―記念文倉庫― 1 レニングラード州サンクトペテルブルグはロシア第2の都市であり、その市街地を縦横に走る運河と美しい町並みから「北のヴェネチア」と讃えられていた。 その運河を臨み、自前の遊覧船を何艘も持つ邸宅の一つに2人の日本人の姿があった。彼らは美しい彫刻の施された大理石のテーブルの傍らに立っていたが、その上に広げられた巨大な地図を前にほんの僅か言葉を途切らせていた。 やがて、痩身で小柄な男がやんわりと口を開く。 「彼らの選択肢は余り多くは残されていない。ここから更に西へ向かいヨーロッパの国々、雑多な人々の波に紛れてほとぼりを冷ますか、一路東を目指して日本へ舞い戻るかどちらかだろう。速攻で逃げ出すなら後者を選ぶ。何せ、ロシア連邦は僕たちの庭みたいなものだからね。僕も日本に逃げ込まれてはこれ以上追跡するのは無理だと思う。だから、愚かな選択をするようちょっとした工作を施す事にした」 「どのような?」と言葉の切れ目に低い声が差し挟まれた。 若い男は何の気もなく、それに応えた。 「例えば、日本に残っている大切な人の身の上に危険が迫っているとか言う情報だね。彼らには確かめる術はないし、見過ごす事も出来ないだろう」 「人質か」 「僕らを敵に回したんだ、当然の報いだろう」 「何故、それ程までに拘泥わる」 指摘された事が意外だったのか、細身の若い男は地図から視線を離してゆっくりをテーブルを回って歩いた。 「君がまさか彼らに同情するとは思えないけど…、彼らは僕たちのビジネスの邪魔をした。そしてこれからも邪魔し続けると臆面もなく宣言した。これを放っておけるのかい?」 「他に理由がありそうだ」 低い男の声は、その野太さからは予想し得ない程思慮深く言葉を発した。しかし若い男はその杞憂を軽く一笑に伏す。 「何もありはしない。ただ君の邪魔をする者に容赦がないだけだよ―――秀吉」 終に男は口を噤んだ。 彼の自分に対する思い遣り、いや忠誠心と言って良いだろう。それにはとことん甘えさせて貰っている、とそう自覚している。自分の何処にそれ程の価値があるのかとひっそり心中首を傾げたりもするが、彼の助力は真に得難いものだ。だから秀吉の口に昇るのはいつも優しい気遣いのみだった。 「ここの寒さは辛くはないか、半兵衛」 「…いや、そうでもないよ」 「まことか?」 「水はそのままでも十分美しい、けれど凍って結晶となるとまたひと味もふた味も違う。―――サンクトペテルブルグはそんな街だよ。凍り付いて尚美しさを増す。僕はそんな所がとても気に入っている」 言って半兵衛は、漆黒の窓枠に切り取られた外の景色を顧みた。薄曇りの空は白茶気ていたが、深い春の日差しはその中で明らかに強く輝く。 「ともかく」と言葉で気分と空気とを区切って、半兵衛は再び地図に目を落とした。 「彼らが今モスクワにいるのは間違いない。ここから飛行機に乗って一息に日本へ帰られては困るから、2つ、布石を用意しよう…」 半兵衛は、白いスーツのポケットに突っ込んでいた右手を出して、地図の上に翳した。その細い指先がこつり、と小さなものを置く。 それはチェスの駒だ、ナイトとポーンの形をしている。置かれたのは地図上のモスクワ市内。 2人の視線は言葉もなくそれに落ちていた。 モスクワ市内には、シュレメーチェヴォ国際空港とドモジュドヴォ空港の2つの大きな空港がある。 そのうちの一つは利便性が悪く、職員の対応も悪辣で悪名ばかりが名高い。そこを避けて近現代化に成功したドモジュドヴォ空港に赴くと、日本行きの便がテロの予告を受けたとかで悉く運行を中止していた。もしかして、と思いつつももう一つの空港に移動してみれば、やはり同じ状態だった。 成実や綱元と合流した政宗と小十郎は、空港内の簡素なカフェで思わず溜め息を吐いていた。だがそうしてばかりもいられないので、今後の移動先を皆で話し合った。 「やはり、一度ヨーロッパに入った方が安全かも知れません」 呟いた小十郎の背後、ガラスの壁面の向こうでは次々と飛行機が飛び立っている。 日本便だけでなく西側の極東アジアへ向かう便には10分から数時間の遅れや、飛行本数の制限が設けられて空港ロビーの中は乗りはぐれた乗客たちでごった返している。それとは打って変わって、西へ行く便は規制も掛けられず悠々と大空を飛んで行った。 「それだったら遠回りになりますが、大西洋を越えて一時アメリカに潜伏した方が良いかも知れませんぞ…。何せ相手はロシアン・マフィアと手を組んでいる様子、ここも知れるのは時間の問題でしょう」 続く綱元の言葉にも疲労の翳りが濃い。 彼らがサンクトペテルブルグを脱出したのは数日前の夜明けの事だった。 運河の氷も粉砕機を使わずとも砕けて流れる季節になったとは言え、気温は未だ2桁を越えるかどうかと言う所だ。そんな中を手漕ぎのボートで逃亡する事半日、路地を駆け抜け他人の車を無断で拝借した政宗たちとは別行動を取った成実と綱元は、ロシア鉄道に無賃乗車を果たした。その発覚を恐れつつ、冷たいデッキで眠れぬ一昼夜を過ごしてモスクワに到着した2人は、心身共に疲れ切っていた。 無論、眠っていないのだから今の綱元と成実の目の下にはくっきりとした隈が出来ていて、非常にグロッキーな表情を政宗の前に晒していた。 怠さと疲労が身体の中に泥のように溜まっているかのようだった。 「忌々しい野郎共だぜ…時代遅れの陰気な匂いがぷんぷんしやがる…」嘯いて政宗は手元のカップに口を着けた。 ぶっ、 吹くと言うよりカップの中で咳き込んで、彼はカップを狭いテーブルに叩き付けた。 「何だこりゃ?!」 喚くのへ綱元が苦笑を寄越しつつ応えた。 「クワス、とか言うロシア独特の清涼飲料だそうですよ。原料はライ麦と麦芽で、発酵させてる所を見るとエールのようなものですかね…。目が覚めます」 「………」 政宗は口の中に残る甘酸っぱさや苦さを舌の上で転がして何とも言えない表情を作った。これならペットボトルの水の方が余程マシだった。 「There is no help for me….(仕方ねえ)モスクワから直行便が出てるのは何処の都市だ?」 「ベルリンかプラハ、ですかね」ちびちびとクワスをやりながら綱元が再び応える。 「ニューヨークまでの直行便が出ている筈です。今はシーズンオフなので詳細は分かりませんがフライト時間はおよそ9時間です。そこから日本だと14時間てとこですか」 こちらはしれっとした顔で小十郎が応え、何の抵抗もなくクワスを呑み干した。 味覚が狂ってやがる、とは思いつつも閉口して言葉が出ない政宗だ。どちらにせよ、ユーラシア大陸のど真ん中で西も東も遥か遠い道のりには変わりがなかった。 「All right. 癪に障るがそっちのルートで脱出する」 そう言ったタイミングを見計らったかのように、政宗の携帯電話がバイブを鳴らした。空気読めよな、などとぶつくさ零しつつもオーバーオールの内ポケットからそれを取り出して、政宗は微妙に片眉を上げた。 「俺だ」と言って通話に出た青年の左目が、ふと虚空を睨む。 黙って相手の言葉を聞く事暫し、最後に政宗は「怪我はないな?」とだけ尋ねた。 そうして返事を聞いて満足したか、口の端をひん曲げて陰気な笑みを刻むと黙って通話を切った。 「どうしました?」と小十郎が尋ねて来る。 政宗の左目はさっと2人の男を見やって、手元のカップの上に落ちた。 「喜多が何者かに拉致られた」 「―――」 「………」 2人の反応は淡白だった。 身内であり、又伊達家をしょって立つ同志でもある彼女の身に起きた事に動揺を示す程、彼らも緩い腹の括り方をしている訳ではないと言う事だ。 「他の事は又追って連絡するってよ…。わざわざ喜多の携帯使って俺に国際電話掛けて来る辺り、本っ当に忌々しいよな。それで俺たちが動揺するとでも思ってやがる」 「竹中半兵衛の策でございましょう」 冷ややか、とさえ言える口調で小十郎は静かに呟いた。まるきり相手にする価値などない、そう言いたげに。 「ともかく、日本への航空便に対するテロ警戒が何時解けるとも知れません。ニューヨークまで今直ぐ移動しましょう」 「…いいのか、小十郎?」むしろ気遣いを見せたのは政宗の方だった。 「今の俺たちに彼女にしてやれる事はありません」 「ま、そうですな」 小十郎に続いて綱元も頷いた。 2人の余りの冷静さ振りに、政宗は苛立ちを隠し切れなかった。 「…って聞いてんのか、バカシゲ!」 怒鳴るなり、政宗は自分の隣に腰掛けた従兄弟の頭を思う様はたいた。しかし、体を丸めた成実の反応は鈍かった。うー…と長く長く呻いた後に、恐ろしく据わった眼で政宗を顧みる。 「何でも良いからとにかく寝てから」 平坦な声音でやけに殺気を籠らせる相手に、流石の政宗も言葉を呑み込んだ。 [*前へ][次へ#] [戻る] |