短編
俺は父親、君は母親
『───私、産むから。絶対に』
妻は確固たる信念を滲ませて、そう言った。
彼女がさするその大きなお腹には、俺と妻の子供がいた。
小さい小さい、女の子だ。
俺は反対した。
駄目だ。君の命が危ない。子供は諦めよう。
妻は病気を患っていた。
末期の癌。もう手遅れだった。
次第に弱っていく妻の体で、出産は命の危険があった。
『───命を落とすかもしれません。諦めるか、産むか。どちらか選ぶしかありません』
医者の言葉に、俺は悩んだ末、妻を選んだ。
心底好きになって、口説いて口説き落とした最愛の女。
失いたくない。嫌だ。
だが妻は、反対だった。
『秀ちゃん。私は女なの。女である限り、私は生きた証として子供を残したいの。それにね、もう手遅れだよ。私、もうこの子を母として愛しちゃってるんだから。殺すなんてこと出来ないよ』
そう言ってお腹をさするその顔は、まさに母親の顔だった。
俺は無様に泣いた。
妻は、年甲斐も泣く俺を優しく抱きしめた。
『秀ちゃん。ごめんね。私、死んじゃうけどさ、一人じゃないよ。この子がいるから。一人ぼっちじゃないからね。この子のこと、愛してあげてね。秀ちゃんは、お父さんなんだからさ』
そうして、妻は赤ん坊を産んだ後、亡くなった。
────………
あれから普通の元の日常に戻った。
子供、───妻が残した宝に、日向と名付けた。妻が希望した名だった。
あたたかい子供に育ってほしい。
その願いからだ。
今、俺と日向は妻の実家に住んでいる。
俺の両親は小さい頃に死んでいていない。
『───君は私達の息子同然だ。うちに来なさい』
妻の父と母にそう言われた時は、涙を滲ませながら感謝した。
この人達も、俺の大切な家族だ。
それにしても、育児と仕事の両立は難しい。
正直、義父さんと義母さんがいて助かる。仕事の間、日向の面倒を見てくれる二人には感謝せずにはいられない。
だが次第に育児にも慣れていく中、義母さんから言われた言葉に俺はご飯を食べる手を止めた。
「───日向ちゃんね、最近ぐずったりしないのよ」
「え、あの日向が?」
「そう。全然。不思議ねぇ。でも助かるわ。今、農作業で忙しいから」
「………」
日向はよくぐずる。まぁ、赤ん坊だからしょうがないと思うが、日向のぐずりようはちょっと半端ない。
だから、義母さんから言われたこの言葉が疑問に残った。
その夜、日向に俺は言った。
「日向、どうしたんだー?何かあったのか?」
赤ん坊が返事をする訳もなく。
ただただ日向は、あー、とか、うー、と言うだけだった。
何か病気じゃないといいが。
『───秀ちゃんはお父さんなんだからね』
あぁ。
もうお父さんだよ。
────………
今日は仕事が早く終わった。
家に帰ると義母さんが慌てた様子だった。
「あぁ!よかったわー。ちょっと近くのタイムサービスに行ってくるから、日向ちゃんお願いねっ」
そう言って、義母さんは財布を片手に自転車をぶっ飛ばしてスーパーに行った。
主婦は凄い。それしか言えない。
さてと、日向のとこに行こう。
しかし、汗もかいたこのスーツで日向を抱くのは気が引けた。
着替えようと、俺は軽い普段着に着替えた。
その時。
居間の方から日向の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「?…チビか?」
チビは飼ってる猫のことだ。時々チビは日向の面倒を見てくれる良い猫だ。
もしかしてチビが日向のベビーベッドに上がってじゃれついてるのかもしれない。
赤ん坊と猫がじゃれつく姿は可愛い。
想像して俺は微笑んだ。
さて、着替えたし日向のとこに行こう。
あ、チビとじゃれついてるならカメラに撮って置こう。そう考え、デジカメを取った。そして居間に向かう。
きっと可愛いんだろう。
プリントしてアルバムに飾ろう。
死んだ妻の代わりに、日向の成長を見届ける。それが俺の使命だから。
実家の家は古くいわゆる昔の家。年期がある廊下を歩くと、ギシギシと鳴り響く。この音が、小さい頃の妻は怖くて嫌いだったという。
ギシギシと音をたてながら、デジカメを片手に廊下を歩いた。
すると
キャッキャ
日向の声が聞こえた。
なんて楽しそうな声だろう。
まるで何かと戯れるているような。
チビ、か?
そう考えた瞬間
「───ニャー」
「───、チビ?」
俺の足に突然まとわりついた白い毛の塊。
チビだ。日向と一緒にいたと思ったチビが今、俺の足元にいた。
キャッキャ
それじゃあ、日向は何故あんなに楽しそうな声をあげているのだろう。
義母も義父もいない。この家にいるのは俺と、まだ歩けない日向、だけ。
「…なんなんだ?」
心底不思議に思った。
ギシ
廊下の音が響いた。
俺は廊下を歩き居間の襖を開けた。そして中に入り、さらに奥の部屋へと足を進めた。
「まー、まー」
日向の声がした。
まー、まー…?
俺は日向が寝ているベビーベッドに目を向けた。
刹那───
手から、カメラが落ちた。
「────沙、耶」
声にならないかすれた声が俺の口から出た。
そこに、ベビーベッドのそばにいたのは、一人の女───俺の最愛の妻、沙耶。そう。癌を患い、日向を産み死んだ沙耶だ。
ベビーベッドの柵に手をかけて、沙耶は日向をあやしていた。
日向の髪を撫で、小さな手を握り、日向をあやしていた。
『最近ねぇ、日向ちゃんぐずらないのよ。珍しいわね』
義母の言葉が頭をよぎった。
違う。
沙耶が日向をあやしていたからだ。
死んで、なお、沙耶は日向の面倒を見てくれていたのだ。
「まー」
日向がそう言う。
まー
まー
『────ま、ま』
日向は「ママ」と呼びながら、沙耶にその小さな手を伸ばしていた。
その手を沙耶は「母」の顔をしながら、愛しそうに握った。
その光景は、まさに
────母子の姿だった。
沙、耶。
沙耶。
「沙耶」
確かな声で妻を呼んだ。
俺の声に沙耶が振り返る。
沙耶は、まるで悪戯がばれた子供のような表情を浮かべた。そして、ふわりと柔らかく微笑んだのだ。
「秀ちゃん」
久しぶりに聞いた、沙耶の声。
「これからも、日向のことよろしくお願いします」
そう言って、沙耶はすぅっと溶けるように消えていった。
沈黙が居間を支配する。聞こえるのは、時計の音、だけ。
「あー、まーまー」
日向だけが、消えた母、沙耶を呼んでいた。
涙が止まらない。
視界がぼやける。
沙耶。
沙耶。
心配だったんだね。
日向に会いたかったんだね。
妻の日向に対する深い愛情。それが身に染みて肌でわかった。
沙耶は、立派な「母」だよ。
死んでも、子を見守る沙耶は立派な母親だ。それ以外の言葉なんて、思いつかない。
震える足をなんとか動かして、日向の元に歩み寄る。
「まー、まー」
日向は、まだ、沙耶を呼んでいた。
消えたことを理解していないんだろう。たった1歳時。
「日向、っ、…お母さん、どうだった…?」
「まー」
「沙耶が、お前の面倒、見てくれてたんだな。なぁ、日向。楽しかったか…?」
駄目だ。
日向の顔がぼやける。
頬が濡れている。
涙が、止まらない。
「…っ…、…」
沙耶。
沙耶。
『これからも、日向のことよろしくお願いします』
安心して。
何があっても、俺はこの子を守り、育てるから。
俺は「父親」を放棄しない。永遠に、俺は「父親」だ。日向の「父親」だから。
だから、安心して。
沙耶。
君も、永遠に、日向の「母親」であり俺の「妻」だよ。
沙耶。
────………
それから、沙耶が現れることはなくなった。
時折、日向は「まー」と呼ぶ。
本能で母がいたことをわかっていたのかもしれない。
沙耶。
君は天国から見てるか?
俺は男で父親で、やっぱり母親にはかなわないよ。毎日それを実感する。
まだまだ新米の父親だけど、頑張るよ。
だから、いつまでも天国から見守っていてくれないか?
沙耶。
愛してる。
ありがとう。
俺は父親、君は母親
(そして日向は俺達の子供だよ)
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