は少しキツいが、前述の交通手段を使えばあっという間に駅へ着ける。
今、ちょうど目の前にあるバス停からだったら、ものの十五分くらいで駅にたどり着けるだろう。
視界に入ってくるバス停の上部には日除けと雨除けを兼ねている屋根があり、そのすぐ近くには時刻表が貼り付けられているボードがあった。
「えっと……次のバスは三十分後か。結構時間かかるわね」
女性が溜め息混じりにそう呟いた。
休日という事もあり、平日よりもバスがやって来る間隔は長い。おとなしく待つしかなさそうだと諦めた彼女は、停留所に備え付けられた金属製のベンチに腰を預ける。
それに倣うようにして、僕もベンチに座った。
「時間が過ぎるのなんてあっという間ですから、すぐに来ますよ」
僕がそう言うと隣の女性が「それもそうね」と微笑した。
午後という時間帯の為、太陽が傾いてきている。停留所の日除けはその役割を果たさずに彼女の横顔を照らしていた。
その輝きの中にある端整な顔立ちと、差しこむ陽光に反射して微かに桃色がかった長髪。
それらを見て綺麗だなと思ったのは、何も不思議な事ではないだろう。自分以外の誰が見たってそういう感想に行き着く筈だ。
それくらいに、綺麗な女性だと僕は思う。
「どうかした?」
「――へ? あ、いえ別になんでも」
言われてハッとする。無意識に彼女の横顔を見ていた事を気付かれ、首を少し傾げた様子でこちらを見やってきた。
「……体調の方は本当に大丈夫? なんだかまだ少し顔色が――」
「あ、それはもう本当に大丈夫ですよ。多分、少し疲れてただけですから」
身振り手振りで自分が元気である事を伝える。
僕のその動作に彼女が少し訝しげにしているのは、持ち前の心配性な性格から来ているのだろう。
そんな彼女の表情に苦笑する。僕は、嘘があまり上手くない。
正直、体調は良いと言えるものではなかった。先ほどの頭痛は治まりはしたものの、気分まで元通りという訳にはいかなかったのだ。
風邪などの病気の類ではない。熱は無いし、脈拍も正常だ。
そもそも病気を患うほど自分の健康管理はずさんではない。
だが、得体の知れない悪寒が自分の精神状態を蝕んでいた。
突き刺すように冷たいその感じは、例えるなら雪。
その単語には幻想的で綺麗なイメージがつきまとうが、これはそんなものではない。
むしろ対照的な、恐怖。
辺り一面、雪に閉ざされた世界の中にポツンと独りぼっちにされたような感覚。
そんな悪寒が自分の心に芽生えたのは紛れもなく、例の頭痛が自分を襲ってからだった。
あの、おかしな光景が頭の中に流れこんできてから――
「それにしても、ヒナギクさんとまた会えるなんてスゴい偶然ですよね」
やめよう。そう思い、思考を遮断する。
今はそんな事を考えるより、なるだけ元気を装うのが優先だ。
それはもちろん、彼女――桂ヒナギクを心配させない為である。
僕が言ったその言葉に、彼女は訝しげにしていた表情を解いて頬を緩ませた。
「本当にね。東京って思ったよりも狭いのかしら?」
冗談っぽく笑う彼女を見ていると、なんだか懐かしい感覚になってくる。
僕がまだ高校生だった頃の、自分が生きてきた中で一番楽しいと思えたあの日々が蘇ってくるかのようだ。
それはひとえに、桂ヒナギクという女性が僕の高校時代の友人だからだろう。
そんな友人との偶然としか言いようがない再会は、今から数刻前の事だった。
突然の頭痛に襲われ、道端に座りこんでしまった僕へと心配そうに声をかけてくれた人物が彼女なのである。
最初はただの通行人だと思いこんでいた僕だったが、彼女が見知った人物であるという事は若干の時間差はあったものの、気付けた。
それから数秒もしないうちに彼女の方も気付いたみたいで、驚いた様子で僕の名前を口にした。
お互いにしばらくの間、口をポカンと開けながらその場に立ち尽くしていたと思う。
そして、何か言葉を紡ごうと決意した二人の声が重なった。「久しぶり」と。
「卒業式以来ですから――大体、五年ぶりですか」
「……そっか。もう、そんなに経ったんだ……」
その視線はバス停沿いの道路に向いているが、彼女が見ているのはそんなものではない気がした。
目に見えない遠くにあるものを見つめているような、そんな視線だった。
「ヒナギクさんは大人っぽくなりましたよね、なんだか見違えましたよ」
「へ? そ、そう? 私……その、変わっちゃったかな?」
頬を紅く染めている一方で、どこか動揺した仕草を見せる彼女。
……自分は今何かヘンな事を言っただろうか?
「そうですね、高校生の頃と比べれば結構変わったと思います」
「…………」
一瞬だけ、隣に座っている彼女の表情に陰りが落ちた気がしたが、
「でも――何年経っても、ヒナギクさんはヒナギクさんでした」
「え?」
「こういう風に話してる感じが、高校生の時と全然同じですから」
それは気のせいだったらしく、そこにあったのは懐かしい笑顔だった。
高校に通っていた頃、当たり前のようにあったその笑顔。
正直、それはもう二度とお目にかかれないものとばかり思っていたのだ。
高校を卒業して、僕と彼女はそれぞれ別々の道を歩き出した。
僕は三千院家の執事という道。彼女は――どんな道かは知らないが、きっとあるのだろう。
どうであれ、その二つの道はもう一度交わる事は決してない。そう、思っていた。
だけど、今自分の目の前にあるのはその二つの道が交差した瞬間。
不思議な気分だ。この胸に広がっていく暖かな何か。これは確か――嬉しいという感情ではなかっただろうか?
そんな感情が湧いたのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。
「ハヤテ君の方は……あまり変わった感じがしないわね」
「そ、そうですか? いや、でもよく見ればなんか変わったところが――」
「無いわね」
「あはは……相変わらず手厳しい……」
彼女の即答に少しショックを受けながらも、それに納得している自分がいた。
何一つ変化しない毎日。僕が選んだ道はそういう道だ。
その中で何をどうすれば綾崎ハヤテという人間に変化が訪れるのだろうか?
誰に問うでもない呟きが、自分の心に小さく響いていた。
「ハヤテ君は、ハヤテ君でしょ?」
「……え?」
「私にとっても変わらないわよ、何年経っても。高校の時と同じ、あなたは私の――」
ふいに彼女が言葉を切って、沈黙した。顔を少し俯かせている。
バス停沿いの道路に一台の車が通り、過ぎ去ってゆく。
「ヒナギクさん?」
「あ……ごめんなさい。えっと……あなたは私の、友達だから」
途切れた言葉の先を継ぐように、彼女は言った。
友達。その言葉を聞いて湧き上がってくるのは、やはり嬉しいという感情だった。
久しく忘れていた感情を、彼女は次々と自分に思い出させてくれる。
その様はまるで魔法のように――もしかしたら彼女は、魔法使いなのではないだろうか?
何をバカな事を、とは思いながらもそう思ってしまった。
「ありがとうございます。ヒナギクさん」
とりあえずお礼だけは忘れないようにと、僕は表情を綻ばせながら言った。
もうあれから何年も経ってしまったというのに、彼女は自分を今でも変わらない友達と言ってくれたのだから。
「べ、別にお礼を言われるような事はしてないじゃない!」
「はは。でも、ありがとうございます」
また顔が紅くなり出した彼女を見て、つい笑ってしまう。
表情に出やすいところは以前と変わらない。
そんな僕を見て彼女がどこか面白くなさそうに不機嫌顔になるが、徐々につられたか自分と同様に笑い出した。
それからも他愛もないような会話を続けては、笑った。
時が経つのも忘れて、色んな話をした。
高校時代の懐かしい思い出から他の友人の近況、彼女自身の事など。
ただ、それらを全て語り合うには与えられた時間が少なすぎた。
停留所には既に、彼女を乗せるバスが到着していた。
「……本当、時間が過ぎるのなんてあっという間、か」
重い腰を上げるようにして、彼女は腰を預けていたベンチから立ち上がる。同様に、自分も。
「あの、ハヤテ君? その……良かったらまた今度――」
「また今度、会えませんか?」
僕が言い放ったそれに、彼女は目を見開いていた。
自分でも驚いた。意識して言った訳ではない。気付けば口にしていた。
「……え?」
「あっ! す、すみません! あれ、僕何言ってるんだろ……」
その理由はなんとなく解る。
多分、ここで何も言わずに彼女を見送ってしまえばそれで最後なのだ。
絶対とまでは言い切れない。今だってこうして同じ空間に二人はいるのだから、また何年後かに偶然やら何かが起こって会えるのかもしれない。
だけど、偶然はもう起こらない。だから桂ヒナギクとはもう二度と会えない。
漠然とそんな予感がしたから、自分は彼女に「また会えませんか」と言ったのだろう。
言った後で後悔する。そんな誘いを彼女が受ける訳がない――
「それじゃ、次はいつどこで会おっか?」
今度は僕の方が目を見開く番だった。
幻聴か、それとも何かの冗談かと耳を疑いかけたが、そうでない事は彼女の仕草を見てすぐに悟る。
僕の返事を待っているかのように、彼女が軽く首を傾げていた。
とっくに開かれているバスの扉の向こうに、「乗るなら早く乗れ」と視線で訴えかけてくる運転手の姿が見えた。
「え、えっと……あ、明日とかどうでしょうか? その、日曜日ですし」
動揺から、少し慌てふためいた口調で答える。
それに時間と場所の指定を付け加えて、僕は彼女の返事を待った。
「分かった。じゃあ、また明日、その場所でね」
彼女は身を翻して、バスの出入り口に足をかける。
振り返り際にそよいだ長髪が、太陽の光と同じ色に輝いていた。
「あ、あのっ……どうして……」
――自分の突然な誘いを受けてくれたのか、という言葉はバスの扉が閉められた事により遮られてしまう。
バスが動き出す。中にいた彼女がこちらに手を振っていた。
その時、彼女がとても嬉しそうに微笑んでいたのはどうしてだろう?
そんな事を考えながら僕は手を振って、走り去ってゆくバスを見送った。
――――――――――――
――――――――――――
「…………」
一人になり、当然のように周囲が静寂に包まれた。
特に理由もなく、再び停留所のベンチへと腰を預ける。
「……痛」
ついさっきまでは会話などをしていたおかげで誤魔化せていたのだろうか、また頭痛の波が押し寄せてきた。
フラッシュバックのような断片的な光景も変わらずに頭へと流れこんでくる。
自動販売機、凪いた夜景、そして……雪。
今度のは激しい頭痛ではない為、思考する事を許されていた。
それら、三つのキーワード。冷静になってみればなんて事はない。自分は知っていたのだ。
その光景を、何度も見た事があった。
「あの夢か……でもどうしてこんな時間に? しかも外で……」
夢。
そう呟いて、早々に思考を切り上げる事にした。
いくら考えても骨折り損だという事を、僕は充分に知っていたからだ。
白昼夢という言葉がある。今日のはそれが一番良く当てはまりそうだ。
目が醒めている状態で悪い夢を見た、ただそれだけの事だろう。
「さて、そろそろ屋敷に戻らないと……あ、そうだ。スーパーに買い出しに行かなきゃ――」
そこでふと、何かを忘れている感じがした。
電車の中にバッグを置き忘れて駅の改札を通り抜けてしまった時のような感じ。
なんだろう? 記憶力には自信があり、物忘れを起こす年齢でもない僕は顎に手を当てて考えてみた。
スーパーに買い出し……その言葉を口にした時に違和感を覚えたのは確かだ。
何故どうして、違和感など覚えるのか――その答えは実に簡単だ。
「……あれ?」
今日はもう既に買い出しは済ませたのだから。
一日に二回もスーパーに行く必要性など皆無だ。
しかし、それなら疑問が出てくる。その買い物袋は一体何処にあるのだろう?
少なくとも手元には無い。停留所の近くに置いてる訳でも無ければ、そもそもここまで歩いてくる途中に手に持っていた記憶も無い。
誰かに預けたのだろうか? いや、それはない。買い出しにはいつも通り一人で行ったのだからそんな事は……。
――わ、分かったよ、私もその買い出しとやらに付き合ってやるから、だからそんな目で私を見るなっ!
記憶を探っていると、そんな聞き慣れた声が頭の中に響いた気がした。
「……ん?」
氷に熱湯をかけた時のように、疑問が急速に溶けていくような感覚。
買い出しに行ったのは僕一人じゃなかった? もう一人、誰かが自分の隣にいて……。
誰かというのは考えるまでもなく、たった一人しかいない訳で……。
「…………」
その人は自分のご主人さまで、成人したけど背が小さい女の子で、一日中寝るのが趣味な人で、体力が幼稚園児にも負けちゃう人で、すぐに不機嫌になっちゃう人で、金髪ツインテールな人で、名前は三千院ナギという人で。
今、具合悪そうにしながら、ここではない場所で僕の帰りを待っている人で――
「○☆¥$@#♂△……!!」
綾崎ハヤテ、一生の不覚だった。
勢いよくベンチから立ち上がり、なりふり構わずに駆け出した。
一秒も待たずにバス停をあとにして、十秒を超えた辺りで先ほどの自動販売機の前を視認不可能なスピードで通り抜ける。
だが、急ブレーキをかけて方向転換。
ジュースを買っていかなればならないのを思い出した。
全くムダの無い動作で自動販売機にコイン投入、取り出し口からジュースをつかみ取り、そして再び全速力で道を駆けてゆく。
バス停から歩いて約十分以上はかかる距離をわずか三十秒足らずに詰めるという異常な脚力を見せ、僕は並木道に出た。
そこには、小柄な女性が木製のベンチに座っている姿があった。
それを見て安堵の息を零すが、内心、自分を責めていた。
こっちから一緒に買い出しに行こうと言い出した上に、具合を悪くさせておいて何十分もほったらかしにするとは何事だろうか。
もはや弁明の余地は無い。おそらく嵐のごとき罵声が三千院ナギの口から飛び出す事だろう。
僕はしっかりとその覚悟を決めて、
「す、すみません、お嬢さま! こ、こんなに遅れてしまって……」
蒼い空を流れる雲をただぼんやりと眺めている少女に、声をかけた。
To be continued,
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