―記念文倉庫― 4 豆粒、と言うより山林の上を飛び跳ねる蚤のような手下どもが子竜を追って行くのを見送って、小十郎は滅多に見せない長い長い溜め息を吐いた。 竜神と鬼神との間に実質的な上下関係はない。だが、かつて地上にあって人間を喰らう狼藉の限りを尽くして来た事のある鬼小十郎は、竜神によって打ちのめされ、天神によって蔵王山の麓に夜以外石像として封じられてしまった。その事から竜神には逆らえないのだった。 竜神に服従を誓った証しに、竜を唯一討ち滅ぼせる剣も授かった。人間で言うなら、鬼神は竜神に服属している形になるのだ。 姿を消した輝宗が何を考えているのかは分からないが、その跡継ぎを粗雑に扱う訳には行かなかった。 子竜、梵天丸が眼にも止まらぬスピードで飛び去って行ったのは、地上の2大勢力の1つ山形の北方にある尾花沢の温泉地区だった。 そこの宿や源泉地が前日の風雨と雹によって施設を破壊され、噴出する湯が宿場町や野山に溢れ出し、あちこちから白煙を噴き上げていた。 それが夜の山間から垣間見え、梵天丸は興味の赴くままにそこへ近付いて行った。 その先では、篝火を焚いた人間たちが、源泉の湧き出る岩山が崩れ溢れ出るままに道や民家へと流れて行ってしまう温泉を塞き止めようと、土嚢を積み上げ岩塊を組み直そうとしていた。 『ちょっと待ったぁ!!』 うおおおぉっ、と言う雄叫びと共にそんな声が上がって、地上すれすれまで降りて来ていた子竜の背に、どすんどすんと何やら重いものが降って来た。 『なっ、なんだ、お前たちっ!!』 勢い余って宿場町の真ん中に腹を着いて落ちてしまった梵天丸が、身を捩らせて自分の背の上で団子状に固まった小鬼たちに向かって喚いた。 『人里に降りてくのはダメだって小十郎様が仰ってただろうが!!!』 『しかもあんた今人間たちの前に姿見せようとしてただろ?!』 『竜神がその姿で人里に降りちゃぁ…』 3匹の小鬼が口々に喚く傍らで、既にその現象は起こっていた。 彼らがいるのは夜の宿場町の目抜き通りで、行き交う人の姿もなかった。だが、地鳴りが低く続いて、古い宿屋が天災の煽りもあって今にも崩れそうに揺れていた。 『人間たちが怯えてる!!』 その悲痛な叫びに、子竜は人間の姿であったら思い切り唇を尖らせていただろう。徐ろに己が蛇体を打ち振って小鬼たちを振り落とすと、竜の短い四肢を突っ張らせるなり、ふるり、と身体を震わせた。 竜神のエーテルから人の子のアルケーへ。 七色の鱗が輝いて、その仄白い光の中へ竜の子は消え、再び姿を現した時には前回と同様、高貴な身分の成りでどうだと言わんばかりに小鬼たちの前に立った。 3匹の小鬼どもが目配せする。 その意味を捉える前に、梵天丸は突然飛び掛かって来た小鬼らに押し倒され、もみくちゃにされ、その上手足の自由を奪われたまま担ぎ上げられた。 「なにをするッッ!!」 『小十郎様の所にお連れするんでさぁ』 「いやだ!梵はあれがみたい!!」 『それなら昼にでも小十郎様とご一緒にご覧くだせえ』 「いまみたいのだ!小十郎はジャマだ!!」 『静かにしてくだせえ、人間たちに気付かれる』 「いやだいやだいやだぁ!!わあああぁあぁぁぁあっ!!!!!」 小鬼たちに担がれた梵天丸は喚き続け、押さえ付けられた手足をばたつかせ続けた。それを悉く無視して小鬼たちは駆け出した。 受肉した神など、小鬼にとって赤子に等しい。再びエーテルに戻るより早くこの場を立ち去るにしくはなかった。 馬や狐よりも素早く、小鬼たちは宿場町を駆け抜けた。山を越え、森を抜け、大きな川に突き当たるとその上をミズスマシよりも速く滑った。 わあわあ支離滅裂に泣き喚いていた梵天丸は、月が通り抜けた後の夜空を見上げながら、やがて口を閉ざした。見上げる視線の先には二十四宿のうち、この季節にだけ現れる6つの星宿がゆっくりと天蓋を渡って行く様が見られた。 夏へ向かう星空、空気は美しく澄んでいる。 「―――…は、言ったじゃないか……」 駄々を捏ねるばかりだった子竜が小さく呟いたのを耳にして、真っ黒い小鬼たちが水面を渡りながら互いの目を見合った。 「こ、じゅろが、言った…人間のいのちの短さをみろって…」 『―――…』 返す言葉が見つからなかった。 子竜は小さいなりに己の責任をその目で確かめようとしていた、と言う告白に対して何か気の効いた台詞を言えるような頭を小鬼たちは持ち合わせていなかった。ただ、彼らにとって主である鬼小十郎が事を上手く納めてくれると、ただただ、信じている。 『…小十郎様のトコへお戻りくだせえ』と小鬼の1匹が小さく呟いた。 『そうっすよ…悪いようには致しませんて』 『おっかない方ですが、情には深く理には聡い方ですんで』 「………」 3匹の小鬼たちが代わる代わる申し入れるのに、梵天丸は口を噤んでしまった。 『あの…梵天、丸…様…?』 「…だって小十郎のやつ、いきなり梵をうったんだぞ!!」 『そりゃあ…』結界を破ろうとした子竜が悪い、と言おうとして、その小鬼は思わず吹き出していた。 『なら、今度の"鬼ごっこ"は巧くやりなせえ!』 その威勢の良い提言に、梵天丸は大きな左目をきょとんと見開いたまま固まった。 そしてやがて、「そうする!!」と元気に返す。 ひゃっほー!と言う奇声が上がって小鬼たちは、子供の身体を宙に放り投げた。 寒河江から最上川を遡って行く、正にその真っ最中の事だ。 放り投げられた少年が放物線を描いて川面に落ちて来る前に、小鬼の1匹が巧みにキャッチした。両手に子供を捧げ持ったまま、水飛沫を上げて蛇行する大河を滑り抜ける。更に次の小鬼へと子供の体を無造作に投げやれば、空中で梵天丸の体は鞠のようにくるくると回って、錦の着物が綺羅びやかに翻った。次の小鬼がその手をしっかと掴み取るや、アイススケートの如く少年の身体を振り回しながら己自身もくるくる回る。 梵天丸は、大きな声を上げて笑った。 右目を患って以来初めて、声を出して笑ったように思えた。 小鬼たちのキャッチボールにされた子供は思う存分笑ったようだ。 彼らが駆け抜ける際に飛び散った水の清々しさも、心地良かった。彼らの羽目を外したはしゃぎっぷりを見ているものと言えば、夜空に浮かぶ6つの星宿のみだ。夜の世界は穏やかだった、昼の天災の爪痕も気にならない程に。 「……お前たち、名は?」 一頻り騒いだ後、尚も大河を遡る中で梵天丸はそう尋ねた。 『俺は、佐馬助って言います』 『俺は文七郎』 『俺は孫兵衛です』 「………」 梵天丸は自分の体を担ぎ上げる小鬼たちを見渡して首を捻った。 「見分けがつかぬ…」 『そりゃ仕方ねえでさぁ!けど、竜のお姿でならきっとお分かりになるかと』 「そうか!」 言うが早いか少年は、小鬼たちの手を振り払った。 あっと思って小鬼らが振り返れば、そこには小さいながらも七色の鱗を輝かせた竜神が身をうねらせ、鬣を靡かせ、瑞雲を翻して迫り来ていた。 4本の脚の内のつで、3匹の小鬼を掴み上げる。 竜の飛翔は小鬼のそれに比べるべくもない。あっと言う間に広大な平原を横切り、間もなく蔵王山の威容を捉えていた。 夜の刻が終わって鬼小十郎の座像が蔵王山の麓に戻っても、梵天丸とそれを探しに行った小鬼どもが戻って来ない。 下界は、季節外れもいい所の大雪に見舞われていた。 この雪と寒さのせいで、田植えされたばかりの若い苗が殆どやられてしまう事だろう。衣替えを済ませてしまっている村人などは慌てて綿入れや七輪などを引っぱり出して来るだろうが、昨日の大雨と大雹の被害の傷が癒えぬままに、家を破壊された貧しい者たちは一体どのようにしてこの大雪を凌げば良いのか。 そんな事に苛立ちながら小十郎は、四方の雲海に散らした小鬼たちの報告を聞いていた。 小鬼たちは、物憂げに座す石像の足下にちんまりと踞って、大地の周りを取り囲む竜の巣―――雲海の様子を次々と語った。 『どうも竜神たちはいつもと変わらず、ぷかぷか雲海を漂ってるだけのようでしたよ!輝宗様を探しに行くでもなく!!』 『その輝宗様はお一人で"下"の天神様の所に行ったらしいっす。側近どもの姿は雲海にありやした』 『地上がどうなろうと奴ら知ったこっちゃねえんでさぁ!』 グルルルル…と大地の獣が不吉に喉を鳴らすような山鳴りが辺りに響いた。小鬼たちはビタリ、と動きを止めて息を呑む。 鬼小十郎のエーテルが不機嫌そうに唸った声だった。 『………ただひとつ、関係ねえかも知れねえんですが、気になる動きが…』 『何だ』と問い返す呟きは木枯らしのようにざっと吹き渡った。 『西の人間が"天神の船"なるもんを雲海に浮かべてたんでさぁ…』 『船だと…?』 西の人間と言えば、東の仙台を本拠地とする茂庭家と対立する、最上家に連なる者たちを言う。この両家が長年いがみ合い、戦ばかりしているのは、まあ、人間のサガであろうと小十郎も竜神も天神も気にも留めていなかった。 『天神の船ってのは、天神が地下へ降りる時に使ったもんだろうが。それを人間が持ってたってのか?』 『それが…絵巻物に描かれた船を元に造っちまいやがった、と言う事で』 『そう、そいつに砲台乗せて、兵や火器を積み込んで、雲海を渡ろうとしているらしいんでさぁ』 『竜神に戦を仕掛けようってのか?』 『まさか!!』 ふむ、と小十郎は考え込む。 最上家の宿敵は茂庭家だ。蔵王山がこの両家の間にある事から大きな戦にはならず、南北で領地を接している辺りに小競り合いが起こる程度で済んでいる。これを、雲海を渡って大地を回り込んで仙台に攻め入ろう、と言う魂胆らしい。 基本、神は人間のやる事に口出しはしない。気紛れで禍福を投げ与える事があっても、人間の影響力自体が余りに小さかったからだ。しかしこれは、天神の真似をして竜神の領域にズカズカ踏み込む行為だ。 ―――その事で輝宗様は天神と協議しに行ったのか? だから、竜神の他の一族らは平素と変わらず騒がず雲海を我が物顔で漂って、人間たちを牽制している、と。 恐れを知らぬ無謀な子供、と言う評価を竜神・天神両柱から下されている人間たちが、そこまで愚かだったとは思いたくはない。しかし、詰まる所、そう言う事なのだろう。 今、日中に太陽が昇らなくなって呻吟に喘いでいるのも結局、自業自得と言える。 そうは言っても、蔵王山の麓から見える人の世界はせっかく芽生えた新緑に山のような雪を被って、冷気と闇の沈黙の中に埋もれて行こうとしている。今日はこの程度だとしても、今後、ずっと陽が顔を出さなければ降った雪は溶ける事を知らず、空気が凍るままに雪の層を重ねて行く事になりかねなかった。 ―――ったく、手に負えねえなぁ…。 石像の姿ではままならぬが、両手で頭を抱えたい気分で小十郎は心中そんな事を零していた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |