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―記念文倉庫―

竜神の一族は大地の周囲を十重二十重に取り囲んでいて、竜の長は毎日1年365日、1日と欠かさず太陽を頭上に頂いて天空を東から西へ運ぶのが役割だった。

―――それを、放棄した?

そんな事は小十郎の記憶にある限り、過去数千年に渡って一度もなかった。
緩い感じのいい加減な野郎だと思っていたが、そこまで破天荒だったとは思いも寄らなかった。
小十郎は、里の者たちが家を飛び出し寄り集まって一体何事かと不安げに語り合っているのから、手近な木陰に身を潜ませて隠れた。
「うちの鶏も牛も目ェ覚ましとるのに、この暗さは一体どうした事じゃ」
「この風もおかしいよう…さっきまではそよとも吹いてなかったのに」
「竜神様のお出ましがないと言うのがそもそも…」
「そうじゃ、竜神様が姿をお見せになる阿武隈川の下流がうんともすんとも言わん」
そのように交わす言葉が風の切れ目に断片的に聞こえて来る。
「おい」と男は辺りの闇を払うような低い声を発した。
『へい』と男の足下に落ちる影に紛れていた小鬼が応じる。
「四方の雲海へ散って竜神どもの様子を調べて来い。輝宗様の動向が分かりそうならそれも」
『承知いたしやした!…あ、でも、小十郎様は…?』
ひょこり、と影の中から顔を出したのは3匹の小鬼たち。そのよく動くドングリ眼が忙しなく揺れていた。
「俺は仙台の辺りまで人間の様子を見て来る」
『その…竜神のガキも連れて、ですかい?』
「………」
男は辺りの風を読むように彷徨わせていた視線を、自分の腕の中に落とした。子供は、その視線に気付いて一度は振り向いたが、子供らしからぬ深刻な表情にその面を歪ませつつ再び俯いてしまった。
「手前がいずれ受け継ぐお勤めだ。そいつをサボったらどうなるか、今のうち身を以て知っとくのも良い勉強になるだろう」
『わかりやした、お気をつけて!』
『お気をつけて、小十郎様』
『お気をつけて!!』
3匹それぞれの声を残して、小鬼たちの姿も気配も消え失せた。男もそれを見送って、一息に北を目指して駆け出した。

顔に身体に叩き付ける強風と、まばらな水滴がより強く激しくなって来た。
「…梵はあとつぎじゃない…」
小さな子供の小さな呟きをそんな中で拾えたのは、やはり男が蔵王山の主である鬼神だったからだろう。田畑を取り囲む山並みにあっという間に踏み込み、その樹上をましらより素早く飛び渡る男はしかし、言葉を返さなかった。
「……星宿の"医"だって原因が分からなかったんだぞ…」
「………」
「この目の病はほっとけばいずれ全身にまわるって…!」
血を吐くような台詞を涙を堪えながら吐き捨てるのに、小十郎は返す言葉はなかった。
二十四の星宿は人間や神々に対して様々な専門的アドバイスを指し示してくれる。文字通り闇夜の指標だ。その中で"医"と言えば医術・医療に関する知識において右に出る者はいない。それに分からぬ原因、治せぬ病となれば、月を運ぶと言う単純な労働しか出来ない鬼小十郎に何を言える訳もなかった。
だが、これだけは言っておこうと思った。
男は言った。
「なら、見ておけ。神々が数百年数千年と生きるのに対し、人間の生命の短さを。―――人は呆気なく死ぬ」
「………」

山へ入ってあれよあれよと言う間に1つ峠を越した。
そこから見下ろす暗い大地には、本来なら陽光の元に先ほどの里とは比べ物にならない程大きな町がある筈だった。地名を岩沼と言う。南方へ下る街道沿いにあって、人やものの流れの中継点でもある。
宿場や町人町、武家屋敷が建ち並ぶ中で、この嵐に負けんと闇夜を辛うじて照らす松明を持って右往左往する人間の様子が、遥か彼方に見て取れた。
瓦屋根が飛ばされ、家屋の外に放置してあった戸板や桶などが道端を転がり、最悪な事には粗末なあばら屋で既に倒壊しているものもあった。
逃げ出した住人らは何処へ避難したのだろうか。明けない夜に怯え、叩き付ける雨風をしのぐ事は出来ているのだろうか。
男は山を下り切る事はせずに、その様を横目に見ながら田端の鎮守の杜の中を駆け抜けて行った。
その杜の中も、年寿を経た大木が音を立てて撓り、枝葉をばたつかせて凄まじい騒ぎだ。余りに年経た古木など絶え切れずにポッキリ折れて倒れ伏してしまうだろう。
ふと、小十郎は奔りながら顔を上げた。
樹冠が揺らぐ頭上から、冷気を纏ったものが音を立てて降り降りて来る。
雹だ。
何の前触れもなくそれは始まり、忽ちの内に視界を白く煙らせる程の勢いになった。
今の所は、爪の先ほどの大きさだ。
男は構わず駆けた。
右腕の中の子供は「痛っ!痛い!!痛いってば!」と喚いたがそれも無視した。ちょっと痛かろうと神が受肉したアルケーと言う存在がその程度でくたばる訳がない。
そんな事より心配なのは、この雹が巨大化して、屋外にたまたま出ていた者だけでなく、家中で震えて踞っているような女子供にまで被害を齎す事だ。上空10000メートル以上の高度で結晶したそれは、金剛石よりも強堅なパワーで人間が作り出したものなど容易に破壊する。

男のその危惧は杞憂で終わってはくれなかった。
岩沼から北へ20キロ。この小さな箱庭で2大勢力を誇る一方の中心都市である仙台へ到着して、その四囲を囲む山並みの1つに立った時には、雹は赤ん坊の頭大のサイズに膨れ上がり、密集した城下町を門前町を武家屋敷を、これでもかと言う勢いで襲撃していた。
ギリィ、
熾烈な音が傍らから降って来て、梵天丸は自分の頭を抱えていた両手を下ろした。見上げれば、自分を小脇に抱えて立ち尽くす男の横顔がある。
改めて見やった仙台の町は、ひっきりなしに降りしきる雹の蹂躙に身を任せ、その暴力から逃れ得る術がなかった。家々の屋根に大穴を開けるのは勿論の事、小川に掛かる橋や、強固と思われた土塀でさえも破壊して、更には道端の木々、町外れの果樹園なども薙ぎ倒していた。
その上、強風に煽られて破壊された建材が空を飛び、凶器となって民家に飛び込む。石の大垣ですら打ち壊した。壕を巡る廻船を沈め、馬車の荷車をただの木片に帰した。
これを前に鬼小十郎は、その名の通り壮絶な怒りの表情を刻み、歯噛みしたまま手を拱いて見ているしかなかった。この天変地異は蔵王山の主たる彼にも如何ともし難い。
太陽を空に昇らせる事が出来るのは竜神のみ。その"摂理"が行方不明となった事で、乱れた気がこのような異常気象を呼んだ。だとしたら、この無秩序に秩序を齎すのは当然、竜神の元にしかない。
だが、
「行くぞ」
と、そう短く言い放って、仙台の城下町を囲む尾根の1つから駆け下って行った男には、諦めと言う文字は存在していなかった。
超巨大な雹の降る町へ、真正面から突っ込んで行くこの蛮行に、梵天丸は思わず言葉にならない悲鳴を上げていた。

夜―――いや、本来なら日没の瞬間であるその時に、地上を騒がせていた天変地異は嘘のように静まり返った。
それと言うのも、昼日中、太陽を運んで天空を行く竜神がいるように、夜間、月を運んで夜の秩序を守る者が別にいたからだ。
蔵王山の筆を束ねて立てた山容のその麓に、物憂げに佇む座像。眉間に皺を寄せ牙を剥き出し、二本の角を持った威容で静かに半跏思惟のポーズを取るのは、鬼小十郎と人に呼び習わされる鬼神だ。
これが、肩に月を担いで山の端を歩く。
石で出来た体は夜の闇に溶け込んでいるが、立ち上がれば蔵王山以外のどの山より大きく、見上げる程の巨神である。これが足音もなく、人の眠りを妨げる事なく、夜を渡る。
月齢1にも満たない月は、髪の一筋程の光も齎さないが、確かに世界の秩序と摂理を守っていた。
人々は、小十郎が月を運んで行く眼下で昼の嵐に見舞われた己の住居や、世話をしている田畑や果樹園、植林地帯や漁場などを、細々とした灯りを頼りにせっせと片付けていた。
また月が沈み、"昼"と呼ばれる刻が来れば天の気が乱れるかも知れぬ。それに対する備えもしなければならなかった。
仙台の被害は、巨大な雹が降っていた時間が余り長くなかった事もあって、心配していた程ではなかった。しかし死者は十数人出た模様だったし、怪我人ともなれば、それこそ人間の医師らがてんてこ舞いで手が足りない程だった。
そんな中でアルケーの姿を取った小十郎は、倒壊した家屋に置き去りにされた老人や、山林で立ち往生していた村人らを救助するのに駆けずり回った。人外の力で瓦礫を掻き退け、一抱え以上ある倒木をえいやと押し退ける。
彼を人々は蔵王山の鬼だと知っていて畏れ戦きながらも、それが立ち去った後に地面にひれ伏し見送った。
アルケーの身体ではしかし、街全体を、いや、地上のあらゆる地域を襲った災害全てに手を差し伸べるのは不可能だ。
夜になり、本体であるエーテルを動かして月を運ぶ最中、小十郎はそれを思い知らされていた。
今、巨大な鬼の肩にちょこんと乗って、しおしおと長い髭をそよがせている竜の子供、梵天丸はどうだろうか?
『……小十郎…梵はおなかがすいたぞ…』
『…………』
のしのしと音もなく大地を歩く鬼小十郎は憤然と黙り込んだ。
どんな大木よりも太い左腕を伸ばし、夜気の中に漂っていた銀糸を鷲掴むと、半ば投げつけるように子竜に与えた。
神の食事と言えば、香木を焚いた煙や奇麗な空気に漂う霞、それに先程のような高高度に漂う金糸銀糸の形をした霊気などだ。
梵天丸は、竜の姿のその短い前脚で慌てて銀糸を絡め取ると、小さな牙の生え揃った口の中へするすると吸い込んで行った。
呆れてものも言えないとはこの事だ。
はふ、と言う満足そうな溜め息が聞こえて来て、月を担いでいない方の手で思わず額を抱えていた。
『あっ!小十郎、あれはなんだ?!』
『……あ?』と男が首を巡らせる隙もあらば、と言う所だった。
巨神の肩の上にその蛇体をだらりと垂らしていた梵天丸は、叫ぶとほぼ同時にぴょんと飛び跳ねた。それがさっと飛び去って行くのを手を伸ばして捉えようとしたが、その時には既に仄明るい姿は遥か彼方だった。
『な……』
小十郎は呆然と呟き、思わず立ち止まってしまった。しかし、子竜を追って踵を返す訳には行かなかった。肩に担いだ月が天を逆行してはならないのだ。
『おい!!』と男は歩みを再開させながら酷く凶悪な声で唸った。
『へい!』
『小十郎様、あのガキの事ですね!』
『取っ捕まえて、石牢にでも放り込んでやりましょうや!!』
そうした声が応えたのは、今、東方から蔵王山の南側を回って西方に進む道程の最中だった。鬼小十郎の足下は二位宿峠の辺りの闇に消えている。そこの山林からぴょんぴょん飛び跳ね、姿を見せた己が手下どもをしかし、男は苦々しげに見下ろした。
『…丁重に俺の所に連れて来い。人間に関わらせるな…』
主が何時になく弱気な命令を下すのを、小鬼たちは大木の梢の上から不思議そうに小首を傾げて見上げていた。更には何となく、互いに目を見合わせたりもする。
『分かったらとっとと追え!』
『へい!!!!!』
鬼の一喝に小鬼たちは文字通り飛び上がった。




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