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【残る香り、忘れていいんだよ】






――お休みなさい。
いつも去り際に律儀に残していくこの言葉が、疎ましくて堪らなかった。



きっと俺が寝てると思っているんだろう?
残念ながらお前の声が聞こえると嫌でも起きてしまうのに。


【残る香り、忘れていいんだよ】



今日も1日疲れたので癒されようかと思ってシャワールームへ足を向けると、携帯が鳴った。
バイブレーションの長さが、メールではなく電話なのだということを伝える。
画面に表示された、木ノ瀬梓という文字に少しどきっとする。
通話ボタンを押して聞こえる。愛しい声が。
「もしもし…?」
「なんだ、木ノ瀬か」
わざとではなく普通に振る舞うつもりなのに素っ気なくなるのは残念ながらいつものこと。発信者番号が画面に出ているから木ノ瀬だって分かって出ているのに。
「先輩、今から向かってもいいですか?」
正直な話、この言葉を掛けられるのは今が初めてでなく結構な頻度である。
そして、断る理由なんて存在しない故、また木ノ瀬を招き入れてしまう。
「別に…来ればいいじゃないか」
「ありがとうございます。」
言い終わらないうちに、もう答えは分かっていましたとばかりな応答の速さだ。
木ノ瀬はきっと寮と寮が離れているかなんて忘れるくらい、すぐ来るだろう。
心のなかで、少し嬉しくカウントダウンを始める。


2分後、ノックの音がする。
部屋の中から開いてるぞ、と声を掛ければすぐにノブを回しドアの開く音が聞こえる。なんと言っても寮生活なのだから質素で机とベッドが存在するだけの部屋に遠いも近いもない気がするが。
「先輩、」
そう名前を呼ぶ顔が愛しくて。
「木ノ瀬…」
目の前の相手の名前を口に出してみる。
そして目を覗きこまれ、唇が合わさる。
一般的に見てこの光景が起こる二人の間柄はきっと恋人――のようだろう。
その…愛し合っているように見えるだろう。


だからこの瞬間の俺は、錯覚する。
木ノ瀬が俺のことを好きだからキスしている、と錯覚する。
最初のころは心があるのかとどきどきしていた?
だが、多分このキスには意味など含まれてなどいない、と気付いて―――
「…」
急にちょこん、と座ったと思えば俺のいわゆる腰に近づいて、ベルトに手を掛けられて…。
もうその先なんて覚えていない。
ただ木ノ瀬の熱に溺れて、
ただ快楽だけに喘いで、溺れて。
いつの間にか長い ようで短いような夜が、終わる。
隣にいた木ノ瀬が、いなくなる。
ただ残るのは布団に微かに残るだけの熱と、香り。



明け方に去っていく背中を見て、たぶんこれは恋人同士のするそれとは違う、と毎回思う。
だけど木ノ瀬からの誘いを断ることなんて出来なくて、
「愛してないんなら、来るな」
そう言うことだって不可能。
だからまた求められたら従って。


(残る香り、忘れていいんだよ)


忘れることが出来たなら、どれだけ楽なんだろう。




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20100129


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あきゅろす。
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