―記念文倉庫― 2 ニューヨークまでのチケットを手に入れる為、カフェを移動してチェックインカウンターまで歩いた。手続きの為にパスポートを差し出すとちょっと待てと言うような事を言われて、その場に突っ立ったまま待った。 が、待てど暮らせど係員の男は戻って来ない。 成実がカウンターに寄り掛かりながらこっくりこっくりやり始めた。政宗は苛立ち紛れに英語の罵声を言い放つ。綱元は何時になくぼんやりとして覇気がなかった。 そして小十郎は、幾ら何でも遅過ぎる、と思い警戒の視線を周囲に走らせた。 ロビーとは打って変わって、余り人のいないカウンター前はその広さがより閑散とした静けさを齎していた。物好きなパックパッカーや、渋い顔をしたビジネスマン、あるいは多少裕福な地元民のくたびれた表情がちらほら見えるだけだ。 しかし―――、 「政宗様…」 潜めた声で呼ばれ、カウンター奥に罵声を放っていた政宗が小十郎の視線を追ってホールを振り向いた。その片目が靴音も高らかに掻き鳴らしつつ歩み寄る一軍を捉える。 ロシア軍人だ。 それが真っ直ぐこちらへ向かって来る。 「―――…」 綱元も一歩を踏み出し、その眇めた両目に鋭利な光を宿してそれを凝視した。その隣に小十郎が立ち、政宗の腕を引いて後ろに下がらせる。 制帽の下のアイスブルーの瞳はツンドラの大地より、冷たい。 「まさかとは思いますが、あのロシア兵…」と小十郎が呟いた。 「パスポート取られたまんまだぞ」と2人の男の背に政宗が声を掛ける。 「それでも捕まるよりはマシでしょう、竹中の手の者に」 「All right….」 言うなり、政宗は従兄弟の頬を張り手打ちした。 それが合図だった。 10人近いロシア兵の前に男2人が飛び出しその行く手を塞ぐ一方で、目の覚めた成実を引っ張って政宗が駆け出す。モスクワ市内へ入ってからも2つの空港を行ったり来たりして、従兄弟は疲労困憊のようだった。だが、今はロシア兵に捕まる訳には行かなかった。政宗は乱暴に腕を振り回し、怒鳴る。 「いい加減目え覚ませ!殺されてえのか?!」 ようやく事態の危急に気付いた成実は、背後で兵士と肉弾戦に入っている小十郎と綱元を振り向いて更に顔色を変えた。今度は凄まじい形相で政宗を追い越して、逆に引っ張り返して来る。 「何処行きゃいいんだよ!」とその背が喚く。 「とにかく市街地だ」と政宗は応えた。 「ここ来る時に直通列車に乗ったろ。あれでベラルースキー駅まで戻る」 「でも、荷物も何もかもねえぞ?!」 「命と荷物どっちが大事だっての!」 喚き合っていると後から追い付いた若い兵士に掴み掛かられた。 政宗は掴まれた腕を支点に遠心力で体を回し、その勢いを乗せて兵士の側頭部に回し蹴りを喰らわせた。だが、それをボクシングの構えで遮った兵士は薄ら笑いを零した。追加で成実が突っかかって行くが、それさえ軽くあしらわれた。 まともに闘おうとして政宗がずいと脚を踏み出したその時である。猛烈な勢いで駆けて来た小十郎と綱元がゴミ箱らしきアルミの箱で兵士を頭から薙ぎ倒していた。 「早く!」 この場は逃げるのが先決だった。 ロビーや通路を通り過ぎる際、傍らにあった片っ端のもの―ゴミ箱なり看板なり、キオスクの商品棚だったり―を蹴倒して追跡の手を緩めようとしながら彼らは走った。 空港と市内とを結ぶアエロエクスプレスのだだっ広いホームには特徴的な赤い列車が停まっていた。勿論改札など素通りだ。ロシア兵らはテロ対策で混雑したそこまで追って来ている。その上駅員や車掌らにまで追われた。それを悉く無視して、今にも発車しそうな列車に飛び乗った。 列車のデッキに又しても追い付いた兵士が歯を剥き出しにして小十郎と綱元の肩を引っ掴んだ。その顔面へ向けて政宗がストレートを叩き込む。綱元は仰け反ったその太り肉な体を力任せに追いやった。 狭い戸口に続いて押し掛けていた兵士と駅員などを巻き添えにして、彼は派手にすっ転んだ。 そして扉は閉まる。 「さすがに発砲して来る事はなかったな…」 遠離るホームを扉の窓から見送りながら綱元は溜め息と共に吐き出した。 「発砲許可がいるんでしょう。もしくは、俺たちが銃を持っていなかったのが幸いした」と小十郎は応えた。 「確かにな…だが―――」 言葉を切って綱元は、ダッフルコートの下から重々しいものを取り出した。 ロシア軍の正式採用大型ピストル、MP-443「グラッチ」だ。全体がスチール製なのでかなり重い。 「摺ったんですか…」さすがに呆れた調子を隠しもせず、小十郎は呟いた。 「仕方ねえだろ、俺たちゃ丸裸なんだ。あれば何かと便利だぞ…こんな風に―――」 向けられた銃口の行き先を小十郎だけでなく、政宗や成実も振り向いた。 そこにはこの列車の車掌と思しき制服姿の男が立っていて、息を呑んで彼らを見返していた。それへ向かって銃を振ってみせる綱元。 この地ではロシア語以外が通じる事が稀だ。その事はこれまでの旅程で痛感していたので綱元も何も言わない。ただ、とっとと行け、と言うようにもう一度車掌に向かって銃を振る。 ベラルースキー駅に到着した政宗たちは、列車の車掌室からこっそり線路側に降り立った。 ホームの乗客たちが少なくなり列車が車庫へと立ち退く前に、線路の上を突っ切って走った。 休む暇はなかった。 アエロエクスプレスの行く先はここしかないのだから、待ち伏せされている可能性も大いにある。 駅舎は待合所のようなもので、素朴なベンチが並べられたロビーがあるだけだ。そこへのこのこ出て行くつもりはない。各地から何本もの列車が乗り入れるプラットホームの前を横切って走り抜け、線路脇の土手から叢に飛び込んだ。そこから先はもうモスクワの市街地だ。 古めかしい煉瓦と、赤や青、あるいは黒灰色のスレート葺きの屋根を持った平凡でもの佗しい町並みが続く。 その日陰の道端にあったオンボロベンツを拝借して、4人で乗り込んだ。 「空路が駄目なら陸路を行く」 クラッチを入れた所で後部座席から声が上がり、小十郎と綱元は振り向いた。そこには未だ息を切らせた成実と、強張った意志で左目をギラつかせた政宗がいる。乾き切った口中を唾液を嚥下する事で潤し、青年は更に言う。 「日本へ戻る最短ルートは何だ」 小十郎は綱元と視線を交わした。 「パスポートを失った今、日本大使館に助けを求めるのが一番安全かと…」 小十郎の言質に政宗はその隻眼を更に鋭くした。 「俺たちの安全の話をしてるんじゃねえ」 「俺ら結構警察に睨まれてると思うぜ〜。大使館に行ったら却って色んな事バレんじゃねえの?」 政宗の威嚇の声に被せて成実がそう言った。そうして後部座席から身を乗り出すと、2人の過保護な男たちの横顔を交互に見やる。 「俺一度、シベリア横断鉄道に乗ってみたかったんだよね」 「そいつはパスポートいらねえのか?」と行く気になっている政宗が更に被せて言う。 「まさか…車掌が乗車券と共に確認しに来ますよ」 「何とかなるだろ…、少なくとも列車内部は密室だ。飛行機で国から国の間を移動するより"安全"な筈だ」 違うか、と青年の左目が戸惑う男たちの横顔を睨め付ける。 幸いにも、と言うか、シベリア横断鉄道始発駅の一つであるヤロスラフスキー駅は、ここベラルースキー駅と程近い。 ベンツを乱暴に走らせそこに辿り着いた彼らは、列車の前で乗車券を確認する車掌たちの目を盗んで3等車両へ忍び込んだ。 列車はその日の午後一番に発車した。 彼らが乗り込んだそこは、特等車や2等車と打って変わって人間のすし詰め状態だった。 貧しいロシア人の他、途中から行き先を変えて中国韓国に向かうと見られるアジア人、更には終着駅のハバロフスク駅から日本へと出稼ぎに出ようかと言う人々でごった返していた。 そう言う事情もあって正規に乗車した訳ではない政宗たちは、数時間おきに乗車券の確認に来る車掌の目を盗んでコソコソ逃げ回ることが出来た。そもそも、彼らの他にも無断乗車している人間は何人かいて、それらが目くらましにもなっていたのだが。 夜になって車内も落ち着くと、通路に溢れた人々の間で綱元と成実は騒音にも負けないぐらいの高鼾を掻いて寝入ってしまった。 2人とも余程疲れていたのだろう。鼻を摘まれても、もしや通路を歩く人物に踏まれても起きそうになかった。 政宗は、息苦しくなる程見知らぬ他人と一緒になって座り込んでいた通路から立って、車両と車両の間のデッキに向かった。 昇降口のあるそこは、隣の車両に移るまでのほんの僅かなスペースしかない。その上車両の連結部分がデッキから丸見えで、荒捲く風に吹きっ晒しとなっていた。その為、空調の効いた車両内部から出てここに横たわろうと言う者は皆無だった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |