TickeT
理由あり存在(2)
そう、無くなった物は一つであって、無くなっていない物もあった。
彼に会った事を何かのために──例えば記憶喪失でいいから──忘れ、それでもなぜか名前だけが浮かんでくるという状況なら、今の状況よりもなんとかできるだろう。
しかし今は、記憶喪失でもないのに名前を忘れ、その上名刺からも名前が消えるという考えられない状況にいた。
「記憶程あやふやな物はありません。いかに強いものであろうと、受けたときのままではありません。
それに『会った』という記憶だけではその人間の中から像は出てきません。ですから私達は記憶という物をそれ程気にしていないんです」
「はあ……」
心の中では「何を言っているんだ」と思いつつ、相槌として声を出した。
「──しかし、名が紙面上に文字という見返すことのできる形で残っていては、それを見る直す人間の頭の中にも残り続ける事になります。そのようなことは名を核として体を成し、この世に現れるという懸念に繋がります。
つまりは『記憶』と『記録』の違い。記憶は個人の中に停まり続け、いずれ色褪せていく。記録は多方向へ進み続け、先に語り継がれる。前者は褪せていく上に、直接他者の物にはできませんが、後者は容易く伝えられる。口約束と契約書の差はここにあります」
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